第四話 再会

――どれだけ私が変わっても

     あなたは変わらずいてくれますか?――


  *


 サクラのことが判明してから三時間が経つが、一行は引き続きフローへ向かっていた。

 道中でサクラがゾンビに襲い掛かろうとしたのだが、リョウに抱きかかえておいてもらっているうちに、アネットが倒した。

 そのまま捨てておくのはもったいないので、アネットは倒したゾンビをその場ですべて食べた。その間、リョウはサクラを抱きかかえたまま見張りをしてくれた。

 また、サクラは道中で虫を見つけては食べていた。おそらく、餌が手に入らないときは、そうやって飢えをしのいでいたのだろう。

 そうしていくつかの町を抜けてきたたが、どこもさびれて人の気配はなかった。まだ生きているような人間は、生存協会のようなグループに入っているのだろう。

 道中で空き家を見つけた際は物資を探すのだが、出てくるものは無用の長物となってしまった電子機器がほとんどであった。

 そんな中で、アネットが手に取ったのは小形のビデオカメラがだった。一緒に保管されていたバッテリーには、まだ充電がたっぷりと残っている。SⅮカードが挿さっていないため撮れる量には限りがあるが、持って行くことにした。

 少し前に立ち寄った空き家では、犬用の首輪が見つかった。首周りの大きさを調整できて、リードの着脱できるものだる。その首輪をサクラにつけるべきかを話し合うことになった。

「これ、どうしよう?」

 アネットは、サクラを抱いているリョウに聞く。

「サクラが嫌がらなければつけてもいいと思います。でも、ハナのスカーフが気に入っているようですし、持っていくくらいがいいかもしれませんね」

「ワン……」

 サクラがなんともいえない鳴き声をあげた。

「そっか。……じゃあ、リョウがつける?」

 アネットは冗談のつもりでそんな提案をした。

「え、なんでですか?」

「え、なんで、かぁ……」

 アネットは、リョウが首輪をしている姿を見てみたいことに気づいたのだが、恥ずかしくなってごまかした。

「そういえば、アネットさんも首輪をつけていますよね」

「あぁ、うん。これはね、親友の形見のチョーカーなんだ」

「あっ、なんだかすいません」

「ううん、むしろ、久しぶりに思い出せて良かったかな」

 (こんな世界で、こんな身体で生きていると、過去を振り返ることも忘れてしまうな)

「アネットさんもサクラも首につけていますし、サクラに必要なとき以外は、この首輪は僕がつけるとします。リードはしまっておきますね」

 リョウはアネットの手から首輪を取り、自分の首に巻いたのだった。


  *


 一行はそれからも歩き続け、まだ日が高いうちにフローの町へと辿り着いた。

 リョウは少し疲れた様子だったが、まだまだ気力は残っていた。一方サクラは元気にしっぽを振っていた。

 フローは今までに通って来た町と同様、人の気配がまるでしなかった。

 キシネン家は町の入り口辺りに、イキルシカ家は町の中心部辺りに位置しているため、一行はキシネン家へと訪れることにした。

 リョウが家に帰ってきたのは家族旅行に出発して以来だった。家の中は時間が止まってしまったかのようで、家族の思い出がそのまま残されていた。

 それでも、家具の位置が多少変わっていたり、保存食がなくなっていることから、人の出入りはあったようだ。とはいえ、酷く荒らされてはいないようで、リョウはサクラを床へと下ろした。その途端、サクラは一目散にキッチンの奥へと駆けていった。サクラは犬用の餌皿を引っ張り出し、アネットの前に置いてお座りをした。

 皿を確認すると、裏面にはサクラと書かれていた。

「もしかして、ハナちゃんとサクラはここで暮らしていたのかな?」

「かもしれません」

 リョウはアネットのポシェットから餌を取り出し皿に入れた。サクラは尻尾を振りながらそれを食べる。

 サクラがエサを食べている間に、二人は二階の探索を始めた。

 両親の寝室で写真立てに飾られた家族写真が見つかり、アネットはリョウの両親とハナの顔を知ることとなった。父親は金髪碧眼で屈強なアメリカ人男性で、母親は線の細い日本人女性であり、リョウは母親似なのだと分かった。

 ハナは髪の長いリョウといった感じで、本当に双子なのだと分かった。髪の色はリョウと同じく黒いのだが、ハナの瞳の色は茶色だった。その顔を見て、アネットはハナと会ったことがあるような気がしたが、リョウの面影なのだろうと考え直した。

 また、寝室からはアルバムも見つかった。リョウの邪魔をしては悪いと思い、アネットはとなりの部屋で持ってきた小説を読みながら待つことにした。

 しばらくすると、リョウの嗚咽が聞えてきた。アネットは読み終わりそうな小説のページをめくる手を止め、本を閉じて自分の両親のことを考える。

(多分、家に二人はいないんだろう。でも、居場所の手掛かりが見つかったり、何か繋がりを感じられるものを持ち歩けたらいいな)

 アネットはしばらく両親のことを考えていたが、リョウが向かってくる音が聞こえてきたので、さっきまで読んでいた小説を開いた。

「もういいの?」

 アネットが聞くと、リョウはしっかりと頷いた。

「アルバム、持って行かないの?」

「荷物になるのも良くないですし、この一枚だけ持って行くことにします」

 リョウの手には、先程の家族写真があった。

「……あ、そうだ! さっき見つけたビデオカメラで、アルバムの写真を撮ったらいいんじゃない? この家の様子と一緒にさ」

 アネットのそんな提案に、リョウの表情は一気に明るくなった。

「そうします! アネットさん、もう少しだけ待っていてくれますか? 撮りたいものが、たくさんあるんです!」

「うん、気が済むまで撮るといいよ。わたしはここで、本でも読んでいるからさ」

 アネットは手に持った本をリョウに見せてあおいだ。

 リョウを待つ間、アネットはすぐに小説を読み終えて、本棚から一冊の写真集を手に取った。それは、世界中の廃墟が映された写真集だった。

 廃墟など、今となってはどこにでもある風景だったが、世界を切り取って作られた写真からは、様々な想いが感じられるような気がした。

 リョウの撮影が終わると、一行はキシネン家をあとにした。

 写真立てには家族写真の代わりに、若き日の両親の写真が入れられた。


  *


 イキルシカ家を目指して町を歩く。

 道中、ハサミ形のマークが赤いスプレーで壁に描かれた家が散見された。

「あれってなんだろう?」

 アネットの何気ない疑問に、リョウは少し間をおいて答えた。

「……生存協会が使っているマークです。おそらく、探索済みの印なんでしょう」

「なるほどね」

(この町は生存協会が探索済みっていうことか。もしかしたら、二人は生存協会にいるのかもしれない)


 イキルシカ家へと辿り着くと、玄関の壁に赤いハサミが描かれていた。

「これ……」

(生存協会のマークだ……)

「はい、生存協会です。探索済みの印ではなく、印のある家の人間を生存協会に匿ったという意味なのかもしれません。この予想が当たっていれば、アネットさんのご両親は無事に生きていることでしょう。生存協会が悪いグループというわけでは、決してないはずですので」

 リョウが心配してくれていることが、アネットには伝わった。

「そうだね、ありがとう」

 玄関を開けて家の中に入り、廊下を進む。

 アネットが高校に入学して以来、初めての帰宅であった。

 家の中は多少荒れているが、昔となんら変わった様子はないようだ。冷蔵庫や引き出しの中を確認してみたが、物資は見つからなかった。

 キッチンのカーペットをどかして、床下収納を確認してみる。アネットの母親はよく、床下収納に大切なものを隠していた。

 収納の中に物資は見当たらなかったのだが、一通の封筒が見つかった。封筒には父親の字で『アネットへ』と書かれている。

 アネットは小さな希望と大きな不安を抱き、その封筒を手に取った。

 そのとき、二階から物音が聞こえた。リョウが二階を探索しているのかと思ったが、リョウもサクラも一階にいた。

 アネットはひとまず、手に取った封筒をポケットに入れた。

「アネットさん、今……」

 リョウが声を潜めて話しかけてくる。

「うん、何かが落ちたり倒れたりしたのか、誰かがいるみたいだね。……もしかしたら、”何か”が”いる”のかもしれないけれど」

 リョウの首輪をサクラにつけ、リードで暖炉に括り付けた。アネットはリュックを下ろすと、バットを手に持つ。

「アネットさん、行きましょう」

「うん」

 足音を潜めながら、二人は階段を上がる。

 二階にはアネットの部屋と両親の寝室、小さな客室と書斎があった。

「どうしましょう。手分け、はしない方がいいですよね」

 リョウが引き続き小声で話しかける。

「そうだね。……やっぱりリョウはここで待っていてくれるかな? もし部屋から誰かが出てきたら、私を呼んですぐに一階に逃げて欲しい」

「……分かりました」

 アネットは大きく頷くと、二階へと一歩踏み出した。


  *


 まず、アネットの部屋を確認する。

 何かが潜んでいる気配はなかった。クローゼットの中も確認するが、中学の頃に着ていた服が並んでいるだけだった。懐かしい思い出が並んでおり、手に取りたい気持ちに駆られたが、そんなことに気を取られている暇はなかった。

 もう一度ざっと見回して、廊下へと戻った。


 次に書斎へ。

 書斎の扉は部屋の配置の関係で内開きになっていた。アネットがドアノブを握ってドアを押そうとしたが、扉は数ミリしか動かなかった。おそらく、書斎の中で本棚が倒れて、扉を塞いでいるのだろう。

 客室と書斎がベランダで繋がっていることを思い出したアネットは、客室を探索してから、ベランダを通って書斎を確認することにした。


 客室の扉を開ける。

 アネットが住んでいた頃から全く変わっておらず、最低限の椅子と机が置かれているのみであった。これといって隠れられる場所もなく、早々にベランダへと出る。

 ベランダからは、アネットの予想通り、本棚が倒れて扉を塞いでいるのがガラス戸越しに見えた。部屋の中にも一見異常はなさそうだったが、本棚をバリケードにしているのならば、誰かが潜んでいる可能性は大いにあった。

(ゾンビならば対応できるけれど、人間だったら上手に対応できるか心配だ。争いにならないといいんだけれど)

 そう思いながらガラス戸に手をかける。鍵はかかっていないようで、ゆっくりと扉が開き、アネットは書斎へと足を踏み入れた。

 探索は可能な限り早く終わらせたかった。というのも、もし未探索の寝室から敵が出てきた場合、階段の途中で待っているリョウを助けに行くには、ベランダと客室を経由せねばならないからである。

 本棚の陰から人が出てこないか用心しながら書斎を調べたが、異常は見つからなかった。探索中、子供の頃に両親からもらって何度も読み返した『アルジャーノンに花束を』を見つけ、封筒を入れたポケットへと忍ばせた。

 扉を塞ぐ本棚を立て直して廊下へ戻ろうかとも思ったが、物音を出すのは控えるべきと考えて、来たときと同様にベランダを通って廊下へ戻った。


 会談で待っていたリョウと顔を見合わせ、頷きあってから寝室の扉を見る。

 リョウは自分の顔を指すと「僕もついて行きますか?」と小声で聞いた。

 アネットは迷ったが、他の部屋は安全確認が取れており、奇襲をかけられることはないだろうと判断し、小さく頷いた。

 寝室の部屋をゆっくりと開ける。

 その途端に襲われる可能性を考慮していたが、室内は閑散としていた。

 寝室にも異常がないようであれば、先程の音はさしずめ、書斎の本が床に落ちた音か何かだったということになるのだろう。

「特に異常はありませんね」

 リョウが室内を見渡して、ほっとした様子で言った。

 そのとき、ウォークインクローゼットから物音が聞こえた。

「!」

 リョウが自分の口を両手で覆う。

 アネットはバットを持ち直し、臨戦態勢をとった。

 じりじりとクローゼットに近づいていき、一気に扉を開ける。

 何かが飛び出してくるかと思ったが、視界には何も映らなかった。しかし、物音が引き続き聞こえてくる。

 アネットが音を頼りに視線を落とす。よく見ると、暗いクローゼットの床には両手両足を切断され、胴体と頭だけになったゾンビが二体うごめいていた。

 そのかたわらには、切り落とされた手足と斧が転がっている。

「ひっ」

 暗闇に目が慣れたのか、少し遅れてゾンビを視認したリョウが小さく悲鳴を上げた。それに反応して、ゾンビたちの動きが活発になる。

 だが、アネットの思考は停止していた。自分が考えていることが、どうか現実ではありませんようにと強く願う。

「リョウ、この人たちのことをしっかり確認するから、ちょっと下がっていて」

 頭の中の不吉な考えを振り払い、アネットはクローゼットへ足を踏み入れる。

 衣服が目に入るたび(お父さんはこのシャツが好きだったなぁ。お母さんがこのワンピースを着ているところ、写真でしか見たことがなかったなぁ)と、思考だけが勝手に進んでいった。

 クローゼットの奥まで辿り着き、アネットは足元で身じろぐそれを両手で持ち上げた。干からびた人間の感触が伝わってくる。

「お母さん……」

「えっ……」

 クローゼットの外から、リョウの声が聞こえた。

 すっかり変ってしまった母親をアネットはきつく抱きしめた。どれだけ見た目が変わっていても、それが母親であることがアネットには分かった。

 久しぶりの母親との抱擁は、アネットからの一方的なものだった。母親はアネットには一切反応を示さず、外で待っているリョウに向けてうなり声をあげながら、憎しむような視線を向けていた。

「お母さん、一回置くね」

 母親だったそれをクローゼットの壁に立て掛け、アネットはもう一体のゾンビを同じように持ち上げようとした。しかし、そのゾンビは右腕だけはまだ胴体と繋がっているようで、リョウに向かって必死に手を伸ばしていた。その腕をよく見ると、アネットの父親と同じ刺青が入っていた。

 この腕一本だけでは、クローゼットから出ることもできなかったのだろうが、酷使された腕は切り落とされた者よりもさらに痛んでいた。

 アネットは左手で父親の腕を掴み、右腕でその胴体を抱え上げた。

「お父さん」

「……」

 クローゼットの外からは、今度はなんの反応もなかった。一方でクローゼットの中の父親の視線はリョウにのみ投げかけられている。

 まるで、アネットなど存在しないかのように。

「アネットさん……」

 リョウがアネットの名前を呼んだ。しかし、それに反応したのはアネットではなく、その両親だった。母親は唸り声を強くし、アネットに抱かれた父親は、その右腕を必死にリョウへと伸ばしていた。

「リョウ、心配してくれてありがとう。この部屋を汚したくないから、二人を抱えて下に降りるね」

 リョウは大きくゆっくり頷くと、寝室を出て階下へ向かった。アネットは両脇に両親を抱え、二階から降りていく。

 リビングでは、一足先に降りたリョウがサクラのとなりに座っていた。

「アネットさん……」

 リョウはなんと声をかけたらいいか分からないのだろう。アネットのことを気に掛けて視線をずっと送っている。

「……とりあえず、二人を楽にしてあげようと思うんだ。私が食べるってことも考えたけれど、私には出来そうにないや」

 損得勘定だけで考えるのならば、ゾンビの肉は少しでも食べておいた方がいいだろう。だが、両親の味なんて知りたくないとアネットは思った。親友の味を知っているくせに何を言っているんだと思われるかもしれないが、とにかくできなかった。

「どう、するんですか?」

「中庭に埋めてあげようと思うんだ。生き埋めじゃ可哀そうだから、しっかりと終わらせてあげて、二人一緒に埋めてあげる」

「……僕に、何かできるこ」

「ないよ」

 つい、リョウの言葉を遮るように言葉が漏れた。

「そうです、よね」

「ううん、ごめんね。やっぱり動揺しているみたい。でも、手伝ってもらうのは危ないし、自分の手で葬ってあげたいんだ。……でも、一つだけ手伝ってもらおうかな。中庭に出たいから、そこの扉を開けてくれる?」

 アネットはリビングと中庭を繋ぐ扉を顎で指した。

「はい」

 リョウに扉を開けてもらい、アネットは二人を抱えて中庭へと出た。


  *


 両親を地面に寝かせる。

 アネットは、何も考えられなかった。

 リビングへと戻ってシャベルを手に持つ。

 バットや斧の方がしっかりと終わらせてあげられるだろうかとも思ったが、どちらもクローゼットの中に置いてきてしまっていた。二階へと戻る気力が沸かず、シャベルを手に中庭へと戻った。

 父親のそばに立ち、頭部に向けてシャベルを思いっきり振り下ろした。

 父親だったものはその一撃で動かなくなったが、アネットにはその感触が感じられなかった。シャベルを通した攻撃であっためだからだろう。

 だが、頭を砕いた際に顔へと跳ね飛んだ脳漿の感触だけは、アネットにも鮮明に伝わってきていた。

 ただ、悲しさと虚しさだけが渦巻いていた。

 アネットの心は泣いているのに、泣くという機能を失ったアネットの目からは、一滴の水も流れてこなかった。

 そのままアネットは、父親の頭部を細かく細かく砕いていく。

 いつの間にやら父親の頭部は庭の土と混ざり合い、それが誰だったのか分からなくなっていた。


 アネットは母親を見つめる。

(お母さん、いつも美味しいご飯をありがとう。でも私は、味が分からない身体になっちゃってたんだ。また会えたなら、お母さんの作る料理を美味しいふりをして食べようと思っていたけれど、もう料理をすることなんてないんだね)

(私が寮に入ることになって、お母さんは家事を教えてくれたね。いっぱいレシピを教わった。そのおかげで、私は料理が好きになったんだよ? 今は味見もできないけど、料理はできるって考えていた。再会した時には、手袋でもして料理を作って、お母さんに食べてもらいたかったな)

(お父さんと同じ場所に、しっかり埋めてあげるからね)

 アネットは、母親の頭部にも同じようにシャベルを突き刺した。

 なんども、なんども、なんども突き刺した。

 その間、アネットは父親のことを考えていた。

(私がメグと一緒の高校に通いたいって相談したら、一緒にお母さんを説得してくれたね。お父さんは悪いことをしたら叱ってくれたし、成功したら褒めてくれた。口数は少なかったけど、話が分かる人だった。お父さんとの会話が、私には大切だった)

(困った時はお父さんに相談することが多かったよね。メグはお母さんに恋愛相談をしているって言ってたけれど、私が相談するならお父さんだって思ってたよ。お父さん、好きな人の話なんてしたら怒ったりしたのかな? それとも、真剣に相談に乗ってくれたのかな? きっとすっごく真剣に考えて、お父さんの方が寝不足になっちゃったりしたんだろうね)

 考えながらシャベルを振るっていると、振りかぶった際によろめいて、左目の少し下をシャベルで切り裂いてしまった。傷口から赤い血が流れていく。

 アネットはまるで、血の涙を流しているかのようだった。

 じきに、母親の頭部も土と混ざり合ってしまった。

 アネットの顔にはシャベルの傷跡も、血の跡すらも残っていなかった。

 まるで、何事もなかったかのように。


  *


 アネットはクローゼットから両親の手足と斧とバットを持ってきた。バットはリビングのリュックに立てかけ、手足とリュックを手に中庭へと戻る。

 中庭の桜の樹の下に、二人を埋めるための穴を掘る。少しずつ沈んでいく太陽に、待ってくれているリョウとサクラのことが気になったが、アネットの穴を掘る手は止まらなかった。そのまま掘り続け、日が沈む一歩手前で二人を埋められる大きさの穴が完成した。

 このまま穴を掘り続けて、自分も一緒に埋まってしまおうかとアネットは考えたが、自分が穴を掘ったのはここで終わるためではなく、先に進むためなんだと、リョウとサクラのことを思い出した。

 両親を穴の中へ横たえ、頭部の混じった土を被せた。

 次に母親の両手両脚、父親の左腕と両脚を穴の中へ並べる。その際、両親の左手から結婚指輪を外した。一緒に埋葬すべきか迷ったが、形見として預からせてもらうことにした。

 穴を埋め終わると、墓標の変わりにシャベルを突き刺した。リュックには、シャベルの変わりに斧をかけることにした。

 すべての作業が終わったとき、アネットを照らすのはいつの間にか、太陽の光から月の明かりになっていた。

 アネットが静かに扉を開けて家の中へ入ると、机の上には蝋燭が立てられて、小さな赤い火がゆらゆらと室内を照らしていた。

 その光に照らされて、サクラに寄り添って眠るリョウが見えた。

 アネットはリョウたちを起こさないように、ゆっくりと扉を閉める。

 蝋燭の小さな明かりに照らされながら、ポケットの中から形見の指輪と封筒と『アルジャーノンに花束を』を取り出した。

 封筒の中には二通の手紙と、一枚の地図が入っていた。

 アネットは手紙を読んだあと、朝になるまで『アルジャーノンに花束を』を繰り返し繰り返し読んでいた。


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