第7話 その後の林冲の話
中央には雲に届くかのような荘厳な山がそびえ立ち、その四方には中小の山が連なっていた。
宋国にいくつかある、山賊盗賊の根城のうちの一つである。
ただし、盗賊ではあっても善良な良民を襲うことが一切ない。そのため近隣の住民からの支持が厚く、他の山賊一党から一線を画す。
その西側の山頂、見晴らしの良い場所に建つ墓に、林冲は色取り取りの花を供えて手を合わせる。
林冲の後ろには大入道が、合わせて合掌していた。
「結局奥さん、死んでしまったのか・・・。守れんですまんかった。」
「いえ、和尚は私の命を救ってくれました。そのことで開封府にいられなくなったのなら、私の方こそ謝罪せねばなりません。」
大入道は魯智深だ。彼とはここ、梁山泊で再会を果たしたばかりである。
魯智深は林冲を救った後、高俅の報復から逃れるため開封府を出ていたらしい。それから紆余曲折を経て、梁山泊に至った。
林冲はといえばあの日、殺人を犯して雪の中を歩き続けた後、幸運にも林冲は柴進の別荘に辿り着くことができた。
柴進はいくらでも滞在して構わないと言ってくれたが、人殺しを匿っては迷惑がかかる。
柴進には梁山泊を紹介してもらい、林冲は梁山泊に腰を落ち着けた。
妻の張杏麗と、その父張堅の死を知ったのはそれから半年ほど後のこと。
梁山泊で妻と暮らそうと呼びに行かせたものの、その時には既にこの世にはいなかった。
ことの顚末を林冲は魯智深に語る。
「高植の言い寄りが悪質になり、張家だけでなく近隣住民に負傷者が出てしまったそうです。その中には幼い子供もいたとか。そのことで妻の心は壊れてしまったのでしょう。・・・自害してしまったそうです。」
張堅は愛娘を失った悲しみから体を壊し、後を追うように亡くなったという。
開封府に呼びに行かせた部下が、女中の錦児を見つけてくれて事の次第を知ることができた。ちなみに彼女は婿を取って息災に暮らしているらしいが、仲の良かった杏麗の死は彼女の心に陰りを落としているようだった。
魯智深は後悔の念があるのか、大きな体を丸めて呟く。
「儂が開封府を出る時、大相国寺の荒くれ共に奥さんを守るように伝えておったのだがな。」
「高俅達は執拗です。想像をはるかに越えていた・・・。せめてその者達の無事を祈るばかりです。」
当時、魯智深とは出会って間もない頃。義兄弟の盃を交わしたとはいえ、そこまで考えてくれていたことに林冲は感謝する。
そこへ、小柄な男が両手に果物を下げてやって来た。
「林冲殿、これもどうぞ供えて下さい。」
澄んだ声と柔和な笑顔の持ち主は梁山泊の頭領の一人で
「いつも悪いな。楽和。」
杏麗の月命日を知ってから、楽和は毎回供え物をしてくれている。そんな彼にも、林冲は感謝が尽きない。
楽和が魯智深に丁寧に頭を下げ、供え物を綺麗に並べる。すると、マジマジと彼の横顔を見た魯智深が妙な事を言い出した。
「お前さんあの時の男かい?」
「?さて、あの時とは?」
「開封府で、五年ばかり前のことじゃ。滄州に向かう林冲を守ってくれ言うて来たじゃろ。」
「いいえ。私は開封府には行った事がありません。元は
並べ終えてもう一度、深々と頭を下げる楽和。
魯智深は顎を擦って不思議そうに首を傾げた。
「人違いか。すまん。あの男は顔に巾を巻いておったが、眉間から鼻筋の形がお前さんにそっくりじゃ。声も似とるが、話し振りは確かに違う。」
驚いたのは林冲である。
まさか。
「和尚、その男とは?!」
つい、急な大声で魯智深と楽和を驚かせてしまった。
しかし、聞かねばならない。
魯智深は空に視線を這わせ、記憶を辿っているようだった。
「名は知らん。名乗らんかったと思うが、高俅に近しいとは言っておったか。」
陸謙だ!
林冲は確信した。
楽和と陸謙の横顔はとても似ている。
林冲も初めて楽和の横顔を見た時は陸謙が蘇ったかと錯覚したほどだ。
まさか魯智深と陸謙が面識があったとは思いもよらない。
そして滄州に流される途中で護送役人に殺されそうになった時、助けに来てくれたのは魯智深。
あの時魯智深はなんと言っていたか。必死に記憶を掘り起こした。
「和尚は俺を助けてくれた時、『怪しい男が護送役人と話しているのを不審に思った』と言っておりましたが。」
「そうじゃったか?・・・・・・すまん。そういうことにしておいてくれというのも頼まれたのじゃ。」
「・・・・・・そうですか・・・。」
「その男は何者じゃ?」
「・・・・・・。」
魯智深の問いかけに対する即答が出来ない。
魯智深に林冲救出の依頼を陸謙がしていたとするなら、林冲にも思い当たる節はあった。
何故、ここまで生きてこられたか。
魯智深と柴進のおかげ、そしてこの二人と出会えたという幸運が重なったのだと、はじめは思っていた。だが、次第にそうではない可能性を考え始める。
陸謙が本当に林冲を殺そうと思ったら、もっと簡単にできたのではないか、ということだ。
そして魯智深から話を聞いたことで、靄が晴れるように閃いたことがある。
それは、陸謙の部屋で杏麗が高植に襲われた時のこと。林冲にとって悪夢と呼べる、決して忘れられない日。
杏麗は必死に、机に置いてある物を投げて抵抗したらしい。
だが陸謙の部屋には不要な置物などが置いてあったことなどなかった。
書物はいつも綺麗に書棚に並べてあった。
あの日だけ何故、机に物が置いてあったというのか。
杏麗の為だったのだ。
林冲が駆けつけるまでの間、杏麗が抵抗出来るように。
そんな彼の最期は、
『東だ。それしかない。』
それだけ、ぽつりと絞り出して彼は事切れた。
言う通りに東へ向かった訳ではなく成り行きだったが、その結果林冲は柴進に救われたのだ。
その方角に柴進の屋敷があって、柴進の人柄を知っていて、陸謙は林冲を導いたのだとしたら。
陸謙は林冲の何倍も頭が良い。
だから陸謙は、林冲も高俅も欺いて退路を用意してくれていた。
陸謙は最初から、紛うことなき親友だった。
そのことが確信に変わった瞬間、林冲は涙を流す。
「林冲殿?」
楽和が心配そうに声を掛けるが、林冲の涙は止まらない。
そして先ほどの魯智深の問いに答えた。
「和尚、彼は陸謙という名の・・・・・・大事な親友です。」
「そうかい。」
魯智深は大きく毛深い手で林冲の頭を乱暴に撫でた。彼なりの慰めなのだろう。
そんな義兄に甘え、涙は流すに任せてみる。
そして陸謙に思いを馳せた。
俺達にはこんな結末しかなかったのか、と。
梁山泊は居心地が良い。気の合う仲間と酒を飲み、好きな槍棒を振って過ごせる。
ただ、ふとした瞬間に寂しさが襲う。
子供の頃から近くにいた陸謙。彼が今も近くにいてくれたら、梁山泊からの景色も違う見え方だったかもしれない。
ようやく涙が止まり、手を離した魯智深が林冲に尋ねた。
「林冲よ、涙の訳はなんじゃ?」
そう問われて、林冲は梁山泊に至った次第を魯智深と楽和に話した。
開封府で罠に掛けられたこと、滄州への道中殺されそうになったこと、牢城の馬草置き場で危うく焼き殺される所だったこと。
それは陸謙が首謀者だと信じていたこと。
懺悔のような心境だ。
話し終えて、林冲は独り言のように呟いた。
「陸謙は俺を恨んでいるのだろうな。」
それを否定してくれたのは楽和だ。
「そうでしょうか?林冲殿がこうして生きていることこそ、陸謙殿の望みのように思えます。」
楽和は歌の名手だが、陸謙と同じく頭が良い。
そして優しい男だ。林冲の心を軽くする言葉を選んでくれる。
しかし林冲は、当時心を支配していた殺意を打ち明けた。
「俺は陸謙を殺そうとした。いや、俺が殺したんだ。」
殺意しかなかった。
林冲の短剣が陸謙を刺すほんの一瞬の差で、富安の短剣が彼を襲っていたのだ。
想定外の光景に林冲の短剣は惑い、踏みとどまる。
だが、富安が刺していなければ、林冲が陸謙の命を奪っていた。
『何故陸謙を刺した?』
低い声で富安をそう問い詰めた。
富安はこれ以上ないくらいの驚きと恐怖の相貌で命乞いをしてきたが、殺意に支配されていた林冲は富安を助けるつもりは全くない。
『何故かと訊いている。答えろ。』
『っ出世が!うまくいけば陸謙の奴だけが・・・私はっ・・・』
要領を得ない奴に苛ついた林冲は、喉に短剣を一突き・・・。
陸謙に駆け寄ったときはまだ虫の息があって・・・。
夥しい血を流す彼に、林冲の殺意がぼろりと剥がれ落ちる。
哀れ。そう思ったのだ。
友を裏切った上に共謀者に刺されるなど、滑稽で哀れだ。
哀れだが、
何故俺を裏切った
俺の命より出世が大事になったのか
それが訊きたかった。
林冲は低い声で陸謙を呼ぶ。
『陸謙・・・。聞こえるか。』
声をかけてもただ細い息を繰り返していた陸謙。
東へ
それだけはどうしても林冲に伝えたかったのだろう。
そして息絶えた。
最期の最期まで、彼は林冲を助けることだけを思っていたのだと、今なら分かる。
今なら分かるが、まるで分かっていなかった当時を林冲は振り返った。
「俺は殺したいくらい、陸謙を恨んだ。俺を助けてくれようとしていたなんて、少しも考えていなかったんだ。」
「林冲殿にそう思わせることも、陸謙殿の描いた図面の通りなのですよ。」
楽和は優しい声で、きっぱりとそう言い切る。一を聞いて十を知るという彼に言われると本当にそんな気がして来た。
魯智深も慰めの言葉を口にする。
「林冲よ、死人に口なしと言うじゃろう。何を問うても、答えてはくれんわ。だから・・・」
言葉の途中で、魯智深は大きな拳を林冲の胸に当てた。
「陸謙という男が、命を賭して守ってくれたと信ずるなら。その命を無駄にしちゃあいかんぞ。」
そしてどかりと胡座で座ると天を仰ぐ。
「儂も坊主の端くれ。経くらい・・・やってみるか。」
魯智深の手の大きさに合わせた大きな数珠をじゃらりと鳴らして、低い声で唱え始めた。
よく通るその声にもしも形があるのなら、蒼空に霧散していく様が見えただろう。
その先に陸謙はいるのだろうか。
林冲の隣では楽和が合掌している。
目を伏せた横顔は陸謙に瓜二つ。
林冲も手を合わせようとしてやめた。
代わりに、拳を突き上げる。
空は晴々として木々の陰影濃く、陽が雲間を射す様は林冲の心を写したような爽景。
「陸謙、感謝するぞ。」
林冲がそう声に出すと、
『なんだ、気づいたのか。』
そんな陸謙の笑い声が聞こえた気がした。
林冲が白銀の甲冑を身に纏い、高俅軍と戦うのはまだ先の話ーーー
退路を確保せよ 山桐未乃梨 @minori0
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