第17話 眼鏡と眼鏡君と急接近

 

わしがお主の血の件を話した時、あ奴は心底後悔していた。

 お主を守り切れなかったと――

 課長に直訴してでも、お主を守備局から遠ざけるべきだと。

 あ奴は儂にそう言っていたが――」


 言っていたけど……何だろう?


「それでも、儂には何となく分かる。あ奴の心の底が。

 真言まことは本心では、お主に辞めてほしくないと思っておる。

 あ奴の数少ないわがままじゃな……

 それがお主の危険に繋がる以上、決して口には出さぬだろうが」



 どんな時でも人を助け、人を守ることを最優先に動いてきた八重瀬さん。

 そんな彼だ。私の血のことを知れば、真っ先に私を守備局から遠ざけようとするはずだ。

 でも――そんな彼が、私に、辞めてほしくないって、いうことは?



 晶龍ジェンロンはもう一度私の顔を遠慮なしに見据えると、ふっと笑った。

 その呼吸の温もりまで、はっきり分かる。

 ……って、ちょ、ちょっとぉ! あと少し踏み出せば唇触れそうな距離なんですけどぉ!?



「まぁ良い。

 そのあたりも、真言と話をしてみると良いだろう。

 時間はたっぷりある。じっくりと――な」



 悪戯っぽく微笑みながら、晶龍はそっと目を閉じる。

 夕陽の中、音もなく消えていく紅の輝き。

 同時に、こちらを押しつぶそうとしてくる奇妙な重圧も、ふいと消滅する。

 一瞬、彼の身体がふらりと前によろめき、私は慌ててその両肩を支えた。


「ちょ……

 あの、何、突然!?」


 そしてもう一度、彼がその瞼を開いた時には――



 あの、煌めくようなエメラルドの瞳が、じっと私を見つめていた。

 何が起こったのかすぐには理解出来ていないのか、まるで子供のように純真に。



「――あ、あれ?

 わ、わわっ!!」



 超至近距離にいる私に気づいた瞬間、見事に真っ赤に染まる頬。

 その表情ですぐに分かった。

 あぁ……八重瀬さん、戻ってきてくれたんだ。

 なんだか凄く懐かしい気さえする、綺麗な緑色の瞳。

 ただ、その瞳孔の周囲には、紅の光が微かに揺らめいている。

 さっきまでは晶龍のルビーの瞳の中にほのかな緑が光っていたが、その二色が完全に反転している。

 これまでも時々、八重瀬さんの目に不思議な紅がさしている気がしたけど、晶龍の影響だったのか。


「す、す、すいません、豊名さん!!」


 私の腕に思いきりしがみついている自分に気づいたのか、八重瀬さんは大慌てで身体を離す。

 あぁ……ちょっと勿体ない。

 眼鏡をかけてない八重瀬さんの大きな目、すごく綺麗だったのに。



「あ、あの……いや、違うんです!

 晶龍はホント、悪い冗談が好きな奴なんで、気にしないでください!

 豊名さんは……その……、あ、あれ?」



 両目をごしごしこすりながら、とても慌てふためいて懐を探る八重瀬さん。

 さっきまでの威厳はどこへ吹っ飛んだのか。というかこれまでも、こんなに慌ててる八重瀬さんとか、見たことない。

 右手で必死に目元を押さえながら、懐から手探りで眼鏡ケースを取り出したものの、焦りのあまりかケースごと床に転がってしまった。


「お、落ち着いてください八重瀬さん。

 とりあえず座りましょうよ」

「す、すみません……

 僕、眼鏡がないとホント、駄目なんです」


 うん、古典ギャグか何かかな?

 貯水槽のそばに八重瀬さんを座らせると、私はそっと眼鏡ケースを拾って差し出した。

 かちりと蓋を開けると、彼は目立った損傷のないノンフレームの眼鏡を取り出す。


「良かったぁ……ありがとうございます。

 お恥ずかしい話ですが、これがないと、僕……

『見えすぎて』しまうんです」


 心底ほっとしたように眼鏡をかけ直す八重瀬さん。

 って……ん? 

『見えない』んじゃなく、『見えすぎる』?


「あぁ……ちょっと分かりにくいと思いますが。

 晶龍を宿してから、僕、普段から様々なものが見えるようになってしまって。

 具体的には大気の汚れとか風の流れ、普通は見えない建物の細かい亀裂、人の毛穴や黒ずみなんかも、滅茶苦茶よく見えるようになっちゃって」


 え。

 それを聞いて、今度は私の方が若干引いてしまった。

 ってことは、私のお肌の状況とかもはっきり分かっちゃうってこと!?

 入院中のせいで、結構肌荒れ荒れなんですけどぉ!?


「時には霊的存在なんかも、当たり前のように見えてしまったり……

 だから裸眼でいると、その情報量に耐えきれなくて。

 晶龍なら平気でも、僕のメンタルじゃ無理なんでしょうね。数分で頭痛がしてしまうんですよ」

「……なるほど。

 だから、眼鏡で調整してるってことですか?」

「まぁ、そういうわけです。

 ……情けない話で、すみません」



 眼鏡を調整しながらそう呟き、肩を落とす八重瀬さん。

 せっかく生還出来たのに、さっきから謝ってばかりだな。八重瀬さんってば……



「僕は……本当に情けない男です。

 中島さんを救えなかったばかりか、さらに窮地に追い込んで、遂には魔獣化させてしまった。

 みんなを巻き込んで……しまいには、豊名さんまでこんな……!」


 助かったんだから、いいじゃないか。

 私なんかはそう思ってしまうけど、八重瀬さんとしてはそうもいかないんだろうな。

 そう思いながら、私は彼の右隣にそっと腰を降ろした。



「でも、八重瀬さんが頑張ったことで、課長もやっと動いてくれたんでしょう?

 だから多分、これで良かったんですよ。

 八重瀬さんが中島さんに手を差し伸べようとしたのは、人として当たり前のこと。

 それを駄目だと言ってる上層部の方が、おかしいんです。

 守備局の事情は私だって分かりますけど、それが中島さんを助けちゃいけない理由にはならないと思いますよ」



 袖は触れ合うけど肩はくっつきそうでくっつかない、微妙な位置に陣取りつつ、私は言った。

 課長の言った、『当たり前』という言葉を、敢えて使いながら。

 だってそうでしょう。私が中島さんの立場なら、絶対に助けてほしいもの。

 メンタルケア課のひっ迫ぶりは分かっていても、それでもどうしようもなくなったら、助けてほしい。

 それがどんなに自分勝手で迷惑になると分かっていても、どうしようもなく痛かったら、助けを求めてしまう。それは『当たり前』のこと。

 そして――

 そういう人が目の前にいたら、八重瀬さんのように動くことは出来なくとも、何とかならないかとは思ってしまう。例え、何も出来ずおろおろするばかりで、結果的に何も出来なかったとしても。

 それもきっと、人として『当たり前』のこと。



 すると八重瀬さんは、大きくほうっと息をついた。

 それが、安心によるものか諦めによるものか、私には分からない。


「ありがとう。

 豊名さんにそう言われると、ちょっとほっとします」


 そっと横顔を見ると、彼の前髪の間から、魔獣の核――青水晶が煌めいていた。

 夕闇の風に吹かれた黒髪はさらさらと揺れ、頬に濃い陰影を作っている。



「豊名さんには……まだ、お話していませんでしたね。

 魔獣化しても元に戻り、どうにか社会復帰を果たした人が、どうなっているか」



 それは確かに、聞いたことがなかった。

 魔獣化して八重瀬さんたちが撃退しても、元に戻る確率は五分。

 人間に戻っても、長期のこん睡に陥る人も多いとは聞いたけど――

 その確率を潜り抜けて、何とか社会復帰出来た人の話は、まだ耳にしたことはなかった。


「そういう人は、すごく運がいいと思ってましたけど……

 そうじゃないんですか?」


 八重瀬さんは静かに首を横に振る。



「魔獣から元に戻ると――

 その原因となった心の傷が、元からなかったことになります」



 え?

 私は思わず、八重瀬さんをまじまじと見つめてしまった。



「社会復帰出来たとしても、心の一部がぽっかり空いた状態になります。

 心の傷が治るわけじゃない。傷ついた心の部分をまるごと消失させてしまう。

 要するに、左腕が傷ついたならその腕をまるごと切断してしまえと

 ……僕らのやっているのは、そういうことなんですよ」



 唇に笑みを湛えながら呟く八重瀬さんだが、その目は決して笑ってなどいなかった。



「その状態で職場に復帰すると……

 本来ならストレスを受けて然るべき状態なのに、殆どストレスを感じなくなり。

 どんなに痛めつけられても、何も感じなくなってしまう。

 人としての部分をどんどん失い、結果、会社に言われるままの労働用ロボットのようになってしまう人も少なくないんです」

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