第3話 ケイコク

 午後八時の臨海警察署はごった返していた。

 浮浪者も容易に招き入れてしまうほど無用心に広いロビーの奥に入ると、署内は、隅々までガラス張りのオープンフロアになっている。まるであらゆる住民に媚びているかのような造りだ。そこは署員も部外者も群がって思い思いに動いているだけで、雑然として規律がない。

 待合コーナーの据え置きのテレビが、中国とアメリカの関係が悪化し、近い将来戦争になる危惧があると、繰り返し報道している。

 共産党の最高指導者が画面いっぱいに映され「すでにアメリカ、日本に我々はケイコクを送った」と警告をしている。

 そういう剣呑なニュースが雑踏に被さり、この日本も巻き込まれずにはいられないだろうと、人々の不安をさらに煽っているのだ。

 三階取調室のドアの前で、赤井は、吹き抜けになった一階フロアを見下ろしながら、カップコーヒーを飲んでいる。新しい署が稼動しはじめると共に喫煙場所もなくなった。昔は取り調べもたばこを吸いながらやっていた。だが今では、根を詰めてできない。

 背中でドアが開く音がし、赤井は振り返った。

「先輩、休憩はそろそろ切り上げてください」

 後輩刑事が呼んでいる。

 赤井は、もう少しだけ、とカップコーヒーを目の前に差し出して見せた。

「すまん、ちょっとどいてくれ」

 その手に横からぶつかってきた者たちがいる。赤井は、あやうくコーヒーをこぼすところだった。

 狭い回廊型の通路に、三人の刑事に取り囲まれて、僧形の男が連行されてきたのだ。

「その坊主が何かやったのか」

 思わず、赤井は刑事の中のひとりに尋ねた。

「無銭飲食だよ。街のレストランで警察官相手に大乱闘を始めやがった。恐ろしく強い坊主だったよ」

「少林拳かな?」

「カンフー映画じゃねえぞ」

 彼は赤井の軽口に突っかかってきた。取り押さえるのに大変な苦労をしたようで、口調に余裕がない。ところが坊主の方は平然として、その、のっぺりとした顔に笑みさえ浮かべていた。

 この街には、奇妙な人間がごろごろしている。

 まったく嫌になるな……と赤井は思わず毒づいた。

 担当している取調室の隣に、坊主と刑事が入っていくのを見届けると同時に、ドアから後輩刑事がにやけながら出てきた。

「それにしてもあの容疑者、すごい美人ですよね」

 赤井は、うんざりした顔になった。

「おいおい、まだ若いが、あれでもやくざの情婦だぜ。お前のようなガキは、化粧で騙されてしまうんだ」

「でも、現実に山岡組の組長は、彼女を奪い取るために子分をピストルで撃ち殺し、結局、組を潰して逃亡してしまったんでしょう?」

「本当の理由は当事者のあの女にしかわからんさ。で、少しは口を割ったか」

「ぜんぜんダメです。黙秘権、というより、どうも日本語がわからないようで……」

「日本人じゃないのか」

「ここらは最近急に人が増え、人種の吹き溜まりのようになっていますからね」

「それはてこずるな」

「あの木村さんでも手に負えない様子でしたよ。さて、僕は報告書が山のようにたまってるんで。そっちが片付いたらすぐに応援にきますから」

 そういい残すと、後輩刑事は名残惜しそうにして行ってしまった。

 赤井はため息をついて、取調室のドアを開いた。



 部屋の中は、息が詰まるほど狭い。

 窓はあるが、常にブラインドを下げ、夜か昼か分からないようになっている。照明が暗いのは、容疑者の気持ちを揺さぶる演出でもある。

 赤井が入ると、背を向けて座っていた同僚の木村刑事が、はっとした顔を向けた。スチールの机を挟んで、ふたつの影が慌てて離れたような気配が見えた。

 まさか、女の手を握っていたのか?

「お邪魔だったかな」

 ふざけてみた。

 すると木村の顔が見る見る赤くなった。

「馬鹿なことをいうな。なだめてもすかしても、なかなか吐かなくて困っているところだ」

 飴と鞭。刑事は容疑者から話を聞き出すのに、いろいろな手を使わなければならない。どうやら、そういうことらしい。

 が、相手が外国人だとしたら、やり方を根本的に替える必要がある。

「中国人か。通訳がいるか?」

「いや、日本語はわかるようだ」

 赤井はパイプ椅子を引き寄せて、木村と女の間に座った。

 女の顔を覗くとすぐに、それほど美人ではないな、と思った。

 化粧も予想に反して薄く、田舎臭い。鼻立ちはくっきりしているがどの部分にも個性が感じられなかった。まず、どこにでもいる痩せ女である。

「名は?」

「それもまだだ」

 赤井は女を睨んだ。

「情婦のあんたが組長をかばう気持ちはわからんではないが、何人かの男が殺されているんだ。現場を見ているのはあんただけ。いい加減、そのときの状況を話してもらえないかね」

「……もう何度も聞いたよ」

 女はじっと赤井を見つめるだけで一言もない。赤井は思わず机を拳で叩いた。

 女の目から涙が滲み出してきた。

「ほらほら、これだ」と、木村。

「参ったな」

 どんなに質問を繰り返しても、同じことだったのだろう。

「しゃべらなければ殺人幇助だ。わかるね」

「それも教えた」

「いつまでも男をかばうとあんたも人殺しの仲間ということになる」

「もちろん、そのくらいはわかっているはずだ」

 赤井は思わず木村を振り返った。

「木村」

 木村は薄ぼんやりした顔を向けて、なんだ、と答えた。赤井は無性に苛々していた。

 胸ポケットからたばこを抜き出して、口に入れた。

「ここは禁煙だぞ」

 と木村が大きな声を出した。

 赤井はたばこをくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。

「お前を尋問しているわけじゃない。いちいち横から口を挟まずに、ちょっと黙っていろ」

「すまん、だが、相手は女だ。もう少し柔らかく話してやれ」

 赤井はこのとき、はっといつもと違う何かに気づいた。が、何が変なのか、まだわからない。

 赤井はもどかしげに木村を見た。

「だいたい、お前のような悠長な取調べでは悪党を逃がしてしまう。俺たちには時間がないんだぜ」

「それもわかっているよ。だがやり過ぎはいけない」

「何が」といいながら、赤井は席を蹴って立った。

「お前、俺に意見しているつもりか。売女ひとり吐かすぐらいで手間取ってるんじゃねえ」

「待て、売女だと!人権侵害だぞ。彼女を侮辱するな」

 釣られて木村も立ち上がった。

 それで悪ければ、といいかけてやめた。

 険悪な雰囲気が狭い部屋に満ちた。

 赤井は肩で息を整えた。気持ちを落ち着かせようと必死になった。木村を憎んでいるわけではない。赤井の理性がそう教えた。

 女を見た。

 憂いを帯びた黒い目が、相変わらず赤井に向けられている。美人ではないが、この目だけは宝石のように綺麗だと思う。

 突然、赤井に後悔の気持ちが湧いた。

 ――女に罪はない。

 この女をここまで落した、やくざが、憎く思えて仕方なくなった。だが、そのやくざを捕まえるためには、まず、この女から情報を得なければならないのだ。

 ジレンマが赤井を再び激昂させた。

「木村、お前には任せられん。あとは俺がやる、しばらく席をはずしてくれ」

「馬鹿をいうな。ふたりだけにできると思うのか」

「お前、それはどういうことだ……ひょっとして、妬いているのか」

 そう言った赤井の襟元を、木村が鬼のような形相で捩じ上げた。赤井は首を揺さぶられながら、自分の言葉に驚いていた。

「妬く?」

 まさか……。

 こんな女、美人でもなんでもない。どこにでも転がっている田舎娘だ。

 赤井は混乱した。

 木村も同じ混乱を感じているのかもしれない。ぶるぶると頭を振った。制御できなくなった感情の奥から、どす黒く苦々しい感情が頭をもたげてくる、そんな恐怖が湧いてきた。

「待て、何を勘違いしているんだ。俺は……」

 赤井がそういいかけたとき、隣の部屋で臓腑を震わせるような、けたたましい爆裂音が響いた。



 何ごとか、と我に返ったふたりは同時に振り返った。

 隣の取調室を区切る壁が粉々に砕け、今にもその向うから、僧形の男がこちらに入ってこようとしている。

 なぜ壁が崩れているのか、突然の異常事態に唖然とする赤井たちには、事態はまったく理解の外だった。

「女を渡してもらおうか」

「お前はさっきの坊主……」

「邪魔すれば、貴様たちもこうなる」

 その坊主は、表情も変えずに二人を威嚇した。背後には、数人の刑事たちが倒れている。

 赤井は大声を出した。

「理由をいえ」

「いえば女を渡すか」

「理由しだいだ」

 と答えたのは、木村である。坊主は僅かに笑みをこぼした。

「その女は、きわめて危険だ。数億人にひとりしかいないという恐るべき能力を持っているのだ。その能力が完全に目覚めないうちに抹殺しなければ、この国が危うい」

「あんた誰だ? 能力だと。何をいっている」

「その女を探し、市井に埋もれている間にこの世から葬るのが私の仕事。私は、古来よりこの神国日本を守護する、ある霊的組織に属している者だ」

「馬鹿な。彼女はただの人間だよ、しかもこんな美しい……」

 美しい、という言葉を使って赤井は、あっと気づいた。先ほどまでは少しもそう思っていなかったはずだ。

 だが今は堪らないほど女が恋しい。

「その能力は傾国と呼ばれている」

「何? ケイコクだと」

「妲己、西施、虞美人……歴史上、中国は幾度もこの人間兵器を使い、国を潰してきた。その美は限りなく成長し、底知れぬ誘惑を伴なう。男どもの精神を狂わせ、国全体を壊滅させてしまうのだ」

 茫然とするふたりに、坊主の言葉はまったく理解できなかった。

「信じられん」

「かつては我々が、日本侵略を準備する唐国に傾国を放ったことがある。それが、楊貴妃(*)。貴様らも名前ぐらい知っているはずだ。だが今度は、かの国が敵性国家である日本とアメリカに、新たな傾国を送り込んできた。アメリカもそれに気付かなければ、たちまちのうちに内部から危うくなるだろう。さあ……」

 坊主は女に向かって手を差し出した。有無もない。

「彼女は渡せない」

 ふたりは拳銃を抜いた。

 坊主の手刀が弧を描き、それに備えた。取調室の壁さえ粉々にしてしまう秘拳法である。その威力は計り知れない。

 赤井と木村は互いに頷きあった。

 男たちを見つめる女の瞳は、世界中の光と美を吸い込んでしまいそうなほど、神秘的で奥深い。

 とりあえずふたりで協力し、目の前の敵から彼女を守らなくてはなるまい。もちろん、それは理性で得た判断ではない。

 国の存亡を賭けた、ケイコクの争奪戦は、今まさに始まったばかりだ。



 * 楊貴妃は唐の玄宗を狂わせ国を滅亡に追い込み、人間兵器、傾国としての任務を全うした。

 彼女が日本人だったという説は根強く残っている。楊貴妃の墓が、この日本に何か所も存在することはご存じのとおり。その美が群を抜き後宮佳麗三千人の中で頂点に立てたのは、彼女が異民族であったからだともいう。

 ちなみに楊貴妃が愛用していた「扇」(折り畳み自在)は、日本最古の世界的発明品のひとつでもある。

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