第7話 地獄の門は開かれた

 

 翌日――


 その日は朝から、雨が降っていた。

 昼過ぎに巴君と宣さんは巡回から戻ってきたが、八重瀬さんはまだだ。

 こういうことは一度や二度ではない。通常の巡回を終えても、八重瀬さんは戻ってこないことが多かった。

 その理由はもう、私にも分かる。勿論、他に魔獣化した人がいないかを確認する為だ。

 決められた巡回ルート以外にも。

 巡回を終えた宣さんは、不機嫌そうに黙りこくって書類整理を続けている。

 いつものように巴君はロケランを磨きつつも、時々ちらちらと宣さんに視線を投げていた。

 オフィスの重苦しい雰囲気は――

 雨と、古ぼけた蛍光灯の光のせいだけではない。

 宣さんは昨日の公園での出来事以降、八重瀬さんとろくに口をきいていなかった。

 巴君もそんな二人の険悪な空気を察したのか、必要以上の会話を避けているように思える。


 それとは別に、私は少し気になることがあった。



 ――それほどまでに自分を追い込んだから、お前は!



 あの時、宣さんが八重瀬さんに投げつけた言葉。

 あれは一体、どういう意味なんだろう。

 課長は確か、八重瀬さんが魔に魅入られたと言っていた。

 八重瀬さんが『魔』に魅入ったのではなく、『魔』の方が八重瀬さんに魅入った、と。

 それと、何か関係があるんだろうか。


 ともあれ、今日ももう17時。定時を過ぎている。

 八重瀬さんの帰りを待っていても無駄っぽい。

 顔を合わせて何かを聞くのは、諦めた方が良さそうだ。

 私は挨拶もそこそこに、カバンを取ってオフィスを出た。



 *****



 オフィスは出たものの、何故か嫌な予感がして。

 私の足は駅ではなく、いつのまにか公園へと向かっていた。

 八重瀬さんが中島さんと会っていた、あの公園へ。



 そこで私が見たものは――



 傘もささずに。いや、持っていた青い傘を投げ出したまま。

 茫然と立ちすくんでいる八重瀬さんの後ろ姿だった。


 雨は土砂降りに近くなってきているのに、八重瀬さんはじっと動かないまま、眼前の何かを見据えている。

 グレーのスーツは雨に濡れ、全身真っ黒。袖口からも髪からも、背負った剣の鞘からも、ぼたぼたと雫が滝となって零れ落ちている。

 その両拳は、血が出るほど強く握りしめられていた。


「や……

 八重瀬、さん?」


 私はおずおずと声をかけながら、傘を差し出そうとして彼に近づく。

 だが、もう少しで傘に入れられそうな距離まで近づいたその瞬間、八重瀬さんは振り向きもせず突然右手を伸ばし、私を止めた。


「近づくな。

 これ以上は――危険です」


 囁くように私に告げる八重瀬さん。

 何が何だか分からず、思わず彼の視線の先を見ると――



「……え?

 そんな、嘘でしょ!?」



 思わず叫んでいた。

 何故って、そこにいたのは、あの中島さんだったから。

 ベンチにぐったりと腰を下ろしながら、昨日と全く変わらないくたびれたスーツで、私たちを見据えている。

 だがその目に、あの時の気弱そうな光はもうなかった。

 ただただ憎悪と絶望に満ち、狂ってしまった人間の目。

 何より違うのは――



 中島さんの右手に握られたもの。あれはまさか、包丁か。

 刃先から腕まで真っ赤に染まっているのは……もしかして……

 嫌だ、違う。

 ねぇ、嘘だ、嘘だと言って。

 だって中島さんはあの時、八重瀬さんが助けたんじゃなかったの?

 奥さんと話をして、魔獣化が止まったんじゃなかったの?



 薄くなった髪から垂れ下がる雫。

 蒼白になった唇から、吐き出された言葉は。



「八重瀬さん……

 私、駄目……でした」



 包丁を握りしめた中島さんの手首は、どこまでも青白い。

 だからこそ、その皮膚で凝固した血液が、残酷なまでに赤黒く見える。

 そんな彼の言葉を、じっと黙って八重瀬さんは聞いていた。



「……妻はね、暴れ出したんです。

 私が会社を辞めたと言った瞬間のあいつの顔は、まるで般若だった」



 耳を疑った。

 つまり、八重瀬さんの言う通りに本当のことを話したら……

 奥さんが?



「私にゃ、どうすることも出来なかった。

 泣きわめく子供らを、あいつから守るぐらいしか出来なくて……

 あいつぁ、子供の首を絞めようとしたから、咄嗟に私は

 ――気づいた時にゃ、もう遅かった」



 まさか。

 まさか、そんな……

 中島さん、奥さんを包丁で?



「私、もうおしまいです。

 再就職が決まるまで、私さえ黙っていれば、全ては丸く収まった。

 なのに……」


 怨みで黄色く染まった眼球で、中島さんは八重瀬さんを見据える。

 それに対して、八重瀬さんは何も言わない。

 ずっと黙っていたら、中島さんは魔獣化したじゃないか。そんな当然の弁解すら口にしない。

 ただずぶ濡れになりながら、全ての罪を被るかのように相手の言葉を受け止めようとしている。

 そっと横顔を覗くと、眼鏡からさえも雨が滴り、まるで涙のように見えた。




 だが悲劇は、決してそこでは終わらない。

 むしろ始まりだった。




「豊名さん……下がって!

 もうこの人は、止まれない!!」



 絞り出すような八重瀬さんの絶叫が、雨中にこだまする。

 一体どんな想いで、彼はその言葉を口にしたのか。

 その右手は、既に背中の大剣、その柄を握りしめていた。



 それに呼応するかのように――

 中島さんの四肢が、まるで風船の如く急速に膨張を開始する。

 眼窩から飛び出しかけた眼球はそれぞれ別の方を向き、頬を流れる涙には血が混じりだす。


 その血は紅ではなく――紫。

 魔獣の血を意味する、紫紺の色。



「そんな……中島さん!」



 私の悲鳴など、届くはずもなく。

 中島さんの身体は一気に、人ならざる体躯の怪物へと変化していた。

 心に澱の如く積み重ねられた、憤怒と絶望。それを体現するかのように。


 少し広めだった額をいきなり突き破って出現し、燦然と輝きだしたものは、間違いなく――

 あの、青く澄み切った水晶。

 魔獣の核。


 中島さんの身を包んでいたスーツが、一瞬で宙に弾け飛んでいく。

 彼をどうにか人の形に留めようと、その表面で頑張っていた布地が全て、呆気なくただの糸くずとなって雨に消えていく。

 その内側から出現したものは――



 最早、人間ではなかった。


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