第8話 零れ落ちるものは


 中島さんの腕は脇の下から強引に枝分かれし、それぞれ3本、両方合わせて6本に増える。

 膝のあたりからいつの間にかにょきにょきと木の根の如く生えていた触手は、大地に思いきりめりこみ、中島さんのいる地面そのものを土煙と共に隆起させていく。

 薄かったはずの髪の毛はいつの間にか真緑の長髪と化し、大きく振り乱された。

 この街全てを破壊せんというほどの憎悪の咆哮が、ビリビリと天を揺るがす。

 どんどん巨大化していく中島さんは、全身が真っ黒に光る鱗で覆われていた。

 何だろう、あの鱗。まるで金属みたいな――



 その瞬間にはもう、八重瀬さんは大剣を背から抜き放ち、

 豪雨の空へと飛翔していた。


「豊名さん!

 すぐに課へ連絡を!!」


 そう叫びながら、八重瀬さんは中島さんの左肩を一瞬にして切り裂いた。

 最早、八重瀬さんの3倍以上には膨らんでいる中島さんの身体。

 それを、いとも簡単に。

 ――それでも中島さんの膨張は止まらない。止まれない。

 周囲を侵食しながら増え続ける溶岩のように、さらなる膨張を続ける肉体。

 それは、あっという間に傷口さえも強引に修復し。

 やがて、天を覆い隠すほどの巨体に変貌していく。

 八重瀬さんの一撃を喰らっても、中島さんは痛みで絶叫しながら、右腕――

 3本生え揃った一番上の腕を、八重瀬さんに向かって振り下ろす。


「――!」


 私が声にならない声をあげると同時に。

 八重瀬さんのスーツの左肩が、ほんの少しだけ弾け飛んだ。血しぶきと共に。


 ――今まで、彼が血を流すところなんて、見たことなかった。

 何度魔獣と戦っても、ほぼ無傷で戻ってくるのが八重瀬さんだったのに。


 それでも彼は怯むことなく着地すると。

 左手に剣を構えたまま、右の掌を地面についた。

 すると――



 一瞬で、周囲の景色が変化した。

 八重瀬さんの掌から、不意に生まれた力の震動。それは地面を伝う波紋となって、その場の空気全てをまるで水のように変化させていく。

 それは私と中島さんを巻き込みながら、ぎゅるぎゅると不可思議な音をたてて、大きな飛沫に包んでいく。

 まるで、公園自体が水の中に落とされたみたいだ。




 もしかしてこれ、結界の発動?

 結界に入ったことは何回かあるけど、こうやって発動させるものだったのか。






 そしてもう一度目を開けた時には、私も八重瀬さんも二人とも――

 見知らぬ湖の岸辺にいた。

 日本かどうかも分からない、深い森。木々に囲まれ、本来なら鏡のように澄み切っているであろう、清浄な水を湛えた湖。

 だが今なお、その湖には豪雨が降りそそぎ、激しい波まで立っている。

 天は墨を流したかのように黒く、星のひと欠片も見えやしない。



 いつの間にか、その湖の岸辺にぺたんと座り込んでいた私。

 そんな私を守るかのように、傍らに立つ八重瀬さん。

 しかし、僅かに切り裂かれた左肩からは、じわりと黒い染みが拡がっている。

 剣を握りしめた左手は既に、真っ赤に染まっていた。



 そして湖の中心に佇むは勿論、魔獣と化した中島さん。

 彼の身体は、既に人の形ですらなく――

 最早腕だか脚だかも分からない枝のようなものが胴体から次々と生え、まるで巨大なムカデのような形状にまで変化していた。

 頭部には青く煌めく水晶。ぐりんと紅に輝く眼球は、いつの間にか6個に増えている。

 耳まで裂けたその口からは、無数の黒い牙が飛び出していた。



 雨に濡れながら無我夢中でスマホを取り出したものの、手ががくがくと震えてうまく操作出来ない。

 それでも私は、何とかメンタルケア課へ繋がる緊急連絡用のボタンをタップした。

 タップ一発で緊急事態をお知らせ出来る、スグレモノ。勿論、場所だって分かる。

 だが、送信完了を確認するかしないかのうちに――



 数分前まで中島さんだった魔獣。その喉が大きく開かれ、突如炎を噴いた。

 ただの炎ではない。空気を焼きながら一直線に飛んでくる、青白い閃光だ。

 その光が見えたか見えないかのうちに

 八重瀬さんはガバッと私の身体を抱え

 大地を蹴って跳んだ。



 直後、私たちが今までいたはずの岸辺が、爆発した。

 飛沫と共に、粉みじんになって吹き飛んでいく大地。

 そして――



 ちょうど私は空中で、見事に八重瀬さんにぎゅっと抱きしめられてしまっていた。

 細めの体躯に似合わない、力強い右腕。

 単純に死にたくないので、私も両腕で彼の身体をぎゅうっと抱きしめ返す。

 びっしょり濡れて肌に張りついたワイシャツを通して、八重瀬さんの体温と心音がじかに頬に感じられて――

 こんな状況にも関わらず、私の胸が一瞬、どくんと鳴った。

 酷い血と雨の臭いに混じっていても、感じる。

 八重瀬さんの、どこまでも相手を包み込もうとする、暖かな匂いを。



 しかし飛んでいる八重瀬さんと私に向かって、中島さんは閃光を次から次へと乱れ撃ってくる。

 それを全弾、紙一重で躱し

 時には刃で弾き返し

 八重瀬さんは舞い散る水飛沫を蹴るように跳躍していく。


 彼は私をどこへ降ろそうか、安全地帯を探っているようにも見えたが――

 無制限に撃たれる熱線を見る限り、八重瀬さんの懐が一番安全としか思えない。

 だけど私を抱えていると、そのうち彼が防戦一方になってしまうのは目に見えていた。


 あまりにも容赦なく、一方的に撃たれ続ける閃光。

 さすがの八重瀬さんも、攻めに転じることが出来ない。それぐらいは、ド素人の私でも分かった。

 これまで出現した魔獣とは、強さがまるで違う。

 いつもだったら、八重瀬さんが一撃のもとに水晶をぶった斬って終わっているのに。


 そうして、ひたすら閃光を避け続けているうちに


「――ぐっ!」


 頭のすぐ上で、八重瀬さんの微かな呻きが聞こえた。

 見ると、彼の左太ももから、真っ赤な血の帯が空へと伸びている。

 切り裂かれたグレーの布地が、血飛沫と共に頼りなげに雨中へ舞っていた。

 明らかに、さっきの肩への一撃より深い。


「八重瀬さんっ!?」


 彼を抱きしめていた両腕に、思わず力をこめてしまう。

 直後にどうっと酷い衝撃と共に、私と八重瀬さんは殆ど倒れ込むようにして、岸辺に着地していた。


「だ……大丈夫、ですか。

 豊名さん」


 肩で大きく息をしながら、私の下から起き上がった八重瀬さんは、全身泥だらけ。

 多分、私に怪我をさせないよう、着地の瞬間に自分が下になるように庇ってくれたんだろう。

 当然私も全身に泥を被り、いつものフレアスカートが真っ黒になってぐっしょり脚に張りついていたが、八重瀬さんに比べれば全然だ。

 こびりついた雑草を払いのけながら、彼はじっと俯く――


 湖の方では、中島さん(だった魔獣)は閃光を放出しきったのか。

 一旦、息を潜めるように周囲を見渡していた。

 私たちはちょうど、木陰に隠れるような位置に着地することが出来たようで、何とか魔獣の視界からは逃げおおせている。

 だけど、それもいつまでもつか。



「……申し訳ありません。

 僕のせいで、貴方まで巻き込んでしまった」



 ぺたんと座り込みながら俯く八重瀬さん。

 ただでさえ細身のその姿は、いつもより一層小さく見えた。

 きらきら輝いていたはずの大剣も、力を失ったように泥に投げ出されてしまっている。

 左肩の傷口を押さえた手の上にまで、雨が白い飛沫をあげている。

 彼の脚は半分ほど泥だまりの中に沈んでいたが、太ももからどくどくと流れる血が、泥すら真っ赤に染めていた。


「う、動かないでください!

 早く止血しないと……」


 私はポケットからハンカチを取り出し、彼の太ももの傷口を押さえる。

 あっという間に手もハンカチも、真っ赤に染まった。

 そんな私の頭上から、ふと八重瀬さんが呟いた。


「……課長や宣さんの、言う通りでした。

 僕が何をしようとしたって

 ……結局、中島さんを追い詰めるだけだった」


 流れる血を押さえながら、何も言えない私。

 そんなこと、ないです。そう言いたくてたまらなかったけど――

 宣さんと課長の言葉が、頭の中で反響した。


 ――指を広げれば広げるほど、指の間から零れ落ちるものは増える。

 こういうことか。


 それは多分、八重瀬さんも同じだったのか。

 眼鏡の縁や鼻先からまで雫をこぼしながら、慟哭する。


「偽善でもいい。その偽善が、人を救えることもあるんだって……

 僕はずっと、そう思ってた。

 だけどその偽善が……

 こうやって奥さんやお子さんを傷つけて、しまいには中島さん自身を――!」


 そんな彼の嘆きすら嘲笑うように――

 湖の方から再び、魔獣の咆哮が地鳴りのように響く。

 しかしその時、同時に天を満たしたものは

 ――雷光にも似た煌めきだった。


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