第6話

 翌日。


 探偵を名乗る青年が現れてから一日が経ったが、あれからまだ一度も奴はこの私を訪ねてきていない。

 奴の口ぶりから察するに、何かつかんでいるようであったが、本当は何も掴んでいないのかもしれぬ。

 この私が杞憂きゆうもてあそばれるなど、屈辱的なことである。


 そもそもニュースではあの女は自殺したのだと報じられたし、探偵小僧がこの私に妙な宣言を残してからも、女の死について改めるような報道はいっさい見られていない。

 これはもはや、凡偵ぼんていが先走って暴走し、一人でずっこけたと考えるほかないだろう。


 さて、昨日から気が引き締まっていたせいか、久しぶりに料理でもしようなどと思い立った。

 久しぶりのことなので、当然ながら材料がない。冷蔵庫の中にはよほど長期にわたり放置しなければ腐ることのないものしか入っていない。


 この私はスーパーマーケットという凡夫ぼんぷのための市場へと足を運ぶことにした。


 む、そこのおまえ、「また買い物か」などとほざいたな?

 この私は基本的に遊ばないのだ。ゆえにこの私の日常の中で特筆すべき行動といえば、買い出しくらいしかないのだ。


 娯楽ごらくという人間独自の文化は、自然の摂理をはなはだだしく逸脱いつだつした行為ではなかろうか。

 生きるのに必要なものではないというのに、共存すべき自然たちを大虐殺だいぎゃくさつして施設の建造や設備・用具の生産にいそししむなど愚の骨頂である。そのようなものにきょうずる人類は存在するだけで罪である。

 欲望の探求はせいぜい一時欲求の延長線上までにとどめておくべきであろう。


 おっと、すまない、おまえさんたち。おろかな凡夫どものために時間を取らせてしまった。


 ともあれ、この私はスーパーマーケット《M》へとおもむいた。この街では二番目に大きい店舗である。

 大きな駐車場内の車の低速な往来おうらいをかいくぐり、店の入り口に到達したところで、またしてもこの私はイレギュラーに遭遇することとなった。


「泥棒ーっ! その人を捕まえて!」


 女の悲鳴が聞こえて振り向いたら、そちらから黒子のように全身を黒でおおったやからが走ってくるではないか。黒いキャップの下には黒いサングラスに白いマスクという典型的な強奪者の格好である。

 フルフェイスヘルメットを被ったほうが簡単かつ確実に顔を隠せるのに、などと思いながら、この私はひったくり犯の前に立ちふさがった。


 ん、なぜ強盗でなくひったくりだと分かったか? 知りたいかね? 教えてやろう。

 武器を持っていないからだ。

 ナイフなどの凶器を持っていれば強盗、標的に気づかれずに奪うのがスリ、武器を使わず無理矢理に強奪するのがひったくりだ。


 さて、ひったくり犯は目前に迫ってきている。

 武器はない。おくすることはない。

 敵はいま、極まる緊張のために判断力が鈍くなっているはずだ。だから私は簡単に奴をほふることができる。

 少し左に身を寄せ、右に逃走経路を作ってやる。そしてこの私自身の背後から勢いよく飛び出すハイディング・ラリアットをかますのだ。

 敵が万一この私の腕をくぐる場合を想定して、右脚も横に出す。このダブルトラップを抜けられる者などそうそうおるまい。


 と、思っていた。


 ひったくり犯がヒョイッと褐色の折りたたみ財布をこの私に放ってきたのだ。財布は地味な色合いだが女のものだろう。

 放物線がなかなかに高い軌道を取ったため、上空を見上げざるを得なかった。

 その隙に奴はこの私の脇を通りすぎ、あろうことか尻ポケットに入れておいたこの私の長財布を引き抜いたではないか。

 この私は落ちてきた財布を両手で包むようにして掴むと、すぐさま背後へ振り向いた。


「そいつは泥棒だ! 捕まえたまえ!」


 後ろには、なんとあの探偵小僧の船橋がいたのだ。

 黒い盗人はまたしても獲得したばかりの財布を高々と放り投げ、まんまと船橋の視線を上空へ釘づけにする。


 ああ、あの間抜けめ!


 またしてもひったくり犯は船橋の横を抜けるのだろう、と思ったが、今度は船橋に真正面から突っ込む。

 両手を前に出した。

 船橋を突き飛ばして放り投げた財布を回収するつもりなのだ。


 しかし――。


 船橋を突き飛ばすはずの盗人は、右手首を掴まれてグルリと船橋を軸に周回しながら重心を押し下げられ、最後には地べたへとうつ伏せに押さえつけられた。

 押さえつけている側の船橋は、盗人の手首を掴む両手のうちの左手を離してサッと横に伸ばし、手のひらを上にしてその刻を待ちかまえる。

 この私の長財布がストン、と船橋の手の横を通ってアスファルトに叩きつけられた。


「おい、取りたまえよ!」


 この私と最初に財布をられた女性が駆け寄ると、船橋は苦い笑いを浮かべてこの私を見上げた。


「すみません。はい、これ、お返しします」


 この私は船橋から黒の長財布を受け取ると、女性に褐色の折りたたみ財布を返却した。

 女性にしては質素な色の財布だと思ったら、どうやらブランドものらしい。絡み合った二つのアルファベットが、下地と同系色で規則的に並んでいる。

 この私は自分の財布をでて付着した砂利を払い落とすと、すぐ元のさやに収めた。


「あの、ありがとうございました」


 女性がこの私と船橋に向かって一度ずつお辞儀じぎをした。


 おっと! 


 さっきは遠目で分からなかったが、この女性、大変な艶麗えんれいさを有している。

 歳は二十前後といったところだろうか。

 線が細いダークブラウンの髪はあでやかに肩まで流れ、透き通るような薄い卵色の肌の上に、うるわしい大きな瞳、小ぶりで形のよい鼻、薄紅うすべに色の上品な口がバランスよく整列している。

 背はこの私よりも五センチちかく低い船橋より、さらに五センチほど低い。

 清潔感のある白いブラウスに、膝上まである黒いプリーツスカート。

 清楚せいそ可憐かれんといった言葉が彼女のために用意された言葉であり、それらの言葉が彼女の出現を待ち望んでいたことを、この私はいまをもって悟った。


「あ、いえ、どういたしまして」


 大変、愛らしい。

 思わず非凡夫に対する紳士的態度を取ってしまった。いや、それはきっと間違っていないのだ。この女性が凡夫でないことは一目瞭然である。

 清楚で上品で、やはり艶麗えんれいなのである。

 態度も奥ゆかしい。この私がかつて手をわずらわせたあの豚女とは、ダイヤモンドとパンくずくらいの差がある。


 女性はもう一度この私と船橋に一礼してから、スーパーマーケットの中へと姿を消してしまった。


 ああ、名前をいておきたかった。いや、訊いてどうするということもないのだが。


「あ、日暮さん。見とれているところ、すみませんが――」


「失敬な! ぶしつけに何だね⁉」


 船橋は二ガッと笑った。おそらくニカッと笑おうとしていたら不意に怒鳴どなられて苦味が混じってしまったのだろう。

 その表情が面白くてこの私の苛立いらだちは流れ落ちてしまった。


「私がここに居合わせたのは偶然ではありません」


「つまり、君はこの窃盗犯を捕らえにきたというわけかね?」


「いえ、そちらは偶然です。私はあなたに会いにきたんですよ。急務のほうが片付いたのでね」


 なんと、この私は後回しにされていたということか。められたものだ。

 だがいまは、さっきの船橋の馬鹿づらのおかげで少しだけ気分がいい。


「何だね?」


「前回訊き損ねた質問をしようと思ってやってきたんです」


「ふん。財布を取り戻した礼に一つだけ答えてやろう。何だね?」


 もっとも、正直に答える気は毛頭もうとうないがね。


「あ、でもまた出直すことにします。いまはこの状況ですからね」


 船橋が下敷きにしている黒ずくめの盗人に視線を落とす。

 盗人は身動きが取れないのか、おとなしくしている。関節技がキマッていてあきらめているのだろう。声の一つも出さない。


「そうかね。ではこの私は行くとする」


「後ほど、ご自宅までうかがいます」


 この私の住所も調査済みということか。まあ、来たければ来るがいい。


 ……くそっ、部屋を掃除しなければならぬではないか。


 結局、スーパーのレジに並ぶこの私の買い物カゴの中には、カップラーメンが一つ入っているだけとなった。カゴは必要なかった。

 そもそもこの私がここに来たのは、料理をするための材料を買うのが目的だった。だが、ひったくり野郎に財布の代わりに料理をする精力を奪われてしまった。

 それ以上に、船橋の奴が来るために料理などしている時間がなくなった。


 なんとわずらわしいことか、凡夫どもめ。


 この私が溜息ためいきを一つらしたところで、ようやく一つ前に並ぶ親子の会計が始まった。

 カゴいっぱいに食品が詰まっていたが、幸いにも熟練した店員が手際よくバーコードをさばいていく。

 しかし言葉になんがあり、変なくせがある。

 これはこの店員に限ったことではないが、「お会計のほうが」といちいち「ほう」をつけたがる。言葉を丁寧ていねいにしているつもりだろうが、これは凡夫が教養の豪末ごうまつ加減を露悪ろあくしてしまっているだけだ。お会計でないほうとはいったい何なのか。


 そんなことを気にする気配もなく、主婦は財布の中をさんざんにまさぐった挙句あげく、一枚の札だけを差し出した。

 ベテラン園児か、あるいは新人小学生とおぼしき子供が、母親の太腿ふとももにガッシリとしがみついてその様子を見つめている。


「大きいほうのお返しが――」


「大きいほうってウンコォ?」


 くっ……、笑ってはならぬ! こんな凡児ぼんじの低俗な戯言たわごとなんぞに意表を突かれるなど、この私にあってはならぬことだぞ、断じて。

 うんこのお返しって何だ!


 ふう、ようやくこの私の番がきた。


「百四十二円になります」


 商品が一つなら「お会計のほうが」とは言わないのか。

 べつに言ってほしいわけではないし、むしろ言ってほしくないのであるが、言われなかったら言われなかったで誠意をはぶかれた気がして腹が立つ。

 これはこの私が矛盾むじゅんしているのではない。こやつが誰に対しても馬鹿な言い回しを使わないよう気をつけるべきなのだ。


 この私は三桁の数字を脳内で反復させながら、長財布を開いて小銭入れに手を突っ込んだ。

 だが、そんな私の手は意図せず止まった。


 違和感なんてものではない。


 驚愕きょうがくした。


 驚愕して固まった。


「お客様?」


 この私の財布の中身がないのだ。

 小銭の感触がなく、財布の重みもない。

 札が一枚も見当たらない。

 そして何より、免許証やクレジットカードなどのすぐには取替えの利かない極めて貴重なものまでもがごっそり消えていた。

 下手をすれば経済的大惨事を招くことになるかもしれない。

 よく見れば、財布自体がこの私のものとは似て非なるものであった。すり替えられたのだ。


 この私は蒼白になりながら、回想と後悔の入り乱れた奔流ほんりゅう沈降ちんこうしていった。

 すぐに船橋に電話をすれば財布は戻ってくるだろうか。

 だがこの私は船橋の連絡先を知らない。

 そしていま、この私の背後に列を成す凡夫どもの苛立つ視線に刺され、魂をえぐられつづけている。


 この私は混乱した。どうしていいか分からない。

 このままではこの私が窃盗犯せっとうはんになるのではないか?

 いや、冷静になれ。はじしのんで商品を返却すれば、とりあえず窃盗犯になることは避けられるではないか。

 そんな簡単なことに気がつくのも遅れるほど、この私は狼狽ろうばいを強いられている。この私の財布のことはその後に考えればよい。


「あの、お客様?」


 何だね! と怒鳴り返しそうになりながら、この私はどうにかこらえる。

 くっ、小銭すらない!

 このままではこの私が窃盗犯になってしまうではないか!

 そんなことになったら、警察がやってきて、この私のことを洗いざらい調べてしまって、もしかしたらこの私の完璧な工作が見破られてしまうかもしれない。

 そうしたらこの私は周知の殺人犯になってしまう!


「あ、ああ、あああ……」


 ああっ、小銭がっ、ないっ! ああああアアアアッ!


「あの、これでお願いします」


 そのとき、会計トレイにカチャッと硬貨の置かれる音がした。

 会計レーンの出口側に女性が立っていた。

 左手に二つ折りの財布を持ち、右手は置いた百円玉と五十円玉から手を離したところだった。


「あ、君は……」


「先ほどはどうも」


 女性は首をわずかに傾げながらニコッと上品な笑みをたたえた。

 この私は彼女を天使と見紛みまごうところであった。

 この私の中の天使のイメージは、もっと冷ややかで生命を感じさせない、冷徹れいてつなる美を有していたが、それらが描かれた壁画を突き破って出てきたのがまさしく彼女であった。

 もはや天使を超越ちょうえつしている。女神だ。


「八円のお返しになります」


「どうも」


 この私としたことが、なにをほうけているのだ。

 ふと我に返り、慌てて袋上部の輪に指を通した。中にはカップめんが一つ入っているだけであり、あまりの手応えのなさに左手が暴れ出しそうになった。


「あの……」


「ひとまず、ここを出ましょう」


 この私は彼女と並んで店を出た。二人して出入り口から出ると少し脇に寄り、そこでこの私は女性に礼を述べた。


「先ほどは大変助かりました」


 身軽な彼女がいったい何を買ったのか、この私にはうかがい知れないことであるが、会計を終えたのであろう彼女があそこを通りかかったタイミングは奇跡的なまでに完璧だった。


「あの、もしかして財布の中身を抜かれていたのですか?」


「いや、財布自体をすりえられていたのだ。君はそんなことはなかったかね?」


 いまの口調は少々偉そうにしすぎたかと思ったが、彼女に気にしている様子は見られなかった。

 さすがに非凡夫はうつわが大きい。


「私は大丈夫でした」


「そうか、それはよかった。その財布、ブランドものでしょう? いくらこの私をやり過ごすためとはいえ、それを手放すのはおかしいと思ったのだ。だがあのひったくり野郎は用意していたダミーとこの私の財布が似ていたためにターゲットを切り替えたのだ。いつの間にチェックしたのかは知らぬが。とにかく、収穫より安全策を取ったというわけだ。船橋がこの私の財布を取り返したために、警察に引き渡された後には犯行の事実だけを取り調べられるに違いない。それが済めば、この私の財産がまんまと奴のものになってしまう。刑罰で支払う罰金もこの私の金から支払われるに決まっている」


 目の前の女性に推測を語るうち、この私は腹の底から怒涛どとう憤怒ふんぬがわき上がってくるのを感じた。そうしてふくらむ袋が膨れすぎてはならないたぐいのものだと気づき、この私は慌ててその開口部を引き結んだ。


「その船橋さんというのは、先ほどひったくりを取り押さえてくださった方ですか?」


「ああ、そうだ。まったくスカした野郎だよ、彼は。君はあまり関わらないほうがいい」


「お知り合いなんですね。でしたら、その方に連絡を取れば、まだ間に合うかもしれません」


「いや、連絡先を知らないのだ。彼とは親しいわけではない。彼と会った回数は君より一度しか多くないのだ」


「そうですか。では警察に連絡して事情を話せば、なんとかしてくれるかもしれません」


「うむ、そうしよう。あとで電話しておく」


「はい、それがいいでしょう。クレジットカードなど入っていたなら、できるだけ早めのほうがいいと思います」


「うむ」


 くそっ、この私が警察に連絡などできるものか。

 万が一、この私の言葉や仕草からボロが出てあっちの件を調べられたなら、この私は一巻の終りなのだ。

 カード会社に電話してクレジット機能を止めてもらおうにも、何のカードにクレジット機能を付けていたかを忘れてしまっている。

 お手上げだ。


 そういえば、あとで船橋がこの私を訪ねてくると言っていた。

 仕方ない。奴に頼むとしよう。

 もし「仕事の依頼ですか?」などとほざいたなら、はっきりと「おまえが出し抜かれたのだ」と責任の所在を自覚させねばならぬ。


「では、私はこれで」


「あ、ちょっと待った」


 この私はとっさに引きとめた。それは意図せずに、ほとんど無意識のうちに放った言葉だった。


「はい、何でしょう?」


「ぜひともお礼がしたい。食事でもご馳走ちそうさせてほしい」


「いえ、お気になさらないでください。私も財布を取り返していただきましたから」


「いいや、さっきは本当に助かったのだ。些細ささいなことではあるが、この私は極度きょくどの混乱をいられた。あ、その些細というのは君の優しさのことではなく、この私が混乱した原因のことであって、誤解のなきよう頼む。そういうわけだ。この私は君に非常に感謝している。礼をしなければ気が治まらぬ。紳士のさがというものだ。どうか礼を受けてはくれぬだろうか?」


 女性はフフッと笑った。

 それが社交辞令の笑みなのか、上品にき出したのか、この私には知れぬところである。


「分かりました。それじゃあ私も財布を取り返していただいたお礼に、こんど食事でも作りにうかがわせてください」


 女性はカップ麺の入ったビニール袋を一瞥いちべつしてこの私に視線を戻し、やはり上品に微笑ほほえんだ。


「そ、それはいい。よろしく頼もう」


 しまった。カップ麺ばかり食べているわけではなく、料理くらいはするのだと弁明しておくべきだった。

 まあいい。

 この私は女性から名前や連絡先を聞き、いつ食事に行くかの約束までとりつけることに成功した。


 こんなにも胸が高鳴るのは生まれて初めてだ。

 これで財布がられていなければ本当に最高だった。

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