第5話
陸謙は林冲の生活を知るべく、こっそりと身を隠して単独で行動の範囲や仕事を探った。
牢城を先に見て、林冲を屠る策を講じたい。
そういったら富安は意外にも承諾してくれた。まだ疑われているのには違いないのだろうが、
面倒なことはせぬ質なのか。
だが気を抜くことは禁物。人を使って陸謙を監視させること位は造作もない。
周辺を見渡して怪しい人物がいないか確認したいところだが、明らかに警戒の姿勢をとる訳にもいかない。
もし本当に監視されているなら都合が悪くなる。
その緊張感の中で、陸謙は李小二という若者を見つけた。
滄州の牢城前で小料理屋を営む、真面目そうな男だ。
調査を始めて数日間、毎日ではないにしても林冲は店によく行っているらしい。
李小二の方からも、林冲の元へ何やら届け物をしているようだった。
件の小料理屋周辺には青果店や露店商がありほどほどの賑わいを見せている。
ある日、陸謙はその雑踏に紛れて様子を伺ってみた。
林冲と李小二は店の外でも話しており、滄州に来る前からの知り合いだと推測する。
時折林冲のことを恩人と呼んでいるが、陸謙にはまるで心当たりがない。
林冲は受けた恩は大層に語ってくれたが、掛けた情けを吹聴するような男ではない。
だから陸謙が知らないのも無理はなかった。
李小二と親しげに話しながら林冲は店に入る。そんな彼等の様子に陸謙は思わず涙した。
何もなければ、今も林冲と笑って酒を飲めていただろう。
悲しいことがあれば共に泣き、腹立たしいことには互いに我が事のように憤る。
そんな日々が続いていたはずなのだ。
しかしもう、林冲とあんな風に話すことはできない。
自分に向けられている憎悪、嫌悪、殺意・・・全て受け止める覚悟は決めたはずだったのに。
運命を呪った。なぜこんなことになってしまったのかと。
今すぐ、林冲の前に飛び出してしまいたい。
事情を説明して、詫びて許しを請いたかった。
そして親友に戻りたい。
だが林冲と接触するのは危険だ。
富安に知られるおそれがある。
富安とて悪知恵が働く。
陸謙が林冲を殺すつもりがないどころか、富安の邪魔立てをしていることが知れたら消されるに違いない。
そうなったら、富安の手から林冲を守ることが出来なくなる。
陸謙は悔しさから、拳を震わせた。
何故だ。
何故、俺達だったんだ。
高俅を呪い、高植を呪い、こんな方法でしか林冲を守れない己を呪った。
高俅の傍用人として仕え、奴が何人も、いや何十人も秘密裏に屠るのを陸謙は見てきた。
何とか食い止めなくては。そうは思っても、陸謙一人でそれを為すのには無理があった。
それに加えて、出世に並ならぬ執着を見せる富安の存在は脅威以外の何物でもない。
死の気配を感じながらも陸謙は気丈に調査を続けるしかなかった。
さほど時間も経たぬ内に、林冲が李小二の店から出て来た。
「林冲様、今日もありがとうございました。」
「わざわざ店の外まで見送らなくていいぞ。繁盛しているんだから、仕事に集中していろ。」
李小二は、林冲が店を去るときは深々と頭を下げ姿が見えなくなるまで見送っていた。
林冲に対する恩義は本物だ。陸謙はそう確信するのだった。
そして富安と合流し、典獄に会うことになった。
富安と共に典獄を待ち構え、仕事を終えた彼に陸謙が声を掛ける。
「すみません、牢城の典獄殿ですね。折り入ってお話したい事があり、ご同行願えませんか。」
「・・・さて、どちら様でしょうか?」
訝しむ典獄に、陸謙は丁寧に頭を下げて告げる。
「開封府の高太尉の遣いでございます。」
「・・・伺いましょう。」
開封府からは随分離れた滄州だが、高俅の権力は知られている。
高俅の名前を出すと典獄は渋々ではあるものの了承した。陸謙はさり気ない振りで李小二の店を選ぶ。
店に入ると李小二が典獄に声を掛けてきた。
「いらっしゃい!おや、典獄さん。お久しぶりです。」
「ああ、しばらく。」
「いつもの席でございますか?」
典獄もここに出入りしているらしいというのは陸謙もこの時に知る。
彼には決まった席があるようだが、大っぴらに話せる内容ではないので、
「個室があればそこで。」
と陸謙が指定する。個室があることは調査の上でのことだ。
「かしこまりました。」
笑顔で快諾すると、李小二はすぐに個室に通してくれた。
席に着くや、典獄が不思議そうな顔を見せて尋ねる。
「開封府から来なさったあなた方が、私に何の用でございますか?」
しわがれた典獄の声を陸謙は手で制した。李小二には適当に酒と肴を持って来てくれるように依頼する。
机にいっぱい料理が並んだところで李小二に人払いをさせ、こちらが呼んだとき以外は来ぬように言いつけた。
そしてまだ李小二が近くにいる頃合いで、
「先程も申したとおり、我々は高太尉の遣いで開封府から参りました。」
そう言った。
開封府と高太尉という言葉を出すことで、上手くいけば林冲に身の危険が迫っていることを彼が告げるだろう。
陸謙が林冲と懇意の店を選んだのにはある狙いがあった。
一つ。すぐに林冲の耳に入り、この場に林冲が乗り込んで来ること。
林冲は理不尽なことに関しては気短な質だ。
富安のような、権力に媚びへつらう男ほど肝は小さい。林冲の気魄に恐れ戦くに違いない。
林冲直々に散々な脅しをかければ、命を取ろうという気は失せるだろう。
もう一つ。林冲が乗り込んで来ないにしても、陸謙が滄州に来ていることは林冲に緊張感を持たせることが出来る。
陸謙と富安は手を組んでいるように見えて実は全く違う。
富安は陸謙を信用していない。だが出世のために利用する腹積もりではいるだろう。
陸謙の策に乗る一方で、どのように手柄を横取りするか、もしくは陸謙を出し抜くか考えているはず。
陸謙の知らぬ内に刺客を放つくらいのことはあり得る。林冲を討てるような者はそうそういないだろうが、用心してくれるに越したことはない。
林冲の耳に入らなければ、それはそれで仕方ないのだが。
などという思惑は面に一切出さず、陸謙は典獄に事情を話し出した。
「実は高太尉のご子息、高植様が病に伏せっております。病の原因は林教頭の妻に恋慕していること。我々はその想いを遂げさせて差し上げようと手を尽くしましたが、未だ叶いません。林教頭の妻と舅が林教頭の帰りを待っている為です。」
典獄は神妙な顔をしている。
何を考えているか判じられぬが、陸謙は一層声を低めた。
「かくなる上は、林教頭の首級を見せる他ありません。」
そこまで話すと、典獄の方が大きく息を吐く。
そのまま目を閉じて思案したかと思えば、きっぱりと拒否の反応を示した。
「お話は分かりました。しかし私に何が出来ましょうか。それに、罪人とはいえ殺害するとは穏やかではない。感心しませんな。」
義気のある好漢。
かどうかはまだ分からない。
陸謙は懐から包みを取り出した。
「非合法なご相談というのは重々承知しております。ですので、こちらを納めていただきたく・・・。」
中身の銀子が少し見えるように包みを解く。
そして顔を近付け、耳元で囁いた。
「一度しか言いません。今日ここで話した内容はどうか胸に秘めていただきたい。また、協力して下さったならこれ以外にも・・・褒美、出世などお望みのものを差し上げましょう。」
典獄の目に光る銀子が写る。
いともあっさりと、典獄はその包みを懐に入れた。
「分かりました。これを受け取るからには、何なりと申しつけて下さい。」
なるほど。義気のある好漢などではない。
目先の金に目が眩む守銭奴といったところか。
陸謙はそう結論づけて、淡々と言葉を紡ぐ。
「典獄殿が手を汚す必要はありません。林教頭は強い。手を下そうとするには何か策を講じなければ難しいでしょう。」
「策・・・ですか。」
陸謙は頭を下げ、本来の目的を頼み込んだ。
「牢城を自由に視察させてもらえませんか。」
「それは構いません。では、各所必要な鍵は私が保管しているので、後ほどお渡ししましょう。」
「その上で、必要があれば林教頭の配置換えをお願い致します。」
「分かりました。」
典獄が丁寧に頭を下げたところで、陸謙は李小二を呼ぶ。
このやりとりの間、富安はずっと陸謙に睨みをきかせて黙り込んでいた。
怪しい素振りなど見せなくとも、怪しまれている。富安がどのような手を打ってくるか分からぬ怖さはあるが、陸謙は知らぬ振りを決め込んだ。
支払いを済ませる時には李小二の妻も店で仕事をしていた。
すぐに林冲を呼びに行った訳ではないらしい。
ただし李小二のにこやかな顔がやや固くなっていたことから、林冲にとっての『敵』であることは理解したようだ。
そして林冲から身を隠すため、陸謙と富安は典獄の家に世話になることとして陸謙は視察を続けるのだった。
翌日、陸謙は次の林冲の就労場所の候補である馬草置き場に足を運んだ。
馬草置き場の門の外からグルリと周囲を調べる。
大きな柳らしきの木が三つ。
そして少し歩いた場所には古い廟。中に入ると、奥に山神像が安置されていた。鎧を纏い鬼をねじ伏せる虎頭の神。その勇ましい姿を、この先の困難に打ち勝つ林冲に重ねる。
陸謙は持っていた銀子を少しばかり供えて手を合わせた。
林冲が無事生き延びられるように。
そんな願いを神に祈る。
古廟を出て、酒場の場所を確認する。馬草置き場からは二里といった所。ここまで来ると街になり、酒場以外の店も多く並んでいた。
無類の酒好きである林冲は、寒ければ寒いほど酒を求める男だ。
そして最も大事なこと。
柴進の別荘がそう遠くない場所にある。
最終的に林冲を柴進の元へ導くことが陸謙の目的である。
牢城の就労場所の中で、その別荘が最も近いのが馬草置き場らしい。
別荘の場所まで、陸謙は実際に歩いてみる。暖かく穏やかな日はそれほど難儀な道のりではないが、真冬で雪の激しく降る日は少々辛いかもしれない。
だが他はもっと遠いという事を考えると、馬草置き場の管理人が最適と考えた。
日を改め、馬草置き場とその管理人小屋を陸謙は訪れる。
馬草置き場の門の鍵を開けてくぐると、目の前には馬草の山が七か八つ。全てに番号がつけられているようだ。
馬草の山の間を歩いて奥に向かうと小さな小屋が建っている。
管理人が生活する小屋で間違いなさそうだ。
門に裏口はない様子。
戸を叩き、小さな返事の後で陸謙は中に入った。
管理人小屋には現在の管理人の老人がいて、特に驚く様子もなく陸謙を睨めつける。
陸謙は丁寧に挨拶をして尋ねた。
「私は牢城の就労環境改善の為に遣わされて来ました。何かお困りのことはないですか。」
とっさの嘘ではあるが、仕方ない。引き継ぎの際、林冲に何か告げられては困る。
老人はボソボソと呟いた。陸謙は耳を澄ませてその小さな声を聞く。
「お困りねえ。この小屋、見ての通りオンボロじゃ。直してくれる気があったら直してくれよう。」
そう言われて陸謙は小屋を隅々まで見てみた。
確かに土壁が崩れた隙間があちこちにあり、冷たい風が吹いて来る。
天井を見上げれば、梁はネズミに齧られたのかボロボロに朽ちていた。
これではいつ倒壊してもおかしくはない状況だ。
罪人の就労とはいえ、これはひどい。陸謙は顔をしかめる。
「確かにこれでは危険だ。」
「これから真冬だからの。吹雪く前になんとかしてくれんか。いよいよ飛ばされそうじゃ。」
「・・・善処します。」
こんな所に林冲を来させるのかと思うと気が引けた。
だが林冲を生かす為に、このオンボロを使えないかと考える。
陸謙は典獄の屋敷に帰ると天文学と気象学を計算し、林冲がどう行動するか綿密に想定した。
そして典獄、富安に企ての概要を話す。
「馬草置き場の管理人に配置換えがよろしいかと。日にちは十二月一日。」
陸謙はそう提案した。
「何故その日が良いのですか。」
日にちまで指定して来た事に、典獄は不可解な顔を見せる。
陸謙は気象の予報を割り出したことも含めて説明した。
「その日には大寒波が訪れるでしょう。この辺りは吹雪く可能性が高いのです。」
「それがどうした。」
不機嫌なのは富安。
今さらその態度には意に介さず、陸謙は補足を入れる。
「寒さが厳しければ外出はせぬからです。管理人小屋から彼は出ないでしょう。その時を狙って馬草に火を点ければよいのです。」
管理人小屋は門に囲まれた内側の一番奥に位置している。馬草に移って燃え広がれば命はない。
「仮に生き延びたとしても、林教頭が火を放ったと誰もが思うでしょう。死罪は免れません。」
失敗のない策である事を陸謙は強調した。
典獄は感心したように肯いている。
「そういう事ですか。なるほど、上手くいきそうです。火を点けるのは誰が?」
「私がやります。富安殿はどうされますか?」
富安は陸謙を睨んだまま、凄みをきかせた声で答えた。
「やるに決まっているだろう。松明は私が用意する。いざという時『点きません』では困るからな。」
「どうぞ。ご自由に。」
陸謙の素っ気ない返答に、典獄は居心地の悪さを感じているようだ。
典獄を気遣う理由はないが、陸謙はさっさと頭を下げ終いにしようとする。
「では典獄殿。林教頭の配置換えの件はよろしくお願いします。」
「お安い御用ですが、私は他になにもせぬで良いのでしょうか?」
典獄は柴進と付き合いが古いという話を陸謙は思い出す。
林冲は柴進の書状を持って牢城に着いたはずだ。
なのに積まれた報酬に目が眩み、あっさり林冲を殺す企てに手を貸すとは、陸謙は心底軽蔑した。
そのことは内に秘め、陸謙は典獄には笑顔を見せる。
「はい。馬草置き場放火となれば、事後処理に忙しくなりましょう。ご迷惑をおかけすることになります。」
「とんでもございません。では私はこちらで成功を祈っております。」
典獄がそう言ったことで富安が席を立ち、無言であてがわれている部屋へ戻って行った。
陸謙も典獄に一礼して席を離れ、富安とは別の部屋へ籠もる。
いよいよだ。
かつてない重圧が陸謙の体を押し潰そうとしている。
泣きたい。喚きたい。
しかし出来ない。
その日まであと三日しかないのだ。
下手を打って水泡と化すのだけは避けなくてはいけない。
上手くいきますように。
林冲がこの先も生きられますように。
窓を開け、真冬の星天に祈る。澄んだ空気は冷たく、指先の感覚を奪った。
それでも陸謙は煌めく星を見つめて手を伸ばす。
死んだら星になると誰が言ったのだったか。
三日後に、もしも自分の命が散るようなことになったなら、あの星の一つになれるのか。
それも悪くない。
林冲の生きる道なら俺が照らしてやろう。
だが林冲よ、お前が死んでは駄目だ。お前の存在こそが宋国の大いなる星なのだから。
涙を堪え、陸謙は眠れぬ夜を過ごした。
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