第13話 魔王、覚醒

 

 豊名あかねが、刺された。

 それも、八重瀬のほぼ真上で。

 その光景を、ともえ由自は少し離れた滑り台で情けなく倒れ伏しながら、じっと凝視することしか出来なかった。

 あかねが魔獣の牙で、その身をざくりと貫かれても――


 巴自身はもう、どうすることも出来なかった。

 切り刻まれた血みどろの身体は既に全ての力を失い、指一本すら動かせない。

 まだどうにか動く肺の全力を振り絞り、あかねに叫ぶことぐらいしか、彼に出来ることはなく――


 そして悲しいかな、ただの派遣OLたるあかねには、魔獣の牙から逃れる術など持ち合わせているはずがなかった。

 結果、彼女はまんまと魔獣の手にかかり――



 あぁ。

 ごめん、八重瀬。あかね。せん兄。

 俺、何も出来ねぇ。

 情けねぇ。このまま俺、何も出来ずに――



 思わずぎゅっと目を瞑りかける。目の前の光景を見ていられず。

 しかし――その瞬間。



 あかねの血をまともに顔に浴びた、八重瀬。

 その紅が頬を濡らし、額の水晶を僅かに侵食したと思った、その時だった。



 ぴくりとも動かなかったはずのその瞼が、再び見開かれた。

 それも、くわっと音がしたかと思うほど、勢いよく。

 牙を抜かれ、どっと背中から血が噴出するあかねの身体。

 その身は力を失った人形のように、八重瀬の上に倒れかかったが――



 不意に動いた右腕が、彼女の身体をがしりと受け止めた。

 その頭髪は既に黒髪ではなく、根元から一息に色を変化させている。

 ――まるで満月のようにほのかに輝く、銀色に。



「……まさか」

 その光景を凝視しながら、巴はそう呟くことしか出来ない。

 そんな。今までずっと、何とか八重瀬が抑えつけていたはずなのに

 ――『あいつ』を。



 あかねを抱きしめながら、ゆっくりと上半身を起こす八重瀬。

 その胸から噴き出す血は、既に止まっている。というよりも――

 その傷自体が、恐るべき速度で回復していた。

 数秒前までは内臓まで到達していた傷が、逆再生の映像の如く元へ戻っていく。

 切り裂かれ血まみれのスーツだけはそのままに、肉と骨と皮膚が綺麗に修復されていく身体。



 思いがけず復活を遂げた八重瀬に、やや怯えたのか。

 魔獣はその紅の眼球を奇妙に震わせながらも、もう一度狂気の右腕を振り上げる。

 しかし――


 それが振り下ろされるより、ずっと速く。


 腕から先が失われていたはずの、八重瀬の左肩。

 その断面が不意に光で覆われ、中から桜色の粘土のような肉がぶくぶくと膨らんだかと思うと

 一瞬のうちに元の腕の形を成していく。

 何が起こったか、巴ですらも理解出来ないでいるうちに

 再生された腕は真っすぐ魔獣へと向けられ

 指先から生まれた光が、一撃のもとに魔獣を吹き飛ばした。



 今や、八重瀬の10倍近くまで膨れ上がっていたはずの魔獣。

 その体躯がいとも簡単に、軽々と30メートル以上も空を飛び、轟音と共に公園の林に激突していく。

 樹木と共になぎ倒され、魔獣の図体は公園のすぐそばの道路までもを破壊して、ようやく止まった。



 あかねを抱いたまま、顔中に飛び散った彼女の血液を、美味そうにぺろりと舐める八重瀬。

 その瞳は、既にいつものエメラルドではなく――

 ルビーを思わせる紅に変化している。

 額に燦然と輝くものは、澄み切った青の水晶。



 その姿を間近に見て、巴は思った。

 俺が動けないのは、傷のせいだけじゃねぇ。

 心底、怖いんだ。俺は、『あいつ』が――

 八重瀬が宿しちまった、あの、バケモノが。

 痛みよりも激しい恐怖で、指も足も震えてる。



 左腕と同様に、潰れていた両脚までもが同じように再生を遂げ。

 八重瀬はあかねを右腕に抱きながら、ゆっくりと立ち上がった。

 その光景を、巴はじっと瞳に刻み付ける。

 いや――もう、あれは八重瀬じゃない。

 八重瀬の形をした。八重瀬がその身に、ずっと封じ込めていた――

『魔獣』を統べる『魔獣』。言うなれば、『魔王』だ。



 哀れにも、道路にまで吹き飛ばされた魔獣。

 しかしそれでも素早く身を起こすと、再び八重瀬に向かい、獰猛な唸り声を上げる。

 果敢にも、八重瀬にもう一度飛びかかっていく魔獣

 ――奴もまだ、諦めてねぇ。

 だけど――可哀想だが、もう終わりだよ。中島さん。

 アンタは目覚めさせちまったんだ――この世で最強の、『魔獣』を。



 そんな巴の予想と、一切違うことなく。

 次の瞬間には、魔獣の身体に幾つもの丸い風穴が空いていた。

 左腹と右胸、右頬の肉が、パンパンパンとリズミカルな音を立てて消失していく。



 それでもなお空中に留まりながら、狂ったように頭部から無数の牙を発射する魔獣。

 しかし今の八重瀬の前では、それすらも徒労にすぎない。



 差し上げた左腕を、無言で静かに横へ薙ぎ払う八重瀬。

 その一瞬、大気全体がゴウっと音を立てて切り裂かれたかと思うと――

 圧縮された空気が、八重瀬の周囲でバチバチと弾け、一気に周囲へと飛んでいく。

 その凄まじき風圧は一瞬で、撃ち放たれた牙を全て、一つ残らず打ち落とした。



「――!?」



 何が起こったのかまるで理解出来ないのか、紅の眼球全てをきょときょとさせる魔獣。

 だが――既にその眼前に、八重瀬の姿はない。

 その瞬間には彼は地を蹴り、華麗に空を舞って――いや、天に悠々と浮いていた。

 再び左手に握られていたのは、砂場まで吹っ飛んだはずの大剣。

 剣身は先ほどと同じく10メートルまで一息に伸びていたが、その幅と、生み出す青い炎の勢いは比較にならぬほど凄まじい。

 ただの人間が数メートル以内に近寄れば、それだけで焼け焦げてしまうのではないか。それほどの炎が、八重瀬の大剣を包んでいる。


 その唇に浮かんでいたのは、ディスペア級の魔獣でさえも嘲るかのような、微笑み。

 普段決して八重瀬が見せることのない、狂気の笑みだ。



「我は晶龍ジェンロン――

 魔と人を繋ぎ、その均衡を図る調停者。

 何人たりとも、我の前で融和を乱すこと、許さぬ!!」



 そのまま剣を大きく振りかぶり、魔獣へと斬りかかる八重瀬。

 当然、魔獣も残された腕を懸命に振り上げ、抵抗を試みたが――


 その腕は根元から全て、粘土細工のように簡単に引きちぎられた挙句、

 額の水晶が、一瞬で縦に割られた。

 八重瀬の振り下ろした、刃の一閃によって。



 自分たちがあれほど苦労した、核の破壊。

 それがあまりにも呆気なく、成された。

 無数の硝子の欠片となって、雨中に弾け飛んでいく水晶。

 遂に全ての力を失い、魔獣は地表へどうっと沈んでいく。



 巴は思わず、倒れている宣の方を振り返っていた。

 いつもだったら、核を失った魔獣を元の姿に戻すのは宣兄の仕事だ。

 だが今、宣兄は動けない。

 だったら――



 紫の血を滝のように流しながら、地に伏してびくびくと蠢く魔獣。

 天からゆっくりと舞い降り、音もなく魔獣へと迫る八重瀬。

 治癒したばかりの素足が、砂を踏みしめる。その周囲から舞い上がる水煙。まるで、彼の気迫をそのまま表すかのように。

 右腕にはあかねが抱かれ。

 その左手にはまだ、輝く刃が握られていた。



 ――まさか、あいつ。

 嫌な予感がして、巴は思わず全身で叫ぶ。



「やめろ……八重瀬!!

 そいつを殺っちまったら、お前は戻れなくなる!!」



 そんな彼の叫びも聞こえていないのか。それとも、聞こえていても無視しているのか。

 八重瀬は全く表情を変えないまま、倒れた魔獣に向けて剣を振りかぶった。

 間違いない。あいつは魔獣を――中島を、殺す気だ。

 魔獣の核を破壊した状態で、人間に戻さずそのまま殺害すれば――

 その人間は、人に戻ることなく確実に死亡してしまう。



 駄目だ。それだけは、絶対に。

 八重瀬。お前だけは、絶対にやっちゃいけない。

 あれだけ優しかったお前だけは――!!



 思わず叫ぼうとした巴。

 だが、それが声になりかかった瞬間――


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