第2話 友情試験

 日常が慌しく過ぎていく中で、何かとても大切なものを忘れているのではないかと、ふと思うことがある。過去のどこかに落としてきたもののような気がするが、いくら考えても、それがなんだかわからない。大抵の男にとっては、中年になるまでに幾度か経験するある種の感傷である。

 人生の折り返し地点を回り、未来よりも思い出の総量のほうが多くなった時、過去の大切な何かが、確実に忘却の闇の中に捨てられている。いま大切なものは、家族や会社や、それから責任、信用、義務と言うよく似たニュアンスの何かであり、決してかつてのその何かではない。

 岩村の日常は、ただ、仕事のために仕事をし、生きるために生きている、毎日が同じで、退屈な繰り返し。それが悪いと言うわけではなく、それが自然なのであり、普通なのだと納得している。

「何事もなくただ普通に生きる事、それがこそがすばらしい」という価値観だってもちろん認められていい。岩村にしてみれば、そのことに疑問を挟む余地はない。

 が、人生と言うのは面白い。ときに思いもよらない不思議な出来事が、そんな平凡な日常の狭間の中で起こることがある。忘れたままでいた過去の亡霊が、ふいに顔を出すような瞬間である。それは誰にでもあるのだ。


「係長、吉田さんという人がお見えです。さっきから商談室の方でお待ちになっていますので、よろしくお願いします」

 その日、岩村が食事休憩から事務所に帰ってくると、女子事務員が慌しく近寄ってきた。

「吉田?」

 岩村にはその名に聞き覚えがない。

 この時、すでに岩村は、不思議な日常の狭間の中に入ってしまっている事に、気づかないでいる。

「どこの得意先の担当だったかな?」

 会社名もきちんと聞いていないらしい。岩村はやれやれというように片方の眉を吊り上げてみせた。

 が、すでに目の前には先ほどの女子社員の姿はない。

 苦笑いをするしかなかった。岩村の休憩時間が、誰よりも少しばかり長いのが、事務所の女の子たちに気に入られていない要因らしい。だがまあ、それはどうでもいい。岩村の周りの空気が、ちょっとに苦々しすぎるからといって、自分が気にしなければどうってこともない問題だ。

 それにしても、午後からは得意先とのアポは一件もないはずである。訝しくはあったが、とにかく商談室に急いだ。先ほどの女子社員の言い振りでは、かなり待たせているようである。機嫌を損ねるのはまずい。

 ところが、実際に商談室に駆け込み、その客と対面しても疑問は晴れない。

 とりあえず会って思い出せばいい、とタカを括っていたのだが、一向に相手が誰なのかわからないのである。同年輩の男性で、身なりはサラリーマン風だったが、同じ業界の人間のようには思えなかった。

 しかしその男は、挨拶もそこそこに、驚くほど馴れ馴れしく話し掛けてきた。

「何、ぼけっとした顔してるんだ。俺だよ、俺」

 岩村はしばらく考え込んで、「あっ!」と小さな叫び声を上げた。

 高校時代の野球部の同期、あの吉田、ショートのよっちゃんだった。あまりにも突飛で意表をついた対面だったため、記憶回路が麻痺していたようだ。

「よっちゃんじゃないか……」

 といって、岩村は頬を真っ赤にした。すでに中年に達した大人が「よっちゃん」はないだろう。が、次の瞬間、懐かしさが堰を切ったように溢れ出した。

「元気そうだなあ、仕事がんばっているみたいじゃないか」

 と、吉田は目を細めた。

「ああ、この通りだ。しかし、何年ぶりだ、お前と会うのは」

「五年前の同窓会以後、全く会っていない。年賀状ももらっていないな」

 岩村の筆不精を軽く責めているのだろう。冗談とも思えないような口ぶりで、岩村は少しひやりとした気持ちになった。

 今日はなんの用だ、とあからさまに尋ねるのもおかしいと思って、次の言葉を捜していると、吉田が急に暗い表情になった。

「近況報告は後回し。木村が先日死んだのでな、とりあえずその知らせだ」

「木村……」

 キャッチャーの木村である。

 その名を聞いたとき、岩村の頭の中であの時のいやな感情が蘇ってきた。それを察したのか、木村が咎めるような目で岩村を見た。

「俺たちは永遠に親友のはずだよな」

「……ああ」

「三ヶ月前のことだ。木村がお前に電話してきただろう」

 岩村は思い出していた。

 すでに高校を出て十数年が過ぎていて、木村とは互いにその時以来である。

 が、その木村が久しぶりに連絡してきた内容は「保証人になってくれ」という重すぎるものだった。もちろん、岩村にとっては、あまりにも突然な話である。ある暴力団から事業の資金繰りに当てる金、五十万円を融通してもらい、その支払いを数日延ばしてもらうための保証人だった。

 当然、岩村は逡巡した。

 ――いや、返事はすぐに決まった。彼はその頼みを断ったのである。

「しかたないだろう、突然だったんだ。それに僕にだって家族がいる」

 と、岩村は吉田に向かって噛み付くような声でいった。

「お前、まるで木村が金を踏み倒すような言い方だな。奴がちゃんと借金を返せば、保証人には何のリスクもないんだ」

「だが……」

 常識としてそういう場合に保証人になる者は誰もいまい。まともな社会人なら、保証人についての知識はあるはずだ。岩村にはあの時のあの対応が悪かったとは、どうしても思えない。

「それでも友達か!」

 と、突然、吉田が大声を出した。

「木村は保証人がいなければ、命に関わるかも知れないと言ったはず。さらに、お前に頭まで下げたはずだ」

 語気を荒げてそれだけいうと、ふいに吉田の眼が遠くを見つめるように宙を彷徨った。昔のことを思い出したのだろう。

「あの日、最後の試合が終わったあと、夕暮れのグランドで俺たち九人は誓った。俺たちの友情は永久に変わらない。将来、例えばこの中の一人が危機に陥ったときは、全員が集まって助けてやるのだと……」

 若い頃の青臭いロマンに過ぎない……とは、岩村は思いたくない。しかし、現実は甘くないのだ。

 岩村は口重く尋ねた。

「そういうお前は木村の保証人になったのか」

「当たり前だろう」と吉田はきっぱりと言った。「レフトの佐賀などは、元金の五百万円をすぐに用立てて木村に渡したんだぞ。保証人になるよりも、金を返すほうが先だと言って……。もちろん、その五百万は木村のために捨てるつもりだったらしい」

「木村は、昔の仲間みんなに金の無心に回っていたのか」

「問題はそういうことじゃない」

 吉田は再びとげとげしい口調になった。

「それが俺たちの関係じゃないか。それが仲間というものだろう」

 吉田の剣幕に岩村は言葉も出ない。ただ、妻や子供たちの顔が次々に脳裏を過ぎった。彼が今守らなければならないもの、最も大切な価値は、すでに古臭い友情とは別のものである。

「が、九人のうちお前と同じ事をしたヤツがあと二人いた。どうやら、お前たちは木村の企みにまだ気づいていないようだから、教えてやらなければいけないようだな」

「企み?」

「木村が暴力団から金を借りたというのは嘘だ。あれは俺たち皆を試す、友情試験だった」

「友情試験……?」

 吉田はにやりと笑った。先ほどまでとはまったく違う顔になっている。

「木村は実業界で伝説のサクセスストーリーを体験し、一代で莫大な財産を得た。だが、幸運は長く続かない。栄光の絶頂で不治の病にかかり、余命幾ばくもない体になってしまったんだ。しかし、その病気はいくら金をつぎ込んでも直らない。金で治せるものではなった。そのうえ、彼には親もいなければ妻も子もいない。その財産を残す親戚縁者が一人もいないということだ」

「まさか……」

「そのまさかさ。彼にとって最も信頼できる人間関係は友達しかなかった。俺たちが一番、純粋で正直だった時代のな」

 岩村は生唾を飲んだ。

「残念だが、あの友情試験に不合格になったお前たち三人には、木村の遺産が分配されることはないよ。俺も含めた他の連中は、一日にして億万長者の仲間入りになることができたがな。ははは」

 岩村の心の中で沸き起こってきた卑しい欲望が、あっという間にどす黒い嫉妬に変貌していくのがわかった。と同時に、取り返しのつかない過ちを悔いる気持ちが、彼を虚脱感に突き落とした。

 それは、木村を惜しむ気持ちでなく、残念ながら、金を惜しむ気持ちである。だが、岩村は自分自身のその気持ちに、まだ気づいていないようだった。

「――で、お前は今さら何でここへ来たんだ。自分らが金持ちになった事を自慢しに来たか」

 岩村の感情は、怒りの気持ちに変わろうとしている。ところが、吉田の話には、さら奇妙な続きがあった。

「そうじゃない。今度はお前を誘いに来たんだ」

「どういう事だ?」

「ライトを守っていた、ほら、宮崎のこと覚えているだろ。宮崎が木村の引っ掛けに過剰反応して、暴力団の事務所に単身、談判に行ったらしいんだ。あいつ、昔から早合点がひどかったからな」

「暴力団に金を借りたというのは嘘なんだろう?」

「嘘だから困っているんだ。木村がその与太話の中で適当に名をあげた暴力団が実在していたんだ。宮崎の馬鹿め、木村を助けようとしてその事務所に飛び込んだ。彼の奥さんから泣き声の電話があって、その暴力団に宮崎が人質にとられ、逆に脅かされているという。助けてくれというんだ。相手は本物だ、ぐずぐずしていると、マジで宮崎の命が危ない」

「なんてことだ」

「これから、俺たちは宮崎を助けに行くつもりだ。お前ももちろん来るだろ?」

「ま、待てよ」

 岩村はたじろいだ。

「本気で暴力団に宮崎を迎えに行くつもりか? 警察を呼べばいいじゃないか」

「警察は事件が目の前で起きていないと動かない。それに確かな証拠がないとどうしようもないんだ。警察を当てにしていると、取り返しのつかない事になってしまう」

 いいながら、吉田が立ち上がった。片手に包丁を握っている。

「とりあえず、台所から妻が使っているヤツを持ってきた。お前の分はここに用意してある」

 吉田は机の角に立てかけてあったバットを岩村に渡そうとした。

「俺の子供のバットだ。お前の振りならかなりの破壊力が出るだろう」

「は、早まるな、吉田。これじゃまるで殴り込みじゃないか。僕には妻も子供もいるんだぞ」

「何をいってやがる」

 吉田は興奮している。

「俺にだって子供はいるさ。だが、家族やその愛情と、俺たちの友情は天秤に掛ける事はできない。そのどちらも手にとって測れない大切なものだ。今一番守らなければならないものは何か、その事だけを考えたらいい。こんな簡単な答えはないじゃないか」

 吉田は壁際に近づくと、窓を力いっぱい開け放った。

「下を見ろ」

 岩村が駆け寄ると、窓の外から名前を呼ぶ声が聞こえる。一人や二人の声ではない。そこにいたのは、あの頃の野球部の奴らである。

 揃いも揃って、みごとな中年オヤジたちの集団だった。

 セカンドを守っていた三沢は、今だに司法試験にチャレンジし続けて、大変な苦労をしているはずである。その三沢もジャージ姿で混じっていた。日本手ぬぐいを額に巻いて、片手に棍棒のようなものを持っているのが見えた。

 県庁で公務員をしているサードの秋山が、スーツのままで千枚通しを振りかざして叫んでいる。

「降りて来い、岩村。皆で宮崎を助けに行くんだ」

 続いて、ファーストの多田が、昔のように秋山の側で合いの手を入れた。

「エースのお前がいなくちゃ話にならんぞ」

 いいながら、チェーンをぐるぐると振り回している。

 岩村は絶句した。

 知らず知らずのうちに窓から後ずさった。その肩を吉田が掴んだ。

「さあ行こう。皆が待っている。お前は俺たちの仲間なんだ」

 次の瞬間、岩村は肩に乗った吉田の手を力いっぱい振り解いていた。

 顔面は蒼白になり、目は血走っている。

「お前たち、自分の言っていることがわかっているのか。僕には仕事がある。仕事を放り出して出て行く事はできない」

「皆、仕事をもっているさ。三沢だって次の試験が近いんだ。だが、そんなことよりも宮崎を助ける事の方が大切だと判っている。それが本当の友情だからだ」

「それは友情じゃない」

 吉田が首を傾げた。岩村は言葉を投げつけるようにしていった。

「いいか、友達の保証人になる事も、みんなで喧嘩しに行く事も、それらは全部、お互い同士の甘えに過ぎない。友情と言うのは甘え合いじゃない。もっと自分に厳しくして付き合うことだ。例えば僕なら、どんなに金に困っていても友達に借りるようなバカはしない。友達に負担はかけない」

「おいおい」

 吉田は大げさにため息をついた。

「わざとらしい言い訳をするなよ。相手に甘えを許さないような関係が友達といえるか? 負担をかけないことが友情だというのか? それじゃあ、友達同士という、神様に選ばれた特別な人間関係の意味がなくなってしまうじゃないか」 

「ともかく、僕は行かない!」

 岩村は叫んだ。自分のその声に驚いて目を丸めた。

 こうなったら、理屈ではない、と岩村は思っていた。

「僕は行かない。悪いけど……行かない」

 深呼吸をしながら、同じ言葉を反芻した。徐々に昂ぶった感情が落ち着いていくのがわかった。もちろん、その言葉に後悔はないはずである。

 異様な沈黙が二人を包んだ。岩村を見つめる吉田の表情が悲しげに歪んだ。

 なおも窓の下からは岩村の名を呼び続ける仲間たちの声が聞こえている。


 打ち返されたボールにグローブを伸ばそうとした岩村に向かって、折れたバットが遅れて飛んできた。避けようもなく岩村のヘルメットを吹き飛ばし額に直撃した。

 焼けたグランドに崩れるように倒れ込むピッチャー。

 騒然とする観客、関係者。駆け寄るナイン。

 意識を失い混沌に落ちた岩村の名を呼び、泣き叫ぶ仲間たち。

「戻ってこい!俺たちのところへ!」

「逝くんじゃない!」

「逝くな」

 岩村はピクリとも動かない。



もうひとつの結末


「ともかく、僕は行かない!」

 岩村は叫んだ。自分のその声に驚いて目を丸めた。

 こうなったら、理屈ではない、と岩村は思っていた。

「僕は行かない。悪いけど……行かない」

 深呼吸をしながら、同じ言葉を反芻した。徐々に昂ぶった感情が落ち着いていくのがわかった。もちろん、その言葉に後悔はないはずである。

 異様な沈黙が二人を包んだ。岩村を見つめる吉田の表情が悲しげに歪んだ。

 なおも窓の下からは岩村の名を呼び続ける仲間たちの声が聞こえている。

「それでいいんだな」

「ああ……」

 岩村ははっきりと答えた。

「俺はお前に二回チャンスをやった。二回の友情試験すべてに、お前はちゃんとした答えを出さなかった」

「友情試験? これもか……」

 だが、吉田はもはや何も答えない。ただ、がっくりと落とした両肩に、一抹の寂しさだけを漂わせていた。

 岩村がはっと気づくと、かつての親友は後ろ姿の残像だけを残して、狭い商談室から煙のように消えていた。

 窓から首を突き出して再び路上を見降ろしたが、あの中年軍団の影もなくなっている。ただ、窓から飛び込んできた一陣のつむじ風が、灰皿の灰を巻き上げ、ひとり残された岩村の鼻をくすぐって通り過ぎて行っただけである。


 ――その後、岩村は何事もなかったように日常に戻った。

 何かとてつもなく大切なものが通り過ぎていってしまったような寂寥感が、しばらくの間岩村の心に残り続けたが、それも月日と共に遠のいて行き、簡単に思い出せないに何かに変わっていった。

 あの決断が本当に正しかったかどうかは岩村にはわからないし、同じように他の誰にもわからないに違いない。

 しかし、それからわずか数年後に、人類はその誕生以来未曾有の大厄災に襲われ絶滅の危機を迎えることになる。

 あの日岩村を訪ねて友情試験を行った親友、吉田は、すでにノーベル賞を二度も受賞し、世界中にその名を知らない者はいないほどのビッグネームになっていた。岩村にしてみれば、吉田は、自らの人生からあまりにもかけ離れた存在になり過ぎた。

 ところが、岩村のまったく知らないところで、吉田が総指揮し、木村財団がその全財力を注ぎ込んだ「ノアの箱舟」計画は確実に始動していた。木村財団の木村とは、最初の友情試験を行った友人である。そして、「ノアの箱舟」計画とは、人類の存亡をかけた、一大プロジェクトのことだった。

 だが、そこで選ばれ、生き残りを託されたたわずかな人類の中に、岩村とその家族の名前がなかった事だけは確かな事実なのである。

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