狭間の奇談探偵
野掘
第1話 都市怪談
「誰かいらっしゃいますか」
けだるい昼下がりのことだ。
微かに聞こえてきたその声に返事を返すのももどかしく、私はただゆらゆらと声の方へ向かった。久し振りの休日でずっと朝寝をしていたため疲れが一度に出てきたのだろうか、頭がひどく痛かった。
壁に沿ってもたれかかるようにして玄関に辿り着くと、そこにひとりの中年男が佇んでいた。
昼間だというのにやけに薄暗いのも妙だったが、逆光のため男の姿はさらに暗く、黒い影の塊にしか見えない。玄関の電気を付ければよかったが、すでに内側でドアを背にしている男の唐突な声に慌てて、スイッチを手探るタイミングを外してしまった。
「申し訳ありません、こちらにヨーコさんと言う女性はいらっしゃるでしょうか?」
男はそう言った。
「ヨーコ? いや、そのような名前の女性は家族にはいませんが……」
「そうですか」
当てが外れたことに、取りたてて残念そうな表情を見せるわけでもない。失礼しましたと一言残して、すぐに玄関を出ていこうとするその不可解さ。
私は男のその後ろ姿に、ふと声をかけていた。
「人を探しているようだが、苗字はわかっているのですか?」
その時は別にこれといって底意があるわけでもなかったのだが、ただ、あまりにも訳ありげなその後姿に、無性に興味がわいてきたのである。
「いいえ、名前しかわからないのです。住所もわかりません。ただ、港町に住んでいるとしか……」
「それは大変な人探しですねえ」
私はそれを聞いて心から同情した。
すると男は振り返って、私の気持ちの襞に触れようとでもするように、顔を近づけてきた。
よく見ると、野宿を繰り返していたのだろうか、着ている服は汗と埃でよれよれになっているし、不精髭がむさ苦しく顔面を蔽っていて、額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。表情のない顔つきは、疲労困憊ですでに感情の起伏を失っているのかもしれなかった。
詳しい事情は話せないが、「ヨーコ」という女性を探してもう四十年近くになると、男は言う。
ひと頃はこの人探しが世間の噂になり脚光を浴びたこともあったが、その騒ぎも時の移ろいと共に忘れられてしまった。その間に何万という情報を耳にしたが、結果はすべて空振りだった。
男は短い沈黙をいくつも挟みながら途切れ途切れにそんな話を繋いでいった。ぼそぼそというしゃべり方はとても聞き取りにくく、肝心のことはいつまでたっても明らかになることはない、そういう漠然とした昔話だった。いくら話を聞いても、尋ねても、この男とその女の関係すら、私にはわからなかった。
「彼女を探し続けるという事自体が、彼女にたいする贖罪なのです」
と、男は言った。
気がつくと、どことなくかび臭く湿った空気が辺りを包み、長いような短いような不思議な時間が過ぎていた。
いつの間にか、男の話は終わっていたようだが、その内容が長かったのか短かったのか、それもやはり、よくわからない。彼の人生を最初から最後まで話して聞かされたようでもあるし、思い出の断片しか聞かされていないようでもある。
「ひょっとしたら、彼女はすでに亡霊のようになっているのかもしれません。」
弱々しく唇を歪める男の顔色を見て、私は彼こそが永遠に街を彷徨し続ける亡霊なのではないだろうか、と思った。
すでに本来の目的は失なわれてしまっていて、探すという行為そのものが彼自身の存在理由にすりかわっている。あるいは、その存在理由が、「存在そのもの」となって、この世に投影されているのかもしれなかった。
男の視線は常に空間を泳いでいるようにうつろで、底無し沼を覗くように暗い瞳は、どこまでも光りを失っていた。それはどう考えても、生きている人間の目だとは思えなかった。
「もしよろしかったら、ヨーコさんというお嬢さんの特徴を教えて頂けないかしら?」
ふと、私の傍らで話を聞いていた妻が口を開いた。
いつの間にそこにいたのだろう。
限りなく現実的で生活感を持った妻の声に、私は奇妙な空間の中から無理やり引き戻されたような気がした。
「髪の長い、気の強い女性でした」
「ああ、それならあの人かもしれないわ」
妻は紙とペンを持ってきて、簡単な地図を書いた。
「きっと、このおうちの要子さんよ。行って御覧なさい」
男は妻に手渡された地図を見て、困惑したような顔つきになった。
「間違いないわ。すぐ行きなさい」
その後、さらにどのくらいの時間が過ぎたのか分からない。一陣の風に頬を撫でられてあっと気がつくと、男はすでにそこにいなかった。
玄関にまぶしい光りがさし込み、その隙間を力いっぱいに開け放した私の妻が、そこらかしこに白いものを撒き散らしていた。
「何してるんだ?」
「塩を撒いてるのよ」
私は妻に尋ねた。
「君が今さっき書いて渡した地図の要子さんって、誰なんだろう。近所にそんな女の人は聞いたことがなんだけど」
「何言っているのよ。ウソに決まってるじゃないの」
「えっ、彼、知ったらがっくりするぞ」
「希望を持ったり、失望したり、そういう感動の繰り返しが生きているって事じゃない。人間ってそういう心の起伏の繰り返しの中で生きていくものじゃないかしら」
彼女はそれ以上は何もいわない。もっとも、私自身、彼女にこれ以上尋ねたい事もわからない。
しばらくして妻は私を振り返ると、ただ、邪魔くさそうな声を出した。
「いつまでもぼんやりしていると、心の中におかしな隙間ができてしまうわよ。今さっきのようにね……」
「隙間?」
「いいから早く顔を洗って目を覚ましてよ。お休みぐらい掃除を手伝ってね」
彼女はすでに日常に戻って、私に満面の笑顔を向けている。
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