第7話

 この私は部屋の片づけをしていた。船橋が来るからだ。

 しかし気がつけば手が止まっている。手を止めてボーっと考え事をしている。どうしてもあの女性のことを考えてしまうのだ。


 女性の名前はみさき美咲みさき

 姓と名が同じ音をとる面白い名前だ。勝手に下の名前を呼んでも、彼女にはそれと知れない。だがそれとわかるように彼女を下の名前で呼んだとしても、彼女に嫌悪はないだろう。

 なにしろ彼女はこの私の家に料理を作りにくるとまで言ったのだ。好意の一つもなければそんなことは言うまい。

 歳はひとまわりほど離れていそうだが、女性というのは年上を好む傾向にあるらしい。問題ない。


 あの女性とつながりを生んだ点だけは、あのひったくり犯に感謝してやってもいい。

 もっとも、奴の犯行は愚行には違いなく、よりによってこの私の財布に手を出すなど言語道断ごんごどうだんの所業。極刑きょっけいしょされてしかるべき愚か者である。

 それにしても、ダミーの財布を用意しておいてすり替えるとは、なかなかに狡猾こうかつな奴だった。それだけの機転を利かせられるやからがひったくりなどという愚の極みを働くとはなげかわしい。


 この私がありきたりな黒の無地の長財布を携行けいこうしていたのも運が悪かった。奴が用意していたダミーと合致してしまったのだから。

 しかしおそらく、奴がダミーに黒無地を選んだのは単なる偶然ではあるまい。必然ではないが可能な限り確率を高められた偶然とでも言おうか。

 黒無地の財布。

 いかにも誰でも持っていそうではないか。それを意図してダミーに黒無地を選んだのだろう。奴は黒無地の長財布のほかに、同じく黒無地の二つ折り財布も用意していたに相違ない。


 おっと、いかん! また考え事をして時間を浪費してしまった。


 ピンポーン。


 そのとき、この私の部屋の凡庸ぼんようなる呼びりんがなった。

 もう来たのか。

 まだ部屋は片付いていないぞ。こんな部屋に人は上げられぬ。


「うむ、どうするか……」


 奴がきたがっていることはあの件に決まっている。それ以外に心当たりはない。

 別件の聞き込みではなかろう。わざわざ知り合いに成りすましてこの私に近づいてきたのだから。十中八九、豚女の自殺について訊きにきたのだ。

 だとしたら喫茶店などでできる話でもなかろうし、どうするか。うむ、玄関先の立ち話で十分だろう。


 この私が玄関先で船橋を出迎えると、彼はこの私の本物の財布をチラつかせてニッと得意気に笑った。


「なんだ、ちゃんと取り返しているではないか。どうせならこの私が買い物をする前に気づいてほしいものだ」


「それは、すみませんでした……」


 この私の言葉を予期していなかったのだろう。船橋はしゅんとした様子で、捨てられた子犬のように悲しげな表情を作った。

 だがあわれみはせぬ。

 奴のせいで会計時に大変な目にあったのだ。むしろさっきまで得意気だった分、いい気味だと思っている。


「財布の中身は触っていないだろうな?」


「嫌だなぁ。触っていませんよォ」


 船橋がこめかみを右手でかきながら、ぎこちない笑顔を作る。うさんくさい。


 この私は船橋から財布を受け取ると、しっかりと中身を確認した。

 あのひったくりに中身を抜かれている可能性は十分考えられたし、船橋がそれをしないとも限らない。

 この私は一つひとつ順に確認した。

 免許証、保険証、クレジットカード、キャッシュカード、札、小銭。問題はなかった。触ったかどうかはともかく、抜き取られてはいない。


「まあよい。この私の本物の財布を持ってきてくれた礼として、一つだけ質問に答えてやる」


「じゃあ前のと合わせて質問は二つできるということですね?」


「馬鹿を言うな。前のときは取り返したつもりが出し抜かれていたではないか。おかげでこの私は大変な目にったのだぞ」


「そうですか。それはすみませんでした」


 出し抜かれたのはお互い様な気がしますけど、と彼が小声でボソッとつぶやいたのが聞こえた。

 この私がピクリと反応を見せると、船橋は慌てて言いつくろった。


「あ、ああ、えっと、『出し抜けにお日様が気持ちいですね!』と、そう言ったんですけど、聞こえていましたかねえ、いまの。いやあ、それにしても今日はいい天気だ」


 船橋がまた人差し指でこめかみをかきながら無理矢理笑顔を作る。口も目元もゆがんでおり、こんなにひきつった表情は見るにえない。

 同情ではなく不愉快という意味である。


「おまえなんぞ、この陽射ひざしに突き刺されて焼き殺されればよいのだ」


「え、あはははは」


 なぜか哄笑こうしょうする船橋。先ほどの贋作がんさくたる笑顔とは異なり、腹の底から笑っているらしい。

 死ねと言われて何がそんなに嬉しいのか、この私にはせぬ。


「何だね? 何がそんなにおかしいのかね?」


「日暮さんって、意外とポエマーなんですね」


「うるさい、黙れ! で、質問とは何なのかね?」


 寛大かんだいなこの私は船橋の悪口雑言あっこうぞうごんを水に流してやり、本来の目的たる質問をうながしてやった。

 船橋はデフォルトボタンをクリックされたかのように一瞬で表情を消し、今度はテンプレートをペーストされたかのように驚嘆きょうたんの表情へと変わった。顔の筋肉が忙しい小僧だ。


「家に上げてくれないんですか? じっくりと雑談を交えながら質問をしたかったのですが」


「どうせたった一つの質問しか認めておらぬのだ。とっとと質問して帰りたまえよ」


 どんな質問がきたとて「それは知らぬ」でつき返してやる。


「そこをなんとかお願いしますよォ。私は探偵ですから、いまとなってはあなたがタダ者ではないことを十分に承知しているわけです。私はぜひともあなたとお話の機会を得て己の見聞けんぶんを広め、見識けんしきを高め、自己を啓発けいはつしたいと考えておりまして。ね? どうか、心苦しくはありますが、どうか! ね?」


 船橋は仏か何かをおがあがめるように、この私に向かって手を合わせ、頭を下げた。「ね?」と言うタイミングで視線を上向け、この私のご機嫌をうかがってくる。


「おい船橋よ、その『ね?』というのがれしくて不愉快だ」


「あ、すみません。以後気をつけます」


 深々と頭を下げた船橋はもう顔を上げなくなった。手は頭上で合わせたままだ。

 いまの船橋を写真に撮ってタイトルをつけるならば、《大きな栗の木の下で》といったところだろうか。


 うむ、気分は悪くない。この船橋という男、少しは心得ているようだ。雑談をしてやることもやぶさかではない。

 だが、部屋に上げるわけにはいかぬ。さて、どうするか?


 久しぶりに問いかけるとしよう。

 さておまえたち、おまえたちならどうするね? 

 おっと、問いかけはしたが、べつに答える必要はない。おまえたちの提案には最初から期待などしておらぬ。


 うーむ、本当にどうしようか。そうだ、車内がいい。

 幸いながらこの私は、車内だけは普段から綺麗きれいにしている。どこの凡夫ぼんぷがこの私の車をのぞき込むかもしれないからだ。

 ふん、若造、この私が気前よくドライブにでも連れていってやるぞ。


 この私は「そこでしばし待ちたまえ」と船橋を玄関先で待機させ、外出の準備を整えた。

 この私が再び玄関に戻ってくると、船橋はキョロキョロと不審者さながらに辺りを観察していた。

 この私が出てきたとき、何を勘違いしたか、部屋に上がり込もうとしたので右手で強く制した。


「あれ?」


「部屋には上げぬ。乗りたまえ。車内で質問を聞いてやろう」


 少しふくれたが、船橋は素直に助手席に乗り込んだ。じっくりと話ができれば及第点きゅうだいてんという考えなのだろう。

 部屋の中を観察したかったのかもしれぬが、それならば、なおさらそんなことはさせぬ。

 もっとも、この私が豚女を殺した証拠などどこにも存在しないのだが。


 この私は目的地を決めず、国道をひたすら周回すべく、国道に出る道を走った。


「おっほん。質問しないのかね?」


 船橋はなかなか質問をしなかった。天気の話など、話題のないときに持ち上げる典型例ばかりを口にしている。

 実にくだらない。

 雑談の部分でできる限りこちらの情報をつか魂胆こんたんなのだろうが、船橋ごときの腕前では何ひとつ有益な情報は得られぬだろう。


「ははは、手厳しいですね。質問は本当に一つだけですか? あ、いや、待ってください。いまのなし。こうしましょう。絶対に答えてほしい質問は一つにしぼるので、他の質問は気が向けば答える、ということでどうでしょう? それなら質問をたくさんしてもいいですよね?」


 許される質問が一つだけであるために、慎重になりすぎて手をこまねいていたようだ。

 前もって質問は一つだけと言っていたのだから、あらかじめその質問を考えてくるのが礼儀というものだろうに。いまさら質問を考えあぐねているとは、まったく、この礼儀れいぎ知らずめ。


「かまわんが、君は仕事で来ているのではないのかね? だったらこの私の言ったことなど気にせず、たくさん質問をしたまえよ。ま、この私は答えないのだがね」


 チラと船橋の方を見ると、変幻自在なアメーバのようにせわしなく動く船橋の表情は、今度はピクリとも動かなかった。

 加えて可愛気のないことを言った。


「分かっていますよ。だからこそ、必ず答えてくれる一つというのが効いてくるんじゃないですか」


「答えはするが、正直に答えるとは言っていないぞ」


「大丈夫です。私はあなたの嘘を見抜く自信がありますから」


 船橋は照れるように笑った。そしてこめかみを人差し指でかく。


 しかし、この私はもう見抜いている。船橋は嘘をつくときにこのくせが出る。彼は嘘をつくとき、必ず人差し指でこめかみをかくという仕草をとるのだ。

 嘘が通じないと信じさせて真実を語らせようという腹だろうが、そうはいかぬ。

 むしろ立場は逆なのだ、馬鹿め!


 そうだ、この船橋にも例のアレを試してやろう。


「船橋よ、一つ、ちょっとしたゲームにきょうじようではないか。いまからこの私がおまえの心を読んでやろう。1から9までの九つの数字の中から、二つの数字を思い浮かべたまえ。この私がおまえの思い浮かべた数字を当ててやろう」


 船橋は意外だと感じたことが分かる表情でこの私を見た。目が見開かれて口は閉じたままの顔が、こちらに向いたまま筋肉を硬直させている。まるで意地汚い女の本性を垣間見かいまみたかのような顔だ。

 しかし、その顔はすぐにほころんだ。


「ほう、面白い。受けましょう。せっかくですから、このゲーム、賭けにしませんか?」


「賭け?」


「もしあなたが私の数字を二つとも言い当てたなら、あなたが私に一つ要求を出し、それがいちじるしく人道にそむくものでない限り、私はその要求をのみます。もし数字が二つとも外れたなら、私があなたに多くの質問をし、あなたはそのすべての質問に答えます。その場合、嘘をつくのはかまいませんが、はぐらかしたり怒ったりはしないでください。もし数字が一つだけ当たったなら、それはドローとして現状維持としましょう」


 この私が聞く限り、船橋にとってかなりリスキーな賭けに思える。

 それにもかかわらず、船橋は自信に満ちた得意気な表情をしている。口の両端をわずかに引き上げ、視線を少しだけ引き絞っている。

 もしかしたらこれが奴のポーカーフェイスなのかもしれぬが。


「うむ、悪くはない。だが数字が一つ当たったらこの私の勝ちだろう。その場合に現状維持とするのはかまわぬが」


「賭けの条件は数字の的中数で定めているので、勝敗の定義はお好きにどうぞ」


 この私はこのゲームをドライブの片手間におこなうつもりであったが、船橋の自信を見るにつけ、警戒心を抱かずにはおれなかった。

 我々はすでに国道に入っていたが、この私は手ごろなコンビニを見つけて駐車場に入った。


「ではさっそく、数字を二つ思い浮かべたまえ。1から9までの数字を二つだ。言っておくが、二つの数字は異なる数字だぞ。思い浮かべたら、その数字を紙に書きたまえ。探偵なら手帳とペンくらい持っているだろう?」


「ええ、ありますとも。でも私も馬鹿じゃありません。あなたがすべてのパターンに備えて数字を書いた紙を用意している可能性を見落としてはいませんよ。だからこうしましょう」


 船橋はふところから取り出した自分の手帳の端を千切り取り、そこにサインを入れた。


「この紙に書いてください。これは私の用意した紙です。これとまったく同じ色と間隔の罫線けいせんの紙をあなたが偶然持っているとは考えがたいし、何より裏面には私のサインがほどこしてあります。これなら複製は不可能です」


 失礼な奴だな。たしかにこんなこともあろうかと六パターンほど用意してはいたが。ちなみにその六パターンとは、3・5、3・8、5・8、1・4、2・7、6・9である。

 万が一、3・5・8から二つを選ばなかったとしても、必ず片方の数字は言い当てる結果となる。どの紙に何の数字が書かれているか識別できるように、それらの大きさや形状を変え、数箇所のポケットに分散させて潜ませている。


「うむ、よかろう」


 小細工は通用しなくなった。

 この私の中には一抹いちまつの不安が渦巻うずまいている。

 この私が見定めたとおり、船橋が本当に凡夫であるならば、奴はきっと3・5・8の中から二つの数字を選ぶはずなのだ。

 しかしもし船橋が凡夫でなかったなら、この私は赤恥をかくことになる。

 そのときは悔しさを見せずにあっさりと流してやろうと決めてはいるが。


 この私は船橋の視線への警戒をおこたることなく、奴から借りたペンで紙に3と8を書いた。

 3か8、どちらかがひっかかれば上等だ。もし奴が3も8も書かずに5と他の数字を書こうものなら、この私は認定しそこねた凡夫を一発殴ってしまうかもしれぬ。

 万が一にも奴が3・5・8のいずれも書かなかったならば、そのときは敬意を払わないまでも、船橋を非凡なる探偵として認め、全力で警戒に値すると認識を改めよう。


 この私はすぐに数字を書いたが、対する船橋は逡巡しゅんじゅんしていた。

 なかなか数字を書かない。

 船橋は予備のペンを持っており、この私に貸していてペンがないわけではない。数字を決めかねているのだ。

 しかしそれは、この私が先に数字を書き終えるのを待っていたようにも思えた。二つの数字を考えあぐねていたわりに、この私が船橋にペンを返したとたん、二つの数字ともをすぐに手帳に書き記した。


 さてはこの私が船橋の手の動きを見て数字を書くことを警戒していたな? 

 馬鹿め! 

 そんな姑息こそくな手段に頼らずとも、凡夫の選ぶ数字は決まっているのだ。心を読む必要すらない。


「船橋、おまえが先に書いた数字を提示したまえ。この私は紙の複製は不可能だが、貴様は複製が可能なのだ。手帳のページはたくさんあるからな」


「ええ、かまいませんとも」


 船橋は自信を持ってそう答えた。高をくくっているようだ。この私に船橋の考えた数字が当てられるはずがないと、そう思っているのだ。

 この私が先に数字を書き、ペンを返した後に船橋は自分の手帳に数字を書いたのだから、そう思うのも無理はない。


 そして、その船橋が満を持して提示した数字がこれだ。




 《3・8》




 こやつ……凡夫! とんだ凡夫ではないか。

 この私をたばかろうと息巻いてやってきた小童こわっぱが、何者かと思えば、典例てんれいから片足すらはみ出さぬ凡夫の中の凡夫だった。

 これは傑作けっさくだ。


 この私は吹き上がる水蒸気のように遠慮なく沸き上がる笑いをこらえ、紙片しへんの折り目を開いてこの私が書いた数字を船橋に見せつけてやった。


「え……」


 ははは! それ見ろ。こやつの顔、傑作だ!

 この男、なかなかに端整な顔立ちをしているが、いまや二枚目の面影おもかげはどこにもない。眉は八の字に垂れ下がり、目はうつろに見開かれ、口に至ってはへの字と半開きの合わせ技まで繰り出している。

 まるでストリートビューの大画面に、燃えている自分の家が映っていたかのような顔だ。


「どうだね、船橋?」


「いやぁ、驚きました……。これがトリックだとしたら、ぜんぜんタネが分かりません」


「ふん。この私は他人の心が読めるのだ。外れるわけがないのだよ」


「でも、もしそうだとしたら、ただ一つの貴重な質問をあらかじめ考えてこなくて正解でした。言い訳を考える時間を与えてしまいますからね」


 こいつ、馬鹿か? まさかこの私の戯言ざれごとを信じたわけではあるまい?

 しかし、それにしてもこやつ、くじけない。

 探偵のくせに前向きにも程がある。探偵というのは、これでもかと後ろ向きになって、それゆえに慎重でいられるものではないのか。

 だがまあ、そんなことはどうでもよい。


「賭けはこの私の勝ちだな。この私はおまえに一つ要求できるのだったな。だがいまは気分がよい。要求は保留だ。気が向いたら要求するとしよう。もしこの私が今日中にその要求をしなかったならば、この私がこの権利を放棄したと見なしてもよいぞ。はっはっは!」


 船橋の表情はまだ回復しない。

 回復しないというより、賭けの商品についてこの私が言及したことによって、船橋は再び落ち込んだと見える。

 無謀な賭けをしたものだ。船橋は肥溜こえだめめに足を滑らせたかのような沈鬱ちんうつを顔に浮かべている。


「どうして分かったんですか? 心が読めるというより、未来を予知したかのようでした」


「それがおまえの『絶対に答えてほしいただ一つの質問』かね?」


「いえ、違います」


 船橋はうつむいたまま、声を低いトーンに抑えたまま応答を続けている。宿題を忘れた小学生が恐い教師に怒られている姿がまさにこんな様子だった。

 これこそが絶対的弱者の有り様だ。


「ならば教えぬ。だがもし、ただ一回のその権利を行使するならば、この私は嘘をつかずにちゃんと教えてやるぞ」


「いえ、結構です。その謎は必ず自分の力で解いてみせますから」


 ほう! こやつ、見上げた男だ。

 心なしか顔が少し上を向きはじめた。自分の言葉にはげまされているかのようだ。

 しかしそれはナルシストだ。弱者に変わりはない。

 凡夫であることも変わらない。

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