第2話 急いで逃げるわよ!
日が高くなった頃、柚香は目を覚ました。
ベッドからのそのそと出る。
身体が怠い。手首の腕時計型コンピュータを確認する。この端末は装着者の体調をモニタリングするいわゆるウェアラブルコンピュータであると同時に、部屋の空調と同期して操作するリモコンにもなる。
充電切れは起こしていないから、部屋の空調に問題はない。
身体が怠いのは、気温の低さなどの外的要因によるものではなく、単純な生活の乱れ──要は寝るのが遅いのだ。
どれだけ便利な機械でライフログを付け、健康的な生活をサポートしても、結局使う人間がそれを活かさなければその効果を発揮する事はない。
どれだけ時代が進んでも、自堕落な人間は自堕落な生活を送るのである。
「何だっけ……何か忘れてる気がするけど……」
欠伸をしながら寝室を出た。
するとスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。
見れば2DKの狭いキッチンに、見慣れない赤毛の男が立っていた。柚香はポカンと呆けた顔をする。
「あ、おはよう。よく眠れたみたいだな」
赤毛の男が振り返る。
その胡散臭いくらいににこやかな顔を見て、柚香は昨日の出来事が夢ではないことを実感した。
起き抜けの寝ぼけた頭で、記憶が混乱していたらしい。
そんな柚香の顔を見て、赤毛の男──フェイはやや腰が引けたようだった。
「あ、待って、悲鳴は上げないで。俺は一応合意でここにいるから。もし忘れてるのなら、ちゃんと説明するから」
「ああ……いい、大丈夫大丈夫。だいぶ思い出してきたわ」
ぼんやりと昨夜の事を思い出す。
フェイを拾ってから、そのまま自分のアパートに直行。特に何を言うでもなく、フェイをリビングのソファーに寝かせて、柚香は寝室のベッドに潜り込んだ。
「ちゃんと覚えてるから。捨て犬のフェイさん」
柚香は犬の真似をして「ププッ」と小さく吹き出す。
それを見て、フェイも柚香が昨夜の事を覚えていると察した。安心したように頬を緩める。
「いや〜、良かった。不法侵入で警察に突き出されるかと思ったよ」
「それでフェイは何やってんの?」
「お礼に朝飯をね」
フェイがフライパンを持ち上げる。
そこには有り合わせの食材で作られたと思しき野菜炒めが乗っていた。
「え、うちにそんな野菜あった?」
「モヤシもキャベツも人参も、大分萎れて痛んでたけど、まだ喰えるところが残ってたからな。何とか一品作れた」
「すごい」
柚香は思わず呟く。
いつもなら勝手に他人のうち冷蔵庫を開けるなと怒るところだが、フェイに対してそういう気にならなかった。
満更でもない顔で鼻の下を擦るフェイ。
「取り敢えず顔を洗って来なよ、適当に盛り付けておくから。使っていい食器ってどこにあるんだ?」
「キッチンの脇の戸棚にお皿とかあるから、それ使って」
答えながら柚香は洗面所に向かう。
顔を洗って戻ってくると、小さなダイニングテーブルにささやかな朝食が並んでいた。
お皿に乗った野菜炒めと茶碗に盛られた白いご飯。ごくごく質素なメニューだが、柚香の食欲は大いにかきたてられる。
さっそくテーブルについて、箸を伸ばす。
日本の物とは違う、スパイシーな味付けの野菜炒めを一口して、柚香は
「美味しい……」
と目を細める。
しみじみと呟かれる感想に、フェイは満足げに微笑んだ。
「普通の野菜炒めだよ」
「いや、有り合わせの材料だけで、こんな美味い料理作れるのってマジですごいよ」
柚香はパクパクと野菜炒めを頬張る。
「……見たところ一人暮らしみたいだけど、柚香は料理しないのか?」
「最初はやってたんだけどね。面倒くさくなって、最近は出前とか人工フーズばっかり」
「ああ最近流行りのコーカサス社のか」
フェイはキッチンの隅に設置された機械に目を向ける。
ひと昔前のドリンク自販機を小型化させたようなフォルムをしたこの機械は、人工フーズのオートサーバーだ。
このサーバーには水と混ぜるタイプの化学食品と、栄養素の顆粒、各種フレーバーが内蔵されており、ボタン一つでマッシュポテトのような食べ物が出てくる。
さらにウェアラブル端末のデータと連動することで、持ち主に最適化されたカロリーと栄養バランスを出してくれる優れ物だ。
時間のない人のための完全栄養食! ──というcmがよく流れている。
「栄養バランスは取れてるけど、やっぱ合成食品って美味くないっていうか、味気ないんだよね。だからこの野菜炒めめっちゃ美味しいよ」
ついでに言えば誰かと囲む食卓というのも久しぶりだ。
それが余計にこの食事を美味しく感じさせているのかもしれない。
「口に合ったようで安心したよ。日本人に合うかどうか心配だったけど」
「アレそう言えば……」
フェイの口ぶりから柚香は思い出す。
この赤毛の優男のことを、柚香は名前しか知らないのだ。
「ちょっと引っかかってたんだけど、フェイって何人なの?」
「俺か? 一応中国人だな」
「……何かぽくないね」
改めてフェイの顔を覗き込む柚香。
いわゆる東洋系の顔つきだが、髪は赤茶色なうえに肌は極めて白い。あまり中国人という感じがしない。
では何人かと問われると、何とも判じがたい顔つきをしている。
「母親が中国人とイギリス人のハーフで、父親は日本人だからじゃないか」
「グローバルな家族なんだ。じゃフェイっていうのも中国語?」
「そうだな、日本だと緋って意味になる」
フェイはテーブルの上を指でなぞって字を書く。
「へぇー緋色って意味なんだ。なんかフェイにぴったりじゃん」
赤毛の男の名前が緋とはおあつらえ向きだ。
ふと柚香は思う。
こうして誰かと気軽に話すのは何時ぶりだろうかと。
他愛のない会話をしながら、野菜炒めとご飯を口に運ぶ。そこまで量が多くなかったので、もうすぐ食べ終えてしまう。
この食事が終わったら、この男は出て行くのだろうか。
そう思うとなんだか名残惜しさを感じる。
もっと話していたいな──穏やかな朝食を嚙みしめながら、柚香はそう思った。
と、その時、インターホンが鳴った。
「アタシが出るよ」
どうする? と視線で問いかけてくるフェイに答えて、柚香は席を立つ。
「はいはい、どちら様」
フェイとの時間を邪魔されて、やや険のある態度で玄関を開ける柚香。その表情は、
「よ~うユズ、探したぜぇ」
という来訪者の声を聞いて、さらに渋くなった。
玄関口に立っていたのは、派手な色のスーツに、ジャラジャラとシルバーアクセサリーを付けたガラの悪い男だった。
男はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべている。
「葛西……」
不快感を隠そうともせず、顔をしかめる柚香。
葛西と呼んだ男とは目を合わせようともせず、顔をそむけたままぶっきらぼうに言う。
「……何」
「何とか酷くね? もっと愛想よくしてくれや、俺とユズとの仲じゃん」
「は? アタシ、アンタなんかと仲良くなんかないし」
「そんな事言わないでくれや──ちょっと頼みたい事があんだよ」
チャラ付いた軽い喋りだ。この葛西という男が使うと嫌らしく聞こえる。
ニタリと笑って葛西が柚香に近づく。柚香はさらに顔をのけ反らせた。
「お前の特技を使ってな、ちょいと──」
「やらない」
葛西が言い終わるより先に、柚香はぴしゃりと言った。
「あたしに何をさせようとしてるのか知んないけど、アンタの頼み事なんてお断りだし」
「────調子乗んなや、このアマ!」
いきなり葛西は豹変した。
柚香の腕を掴み上げる。
「こっちが下手に出てりゃ調子に乗りやがって! こっちがやれつったら、やりゃ良いんだよ‼」
「ちょ、離せ、この! ──離して!」
柚香は暴れるが、葛西の力が強くて振りほどけない。
「なぁ──」
場違いなほど間の抜けた声が響く。
フェイはさっきと変わらないにこやかな顔のまま、ジッと柚香を見ていた。
「何だよユズ、こんな男連れ込んでたのか? こんな細いのよりか、俺の方が太くてイイモン持ってるのによう」
ねっとりとした品のない声で囁く葛西。
生理的嫌悪と恐怖で柚香は総毛だつ。ビクリと怯える柚香に満足してから、葛西はフェイを睨みつけた。
「早く失せろ。ぶっ殺されたくなかったらな」
凄む葛西。しかしフェイはどこ吹く風、気にした訳でもなく飄々としている。
というか葛西を見てもいない。
なぁ──ともう一度フェイは柚香に向かって声をかける。
「一つ聞きたいんだけど」
「何!」
「これは暴漢に絡まれてるって事でいいんだよな?」
「他に何に見えんのよ⁉」
「いや、何かのプレイかと」
「アタシはそんなアブノーマルな趣味してないし! ていうか自分を拾った恩人をなんだと思ってんの⁉」
「ああ、うん。分かった──取り敢えずこいつはぶっ倒してもいいな」
わめく柚香をよそに、フェイはさも当たり前のように頷いた。
「あ? んだテメェ、舐めてんのか」
葛西の視線がフェイを射貫く。
その瞬間にフェイは動いた。
至近距離に踏み込むや否や、真下から拳を突き上げるアッパーカット。まるでミサイルのような拳が、葛西の顎に直撃する。
人の視界は左右に広いが、上下には狭い。死角から飛んでくるフェイのパンチを、葛西は反応さえ出来ずまともに喰らった。
「がっ……!」
葛西がよろめく。フェイは流れるように柚香を掴む腕を振り払った。硬質な音がする。
(ん? この腕は……)
フェイが違和感を覚えるのと同時に、葛西は倒れた。脳震盪を起こして気絶している。
柚香は啞然としていた。
一撃だ。
フェイはたった一発で、葛西をノックアウトしてしまった。
柚香はフェイの横顔を見る。鋭い──まるで剃刀のような眼光をしている。
さっきまでの頼りない雰囲気はどこにもない。それどころか、狼のような荒々しささえ今のフェイには感じた。
ゾクリ──少しだけ柚香の表情がこわばる。
「大丈夫か柚香」
しかしそれもすぐに終わった。
振り返り柚香を見やるフェイの顔は、またにこやかな顔に戻っている。それを見て柚香はホッとした。
「うん大丈夫……じゃない!」
ホッとしたのも束の間、すぐに柚香は慌てふためく。
「どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもないし! 急いで逃げるわよ‼」
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