第4話 世間と魔獣と「当たり前」
私は最早声も上げられず、この一連の光景に魅入ってしまっていた。
八重瀬さんが剣を魔獣から抜き放つと同時に、魔獣の巨躯はどうっと轟音をたてて地表へと墜落していく。
黒い鱗粉が魔獣の表面から大量に浮き上がり、結界内部の空気を汚した。
表情を一切変えることなくその光景を見守りながら、課長がふと呟いた。
「昨夜貴方も目撃したと思いますが――
八重瀬はああ見えて、非常に優れた戦士です」
そうだろう。今の斬撃を見れば、誰だってそう思う。
しかし課長が言いたいのは、そこではないようだ。
「ですが……
あまりにも優しすぎる」
え?
酷く唐突なことを言われた気がして、思わず課長を振り返った。
「昨夜貴方が助けられたのも、たまたまその場を通りかかったのが八重瀬だからでしょう。
彼は誰でも彼でも、自分の目の前にいる人間は全て助けようとする男です」
そんな課長に、私は思わず反論していた。
「八重瀬さんには、本当に感謝しています。
でもそれは、地域守備局の……」
「仕事だと、貴方はそう言いたいのですよね。
仕事ならば、八重瀬が貴方を助けるのは当然だと」
私の言葉を先回りして口にする課長。
眼前の魔獣は既に摩天楼の谷間に消え、もうその呻きすら聞こえなくなっている。
課長の糸目の間からほんの少し覗いたものは――
見た者全てを震え上がらせるほどの、鋭い眼光。
「否定はしませんよ。貴方のその考えは、この国では当たり前とされているものです。
家族が突然倒れたら、救急車を呼んで当たり前。自分が誰かに襲われたら、警察を呼んで当たり前。
ですが……
ここに入ったからには、決して当たり前とは思わないで頂きたい」
課長の目に射すくめられ、私は完全に何も言えなくなってしまう。
「現実には、魔獣や魔獣化の兆しを見せている人間は巷に溢れかえり……
守備局の人間だけでは対処不可能になっています。
だから今では、魔獣対応も限定的にせざるを得ない。
魔獣化の兆しがあると分かっていても、より緊急性の高い案件を優先しなければならない時が殆どです」
魔獣撃退と同時に、結界も消失し。
私たちの周囲からは摩天楼のイルミネーションが忽然と消え、元のオフィスが戻ってきた。
「それでも八重瀬は、目の前にいる者は全て、自分の手でひたすら救おうとする。
――人間一人が、その手で守れる人間の数には限界がある。
指を広げれば広げるほど、指の間から零れ落ちるものは増える。
それをどれほど言ったところで、彼は聞きません」
でも、そのおかげで――私は助かったのか。
八重瀬さんの、いわば底抜けのお人よしのおかげで。
「だからこそ彼は……
『魔』に、魅入られてしまったのですがね」
独り言のように呟く課長。
その視線の先では、守備局の正面玄関に無造作に墜落し、びくびくとエビのように跳ねようとする魔獣の姿があった。
そんな魔獣の前に進み出たのは、宣さん。
長身の彼が無言で背中の斧を大きく天に振り翳す姿は、まるで異世界の戦士のようにも見えた。黄金の鎧でもつけたら一番似合うだろう。
だが今彼がやっているのは、戦いではない。
振り翳された斧から暖かな光が溢れたと思うと、魔獣の姿は一瞬で消え失せ――
その場に倒れ伏していたのは、一人の人間の女性。
白いブラウス姿に茶色のロングスカートは、私の普段の仕事着とそこまで変わらない。
年も私とそこまで変わらないように思える。染めてないひっつめ黒髪というところだけ、ちょっと違うが。
この人が……あの、虫みたいな魔獣だったというのか。
そんな彼女を急いで助け起こしながら、宣さんは他のメンバーを呼んだ。
建物から一斉に救護班らしき一隊が現れ、手早く彼女を取り囲んで移送用の車に運んでいく。
野次馬は当然わらわらと集まっていたが、救護班のきびきびとした動作のせいで彼らには何が起こったのか、殆ど分からなかったようだ。ろくに撮影できなかったとかいう、不平の声さえ漏れている。
日常の空気が戻ったオフィス。
眼下の光景をじっと眺めながら、課長は呟いた。
「仕事なのだから、それが当たり前。
身も心も生活も、魂さえも仕事に擲つのが当たり前。
この国特有のそうした考え方はやがて顧客の傲慢を生み、企業に対する過度な要求を生み。
そして労働者から、魔獣が生まれた。
――このことだけは、覚えておいてくださいね」
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