第8話 初めての過去への旅
「同じ次元間を移動するのは、身体を持っていても、特に問題ないんだ。時間も自由に操れる。ただ、過去、未来の移動となると同じ次元間でも、身体が邪魔になることがある。ただ、今回は、近い過去に移動だから、そこまで神経質になることはないかな」
航輝は、過去の流鏑馬を見に行く前にそう話した。
「とにかく、なるべく関わる人は少ない方がいい。過去で会った人とはいえ、私たちにも彼らにも記憶として残るからね」
「わかったわ、航輝君。おとなしく見学するわ。でも、ドキドキする。過去に行っちゃうのね、私」
瑠璃が、珍しくはしゃいでる。
その様子をみて、航輝も笑顔になった。すると、ふわっと瑠璃は体が浮かぶのを感じた。
「あ、この感覚覚えてる。航輝君と初めて会った時の感じだ……」
そう心の中で思い、その浮遊感を少しの間、楽しんだ。
すると、だんだん下の方に下がっていく感覚に変わった。足先から、ゆっくりと意識が上ってくる。もやもやした空間に、色が付き始める。
深く息をしてみた。すると、木々が生い茂る空間が、一瞬にして現れた。糺の森だ。
瑠璃は、何度かここを訪れている。母が学会などで京都に来ることが多いので、それに便乗した家族旅行を季節に合わせて楽しんでいる。
今日の糺の森は、少しざわついている。流鏑馬を見学にきた人の気配だろう。
「瑠璃君」横を向くと変わらぬ姿の航輝がいた。
「ここが流鏑馬の会場だね、合っているよね」
「うん、『糺の森』というのよ。奥には下鴨神社があるわ。帰りにお参りして帰りましょうね」
「いいよ。でも、まずは、流鏑馬見学だ。あの辺りに人が集まっているね、行こう」
明日の神事の練習日ということだが、結構な人がいた。すでに見学の座席も作られている。私たちもその人混みの中に入って、座席の割り当てを持っていた。始めるまでは、面白いおじさんが、この場を仕切っていた。
そのおじさんの話を、瑠璃と航輝は、周りの観客と一緒に笑いながら聞いていた。おじさんの話が終わると、ふっと静かになった。流鏑馬が始まる緊張感とでもいうのだろうか、皆小声で話を始めた。
世界遺産に、下鴨神社と一緒に登録されている糺の森のは、古来からの植生する木々がトンネルような空間を作っている。その厳かな雰囲気も手伝って、ぴんと張ったような空気が流れる。
瑠璃は、目を閉じ、耳を澄ませた。木々の葉が擦れる音、人々のざわめき。その中に馬の息遣いまで聞こえるような気がした。
瑠璃の様子に、航輝が気づいた。小声で瑠璃に話しかける。
「瑠璃君、どうしたの?」
「ちょっとこの雰囲気を味わっているの。航輝君もやってみたら?目を閉じて、耳を澄ますの」
「耳を澄ます?」
「うん、耳に意識を集中するの。すると、いろいろ聞こえてくるのよ、葉の擦れる音とか」
航輝は、黙って瑠璃の言うとおりにした。人間の五感を使う意識的に使うのは初めてだ。
目を閉じると、暗い闇の中に入る。周りの人たちのひそひそ話。靴が擦れる音か、それと同時に座席が少し振動しているのを感じる。少しすると、自分の呼吸を感じる。鼻の通る感じがいつもよりはっきりする。
「始まるみたいよ」と瑠璃の声が聞こえた。航輝は、パッと目を開けた。観客は皆、左側を向いている。その左側奥から、迫ってくるようなエネルギーを感じる。
砂を力強く蹴る馬の足音。それに、馬具が擦れる音が合わさり、音が大きくなる。騎手が何か叫んでいる。馬の足音にかき消され、よく聞こえない。一番目の的に矢を打ち込んだようだ。
速い!
騎手と馬が瑠璃と航輝の前を通り過ぎる。かなりの速度で、走り抜けていく。その間に、また矢を射る。3回ほど矢を射るのだが、二人とも圧倒されて、何が起こったかわからないうちに、最初の流鏑馬は終了した。
「すごい。びっくりした」瑠璃が、思わず声にした。
「私もだ。馬は全力疾走だな。あの馬上から矢を放つのか」
瑠璃も航輝も、少し本心状態だ。前を向いたままの姿勢で、会話していた。
その後も、次々と流鏑馬は続いた。だんだん、音にも慣れて、騎手の声、矢が的に当たる音などがわかるようになってきた。
騎手は、練習日だったが、武者姿だった。明日の正式な衣装ではないが、それでも十分だった。
練習が終わり、瑠璃と航輝は、楽しそうに話しながら座席を降り始めた。
「騎手が、矢を射る時、なんて言ってたか聞こえた?」
「いや、馬の足音の方が大きくて、聞き取れなかった」
すると、前にいたおじさんが振り向いた。
「『陰陽』と言っているんだよ」そう、教えてくれた。
「そうなんですね。知らなかった。ありがとうございます」
瑠璃が笑顔で答えた。そして、台座を降りきったところで、おじさんはさらに説明してくれた。
明日の本番は、平安装束の騎手と武者姿の騎手が参加する。平安装束の流鏑馬は、下鴨神社でしか見れない。騎手は、小笠原流の方達と教えてくれた。
瑠璃は丁寧にお礼を言った。
「ありがとうございます。参考になります」別れ際、おじさんは言った。
「明日は、今日の倍以上の人たちが集まるよ。それに、神事だから、実際の流鏑馬が始まるまでかなり時間がかかるんだ。それを思うと、今日見学して良かったかもしれないね」
おじさんと別れた後、瑠璃は、航輝をすぐ振り返った。
「ごめん、過去の人と話しちゃった。大丈夫かな?」心配そうな瑠璃をよそに、航輝は涼しげに答えた。
「あのくらいの会話は、大丈夫。実際、話すこと自体は問題ないんだ。未来に起こる出来事などを話さなければね。それに、過去の人じゃないよ。彼にとっても、瑠璃くんにとっても現実だ」
「そうなの?」まだよく状況を理解できない瑠璃は、首を傾げた。
「ここに来る前も言ったが、彼の記憶に私たちは残る。とっても薄くね。何年か経って、写真を見せれば、何となく見たことがある人ぐらいに思い出すだろう」
「そうね、それなら、ここも私たちにとっては現実ね」
「そうだ、でも彼にとって私たちと出会ったことは、彼の人生に何の影響もない。それなら、問題はないということだ」
「わかったわ。さて、下鴨神社にお参りして帰りましょ」
新緑の木々のトンネルを、瑠璃と航輝は並んで歩いた。葉の隙間から、こぼれ落ちる光がキラキラ眩しかった。
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