第7話 一緒に行こうよ!
「なんなんだ、これは?」
航輝は、目の前に置かれた弓道着一式をみて唸った。
「弓道着よ、これを着て弓道をするの。基礎トレーニングが終わるまではジャージだけど、早ければ6月の終わりには、これを着て練習できるのよ」
瑠璃が上衣を広げて、航輝に見せた。
ここは、弓道部の部室。
無事、弓道部に入部することになった航輝。瑠璃たち同級生より約一ヶ月遅れの入部の航輝に、瑠璃が部活内容や注意事項、また弓道の用語などを説明することになった。そのため、特別に昼休みに部室を使う許可をもらっている。
航輝は、着物を見ることも、着ることは初めてなので、身に付けるものが大いことに驚いている。弓道着は、上衣・袴・帯・足袋。これに女性は、胸当てをつける。
「道着は、正式な日本の着物より、かなり簡略化されているのよ。日本の歴史は、知識としてあるのでしょ?着物を着るためには、たくさん帯を使うのよ」
「紐一本で、きっちり着ることができるのか?」
「大丈夫よ。慣れれば、ちょちょいのちょいだから」
「なんだ、その『ちょちょいのちょい』とは?」
「――『あっという間』とか『簡単』と言う意味よ。英語だと『a piece of cake』。『朝飯前』ともいう。混乱するかな?まぁ、着付けは、先輩が教えてくれるわ。男子は男子の着付けがあるから」
相変わらず、聞きなれない日本語が出てくると、聞き直す航輝にちょっとうんざりしながら、瑠璃は答えた。もちろん、遊び心も忘れない。
「朝飯前とは?」航輝が聞き返す。瑠璃は、聞こえないふりをして、道着の説明を続けた。
柔道や空手は、上下揃った道着を着用。空手着は、少し薄手の生地だったりする。
合気道は、上下の道着に袴を履く。合気道の袴は、他の袴と違って、背中に差し込む「へら」がない。
剣道は、弓道と同じで上衣だけ。その道着の上に、防具をつける。どちらも使用する袴は、『馬乗袴』と言って、ズボン型のものだ。後ろを少し上げて着るため、へらを帯に込み段差を作る。
「『行燈袴』というのもあって、これはスカート型なの。現在は、大学の卒業式に女性の学生が着用することが多いわ。色も豊富なのよ」
「状況に合わせて少しずつ違うということか」航輝が、呆れ気味につぶやく。
「うん、特に神主さんとかは、袴の色や柄によっても等級が違ったりするから、さらに細かい。巫女さんは、朱色だけどね」瑠璃がちょっと首を傾げて答える。
茶道や華道でも、男性は、袴を履く。昔は、羽織袴が、日本の男性の正装だったと瑠璃は、航輝に説明した。
「服装で決まるわけじゃないけど、やっぱり袴には憧れるわ、私」
「そんなものなのか」
「うん、和装は日本文化の一つだしね。今は、なかなか着る機会がないから、せめて袴だけでもっと思っている」
瑠璃が、楽しそうに言った。
「それに、弓道って女性は、お正月は晴れ着を着て矢を射るのよ。素敵でしょ?」
「――素敵かどうか、わからない」ときおり、瑠璃の質問に、航輝はどう答えていいかわからない。
「そうそう、矢を射るのは、別に道場だけじゃないの。『流鏑馬』というのがあるわ。馬に乗って、矢を射るの。かっこいいのよ」
「へぇ、そんな競技もあるのか?」
「競技と『神事』があるの。――流鏑馬といえば……そうだ、この時期京都で葵祭というのがあるの。その前に、京都の下鴨神社で行われる流鏑馬が有名よ」
「見てみたいな」航輝がつぶやく。それを聞いて瑠璃が答えた。
「うーん、ちょっと遅かったかな。葵祭は、ちょうど今頃だけど、流鏑馬は5月のはじめに終わってしまうのよ」
それを聞いた航輝が、少し考え込んでいる。5月はじめに航輝とあって以来、すでに10日が過ぎていた。
すると航輝が、スマホを出して、何かを調べだした。
瑠璃は、はぁっとため息をついた。スマホがあるなら、いちいち私に、日本語の意味を聞かなくてもいいのと思ったのだ。
航輝は、日本人として生活するのは初めてだと言っていたが、スマホは使えたし、すでに持っていた。
入部した日に、部長から部活の連絡は、基本スマホになるが大丈夫かと聞かれ、問題ないと航輝は答えたのだ。
航輝の返事を聞いて、びっくりしたのは、瑠璃だった。
航輝は、絶対、スマホも使えないだろうと思っていたのに、使えるし、持っている。なぜ、早くスマホを持っていることを言わないのかと航輝に伝えると、瑠璃が聞かないからだと言われた。そして、瑠璃とは、スマホでなくとも伝わるからとも言った。
他の国でもスマホを利用していたという航輝。彼にとってスマホは、人間関係を最小限に抑えることができるツールだ。なんとなくわかる。そして情報をいち早く入手できるのもありがたいらしい。
航輝が、スマホから目を離した。
「下鴨神社の流鏑馬は、練習日がある。人も少ないらしい。少し過去に戻ることになるが、その日に行ってみてくるのはどうだろう」航輝は、瑠璃に相談するというわけでもなく、独り言のように呟いた。
「下鴨神社の流鏑馬?いいな、私も見てみたいわ」
瑠璃の返事が、航輝には不思議だった。この話、瑠璃なら「私も行きたい!」と飛びついてくると思った。
が、違った。
瑠璃の様子からして、どうも一緒に行きたいとは思っていないようだった。
「――一緒に行ってくれるか?」
「え?ああ、行きたいけど……」といい袴をたたみながら、瑠璃は考え込んだ。
「過去に行くのでしょ?流鏑馬を見るのも、過去に行くのも興味があるけど、それって現実じゃないのでしょ?それなら、SNSで映像を探してみても同じかな思うの」
瑠璃は、過去に行ったら、仮想空間のような世界を体験するのだと考えた。それは瑠璃にはあまり興味がない。それなら、これからどこかで行われる流鏑馬を待って、一緒に見に行こうよと航輝に伝えた。
「私ね、流鏑馬の雰囲気を、肌で味わいたいの。馬に乗って矢を射るのよ、きっとものすごい緊張感が、その場に漂っていると思うのよね。それを体験したいし、人と馬から醸し出されるエネルギーみたいな物も感じてみたい。それは、現実じゃないと味わえないでしょ」と瑠璃が付け足した。
「体験か……」
航輝は、瑠璃の言ったことを頭の中で、繰り返した。
知識を集めるだけの生活では、本当の人間の生活は知ることができない。そう判断したから、高校生として今ここにいる。身体を通して、観て、感じる。それが必要だ。
次の機会を待ってもいいが、空間を移動する方が早い。
「瑠璃くん、一緒に行ってくれないか。過去を遡っても、そこは現実だ」
瑠璃は、航輝が何を言っているのか理解できなかった。その様子を見て、航輝は疑うように呟いた。
「過去は、現実じゃないと思っているのか――」航輝の言葉に、瑠璃がびっくりした。
「へ?過去って、現実とは違うでしょ?」
「――この事については、言葉が邪魔する。説明は難しそうだ」航輝が勘弁してくれと両手を上げた。
「『百聞は一見にしかず』だ。過去に行く体験はしてみたくないかい?」航輝は、瑠璃にいたずらっ子のような顔で問いかけた。
「それは、行ってみたいわ。でも……私たちが過去に行っている間、現在の私たちはどうなるの?それが心配なの」
「いつもと同じだ。経験が終わったら、この部室に、同じ時間に戻ってくる」
それを聞いた瑠璃の顔がほころんだ。瑠璃は、そのことが、心に気にかかっていたらしい。
「なんだ、なら、行きたい!!連れてって。下鴨神社の流鏑馬なんてなかなか見ることができないわ」
「瑠璃君、ありがとう。私も君がいた方が助かることが多い。それと、過去では、少々、注意を払う必要はある。だが、私から離れなければ大丈夫だろう」
「うん、楽しみだわ。航輝君、ありがとう」
その時、航輝は、瑠璃から淡いオレンジ色に染まった羽毛が飛ぶような感覚を感じた。
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