第5話

 腹が減った。

 休日の夕方5時。事件から一週間が経ち、ようやくまともな空腹感が得られるようになってきた。これまで身体が空腹なのに食欲がわかない日々が続いていたのだ。

 だがいまのこの私はすっかり健康である。肉体的にも、精神的にも。


 うむ、腹が減った。


 さて、おまえたちならどうする? コンビニに行くかね?


 ふむ、こういうときにこの私がどうするかというと、どうすると思うね? 

 教えてやろう。

 コンビニに行くのだ。

 そこは凡夫ぼんぷだろうが凡夫でなかろうが変わりはない。この空腹感をあやしながら料理をするというのは、さすがの私でもこくというものだ。凡夫でなくとも、コンビニエンスストアに行くことくらいはあるのだ。


 コンビニなんてものは、道端みちばたの石ころのようにどこにでも見られるものである。

 しかしあいにく、この私の家からは最寄もよりの店舗まで車で五分はかかる。その距離と空腹とに苛立いらだちを覚えるが、紳士たるこの私はそれを表には出さない。

 車を降り、コンビニ《L》の自動ドアとチャイムをくぐった。青い縦縞たてじまの制服に身を包む店員を横目にレジ前を通りすぎ、食品売り場へと直行する。

 この店舗の品ぞろえはそこそこ豊富なのだが、いかんせん商品の入れ替え頻度が少ない。空腹なのに食欲が刺激されないという滑稽こっけいな現象が私を襲う。

 たまには赤いほうのコンビニ《S》に行くべきだったか。

 舌打ちを我慢してお馴染みの弁当を手に取り、微糖コーヒー缶と併せてレジへ運ぶ。


「弁当は温めますか?」


「かまうな」


 凡夫め! 

 指定時間を無視して安易にレンジの弁当ボタンを押す凡夫などに、この私の弁当を温められてたまるものか。いつになったらこの私が決して他人に弁当を温めさせないと覚えるのか。


 この私は堪忍袋かんにんぶくろの中に不機嫌の種を放り込んで店を出た。

 凡夫どもよ、この私の堪忍袋が大きく、そしてそのが丈夫でよかったな。


 当然口にはしないが、そんなことを考えながら駐車場を横切って車へと向かう。

 その途中のことである。

 この私の意表を突く出来事が起こった。なんと、何者かがこの私に向かって親しげに話しかけてきたのである。


「日暮先輩じゃないですかぁ? お久しぶりですー」


 誰だ、こいつは! こんな奴は知らぬ!


 そこに立っていたのは、二十代前半と思しき若造であった。

 横に流した少し長めの黒髪、女のように白い肌。目線はこの私より低く、細身であるが、しかし筋肉の付きはまあまあといったところだ。総じてインテリ系の印象を受ける。キザ野郎の臭いがする。

 凛とした大きめの瞳と上弦に開いた口で笑顔を作り、走ってきてこの私のプライベートゾーンへと無断で侵入している。


 この私は自分の車を前に、開錠かいじょうしたばかりのスイッチをもう一度押して再び施錠せじょうした。


 さて、おまえたち。この私はいま、記憶にない旧知との邂逅かいこうという場面に出くわしているわけだが、こういうとき、おまえたちならどうするね? 

 覚えているふうよそおって会話の中から手がかりを探すかね? 

 あるいはテキトーに話を合わせてやり過ごすかね? 

 はたまた素直にどこの誰でいつの知り合いだったかたずねるかね?


 うむ。はっきり言うが、それらどの選択肢を選んだとしても、それは凡夫の判断だ。


 この私は違う。こんな奴はこの私の知人などではない。赤の他人、まったくの他人だ。

 最初に言ったろう。こんな奴は知らぬと。こやつは知人を装った詐欺師のたぐい相違そういないのだ。

 だからこの私は面と向かってはっきり言う。


「貴様、何者だ? 何をたくらんでいる? この私に近づき、何を奪う気だ?」


 はっきりと言ってやったぞ。さあ、どう出る? 程度の知れたカタリならば「人違いでした」と残して退散するだろう。しかしこやつはきっと粘る。見ていろ、きっと粘るぞ。なぜならこやつは、この私を「日暮先輩」と呼んだのだからな。


「なに言ってんすか。僕ですよ。船橋です。覚えていないんですか?」


 ほうら、粘った。この私の名前を周到に下調べしているのだから、簡単に引き下がるはずがないのだ。


「覚えていないのではない。知らぬ。貴様は誰だ? 貴様がこの私の知人だと言い張るのなら、その接点について、時期と場所と関係を詳細に述べてみろ」


「うわぁ、ひどいなぁ。本当に覚えてなかったかぁ……。小学校の運動会で、紅白対抗リレーで一緒に走ったじゃないですか」


 うむ、たしかにこの私は小学生のころに紅白対抗リレーなるものに出場した。紅白対抗リレーはごく少数が選抜され出場する。そのリレーにこの私が出場したという事実を知っていることはめてやろう。よく調べたものだ。

 しかし、こやつの認識は甘い。この私を出し抜こうなど、蜂蜜に埋没まいぼつした砂糖菓子よりも甘い。

 こやつがこの私と、そのリレーのメンバーだったというだけのつながりだったならば、それはこの私が覚えていないのも当然のこと。そう、当然なのだ。だからこやつが覚えていることがおかしい。

 すなわち、こやつはカタリである。

 リレーの学年の枠を超えた全体練習は一度か二度しかなかったし、練習でも本番でもメンバーと語らうことなど皆無であった。印象に残る出来事もなかった。

 ゆえにリレーのメンバーは一人として覚えておらぬ。

 にもかかわらず、メンバーの記憶があるというのはおかしい。しかも十年以上経っていて容姿も大きく変化しているのだ。


「この私は凡夫に友人などおらぬ。ゆえに、凡夫であろうと知人はすべて記憶している。貴様は断じてこの私の知人ではない。貴様にこの私をたぶらかす機など存在せぬと早々に知れ。 貴様は何者だ? 正体を現せ!」


 さすがにここまで痛言つうげんされてシラを切り通すほど馬鹿ではないはずだ。こやつはこの私について入念に下調べをした上で接触してきているのだから。その点を考慮すると、こやつはただのカタリではなく、ただ者ならざる何者かであるかもしれぬ。


「そうですか、はぁ、そうですか。なるほど、手強い人だ。私は船橋理と申します。探偵業をいとなんでおります」


 そうら、化けの皮をいでやったぞ。こやつ、探偵だったか。これまた馬鹿正直に名乗ったものだ。探偵ならばその職名を伏せるのが定石じょうせき、もはや常識でさえあるが、さてはこやつ、この私が職までも見抜いていると勘違いしたか? 

 ふん、間抜けめ。とんだ間抜けではないか。ミイラ取りがミイラになっておるわ。かっかっか。


 ……しかし、待てよ。探偵がこの私に何用だ? 

 探偵? 

 まさか……。


「何か探し物かね?」


「ええ、やっと辿りつきました。あなたを探していたのです」


「ほう、この私に何の用だね?」


きたいことがいくつかあったのですが、今日は答えてもらえそうにないのでやっぱり結構です。でもせっかく来たので、一言だけあなたに残していくことにします」


「何だね?」


「私はあなたをあばきます」


 む……。この男、大変な無礼を放言ほうげんしておいて、何を成しげたわけでもないのに、その自慢気な表情をこの私に見せつけているようではないか。


「暴く、だと?」


「ええ、そういうことです。それでは、また」


 男は軽い会釈を残し、黒いフルフェイスヘルメットを頭部に被せると、黒い中型二輪にまたがった。

 エンジン音とガスの臭いを残し、代わりにこの私の食欲を奪って颯爽さっそうと去っていった。


 いままで胸に抱えていた軽いモヤモヤが一気に質量を増し、崇高すうこうなるこの精神を内側からズイズイとひっぱっている感覚に見舞われた。

 不本意ながら、しばらくこの私に安寧あんねいはないと覚悟せねばならぬようだ。

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