第4話

林冲が舅や妻と別れを惜しんでいる間、陸謙は旅仕度をしている護送役人の董超とうちょう薛覇せつはに声を掛けた。

気は進まぬが、富安から受け取った十両を渡し、林冲の殺害を依頼する為である。


富安が近くで様子を伺っているに違いない。やらない訳にはいかなかった。


陸謙は二人を連れて近くの茶屋に入ると、すぐさま用件を伝える。


「滄州への道中で、林教頭を亡き者にしていただきたいのです。」


董超と薛覇は難色を示した。

無理もない。

董超がきっぱりと、拒否の言葉を口にする。


「罪人とはいえ、殺しの依頼は法度でございます。このことがバレて、罪を背負うことになりたくありません。」


当然の反応だ。だが陸謙も引き下がらない。


「それを望んでいるのは高太尉です。あなた方が罪に問われるようなことは一切ありません。」


高俅の名前を出したことで、二人はヒソヒソと話し込む。

悔しいが、高俅の名前を出せば大抵の依頼事は上手くいってしまうのだ。


やがて薛覇が結論を口にした。


「貴方様の名を聞かせて頂けたら引き受けましょう。」


陸謙は考えた。自分の名を名乗るべきか、富安の名を使うべきか。

そして富安の名を使うのはまずい、と瞬時に判断する。

成功させる訳にはいかぬ依頼。

富安の名前を出して本人から恨まれてはこの先動きにくくなる。


「姓を陸、名を謙と申します。」

「分かりました。必ず、林教頭の命をとってきましょう。」


二人の護送役人は十両を受け取り、深く頭を下げたのだった。




それから林冲は滄州に発った。

その際離縁したらしいということで高植の張氏に対する執拗な言い寄りが始まってしまう。


張氏は実家に隠り、張堅と下男や女中に至るまで、高植を絶対に家に入れない防衛線を張っていた。


そのせいでまた高植は床に伏せってしまった。


富安はそんな高植を励まして言うには、


「林教頭はもうすぐ亡き者になります。実は私、護送役人に話をつけて林教頭を始末するよう言い含めておきました。」


これを聞いて有頂天になる高植。


「なんと?それは本当か?!」


富安はニタニタと薄気味悪い笑みで高植に媚びていた。


「はい。我々にとっての吉報はもうじき届くでしょう。林教頭の訃報を聞けば、張堅も娘も高植様の求婚を受け入れるはずです。」


これを密かに聞いてしまった陸謙は不快極まりない。

愚か過ぎる。

林冲は優れた武人だ。

今は教頭職だが、将軍に抜擢されてもおかしくはないほど武芸に優れ、馬の扱いも一級品。


そんな男を屠るなんて、宋国の損失といっていい。


愚かすぎて、富安と高植の会話に口を挟むのもばかばかしい。


それよりも陸謙は林冲の安否を案じていた。


林冲の旅立ちと同時に、魯智深の姿も大相国寺から消えていたらしい。

きっと後を追ったのだろう。


だから、大丈夫だ。


陸謙はそう言い聞かせた。


だが、実際に護送役人が報告に戻るまで、陸謙は不安に苛まれながら過ごすのだった。





夏に出立したはずの林冲だが、秋になってもまだ護送役人は帰らなかった。


木々もすっかり落葉したかという頃、遂に護送役人が陸謙を訪ねる日がやって来る。


高植の屋敷の小さな空き部屋で、陸謙は二人と対面した。


そこへどこから聞きつけたのか富安もやって来て、椅子にどかっと座わると陸謙を睨む。


「林教頭の護送役人だな?」

「はい。董超殿と薛覇殿です。」


富安は見るからに苛ついていた。

董超と薛覇が机に十両を置き、うなだれた様子を見せている。

林冲の殺害が失敗したことは明らかだ。


富安が怒鳴りつけようとするより少し早く、二人は頭を下げて謝罪する。


「申し訳ありませんでした!邪魔者が入り、林教頭殺害は叶いませんでした!」


二人は何度も謝罪の言葉を繰り返したが、富安の怒りは収まらない。


「邪魔者だと?一体誰が邪魔したというんだ?!」


荒げた富安の声に、二人は竦み上がってしまった。

董超がなんとか怯えながら話すのを、陸謙は黙って聞く。


「実は・・・大相国寺の菜園に来た坊主が邪魔をしまして、滄州近くまでずっと付いて来るものですから好機がまるでなく・・・。」


魯智深だ。上手く林冲を助けてくれたようだ。

陸謙の安堵は誰知らず、続けて頭を下げて謝罪したのは薛覇。


「大変申し訳ありません。陸謙殿からいただいた十両はこの通りお返しします。」


富安はひったくるようにして十両を取りあげると、部下に言いつけてすぐに片付けさせた。

元々の赤ら顔を一層真っ赤にしている。


陸謙も落胆を装いながら、疑問に思っていたことを口にした。


「・・・ところで、林教頭は滄州に着いたのですよね?随分と時間がかかったようですが。」

「ぇえ・・・はい。滄州に入ってすぐ、噂に名高い柴進さいしん殿の目に止まり、しばらく滞在しておりましたので。」


柴進、という名前が出て、陸謙は密かに喜んだ。

だがそのことは微塵も顔に出さず、顎に手を当てて何やら思案する振りをして呟いた。


「・・・柴進殿か。そういえば滄州にお住まいであったか。」


一方の富安は眉間に皺を寄せ、唇を噛む。


柴進という男であるが、前王朝・大周の皇帝柴世宗の血を引いている非常に貴い血筋の方だ。


柴世宗は宋の太祖・武徳皇帝に位を譲り、その際に丹書鉄券と呼ばれるものを賜った。

おいそれとは役人の捜査も入れないお墨付きである。


そしてこの柴進、楽しみと言えば武芸に秀で義気溢れる好漢と親交を結ぶことらしい。

屋敷には宋各地から訪れた食客が何人もいるとの噂が絶えない。


陸謙はこの柴進こそが、林冲を最後まで生かす鍵だと思っている。


林冲なら柴進に気に入ってもらえるはずだ。

柴進に会ってくれさえすれば、林冲が生き延びられる確率はぐっと上がる。


その思惑があって、陸謙は流刑先に滄州を推した。

これまでは何とか上手くいってくれたようだ。


董超はさらに補足を話してくれる。


「はい。それで・・・結局、柴進殿が滄州の典獄宛に書状を書いたものですから、滄州での林教頭はかなり優遇されることとなっているのでは・・・。」


典獄とは罪人の仕事を割り当てる権利を持つ刑場の長官の役職である。

滄州の典獄と柴進は古くから付き合いがあるらしい、と護送役人は申し添えた。


「仕方なし。林教頭は亡くなったものとして、張教頭と張氏には高植様との縁組を受け入れていただく。」


富安はそう息巻いているが、陸謙はそれが実現

するとは思っていない。


張氏はとても一途で貞淑な女性だ。

林冲との結婚が決まる前には数多の縁談が沸いていたと聞く。

林冲よりも金を持っていたり、林冲よりも高い地位の男はたくさん紹介されたはずだ。


それでも張氏は一切心を動かさなかった。


だから、林冲の死の真偽は分からずとも、林冲に操立てすることは間違いないだろう。


その予想は当たることになる。


富安は張家に通い、父娘に高植との結婚を迫ったが一向に応じる気配がなかった。


陸謙は時を同じくして、これまた開封府中の美女の元へ走り続けた。


このまま何事も起きないのが最良。


高植が張氏を諦めてくれることも僅かに期待した陸謙だが、とうとう富安が痺れを切らし始めてしまった。


「チクショウ!これでは拉致があかん!林冲の首を持ってきてやる!」


陸謙が最も恐れていたことだ。

いかに柴進の後ろ盾があろうとも、高俅の名前を出された時滄州の典獄はどう動くだろうか。


その男が信頼に足る人物かどうか、今は判じることができない。


「私も行きましょう。何かお手伝い致します。」


ならば直接会ってみなくてはなるまい。

陸謙も滄州行きを決める。


林冲を死なせたりはできない。必ず食い止めなくては。


護送役人が林冲を殺そうとしたことで、二人に依頼したのが陸謙だと林冲は知っただろう。


裏切り者、と恨んでいる。

殺したいほど憎んでいる。そうに違いない。


林冲と顔を合わせたら殺される可能性もおおいにある。


自分の命を掛けるものだと知りながら、それでも陸謙は林冲の命を優先した。


宋国を強くしたい。外敵の脅威に晒されぬ、強い宋国。

林冲ならその一翼になれるのだから。





富安と陸謙に護送役人のが語った通り、林冲は滄州の牢城で天王堂の堂守の職務を与えられた。

これは罪人の仕事の中では一番楽な務めだ。線香を上げて、掃き掃除をしていればいい。

柴進の書状が功を奏したのだろう。

ただ、ここの典獄は罪人達から相当の金を受け取っているようで、林冲もいくらかの銀子を渡している。

そうしたことからどうにも公正な人物とはいえぬようだ、と林冲は感じていた。


嬉しい出来事もあった。


開封府で知り合った李小二りしょうじという若者に再会したのだ。

彼はある大店で奉公していたが、店の金を盗んでしまったことがある。

妹の結婚の祝い金が欲しかった為だといい、奉公人の身内の慶事に祝い金を出そうとしない主人にこそ林冲は嫌悪感を抱いた。盗んだ金は林冲が返し、李小二が開封府を出る時には路銀も渡した。

その後、李小二は滄州の小料理屋で働き、真面目な彼はそこの娘と結婚していたという。


李小二は林冲に深い恩義を感じていたため、夫婦で林冲の世話を焼いてくれた。破れた衣類を直してくれたり、冬物の衣類を調達してくれたのも彼等である。


ある日林冲が李小二の店に行くと、慌てた様子の李小二がいた。


「李小二、どうした?落ち着かぬようだが。」


林冲がそう言うと、李小二は人差し指を口に当てて林冲を店の裏に通した。


「林冲様?ご無事でございますか?!」

「?あぁ。特に何もないが。どうかしたのか?」


李小二は安堵したように大きく息を吐く。


「実は昨日、気になった連中が店に来たので・・・。開封府から来たという二人組の男と、ここの典獄が個室で何やら話し込んでおりました。念を入れて人払いをしてきたので、怪しいと思い、妻にこっそり話を聞いてもらっていたのですが・・・。」


李小二が話し出すと、途端に林冲は顔つきが変わる。

拳を握り締め、低い声で尋ねた。


「二人組の男はどんな奴らだった?」

「二人とも小柄でした。身の丈は六尺ほどでしょうか・・・。一人は小太りの中年、もう一人は細身の若者でした。」


小太りの中年は知らぬが、細身の若者は陸謙だ。実際の年は林冲より一つ上だが、実齢よりかなり若く見られる。


李小二は林冲の纏う殺気に怯えた様子だが、林冲の身を案じてくれていたらしい。


「高太尉の遣いと言っておりましたので、林冲様にとって良くない連中かと。何かある前にお伝え出来て良かったです。」

「・・・そうか。」


護送役人に殺されそうになったとき、奴らは陸謙の差し金だと語った。


そして今、陸謙が来ている。

殺しに来たに違いない。


芽生えた憎悪が、自分でも恐ろしくなる速度で殺意に変化した。


「林冲様、どうか身辺にはくれぐれもお気を付け下さい。」

「分かっている。」


不安そうに李小二に声をかけられるが、むざむざ殺されるつもりはない。


「護身用になる何かは持っているのでしょうか。」

「大丈夫だ。これからは肌身離さず持っておくことにしよう。李小二、知らせてくれて感謝する。女房にもそう伝えておいてくれ。」


林冲は李小二に礼を言うと、天王堂に保管してある荷物の中から短剣を懐に収めた。


そのまま陸謙の姿を探したが、この日は見つけられずに終わる。


それからは気を張り続ける生活と、時間が空けば陸謙を探して回った。


ところが、近隣の宿を張ってみても陸謙の姿は全く確認できない。


李小二が嘘を吐いているとは思えない。


どこかに必ずいるはずだ。


そう思っても、日々が過ぎるばかり。

やがて冬も本格化し、風が肌刺して雪がちらつく頃。


林冲は牢城で配置換えが決まった。


天王堂の堂守から、馬草置き場の管理人だ。


李小二の店で林冲はそのことを報告した。


李小二曰く、


「ここからは遠くなってしまいますが、牢城の中では一番良い仕事です。収入が得られますので。皆賄賂を使ってそこに就こうとするものです。」


だという。


「しかし妙だ。これを決めたのは典獄だろう?陸謙と話をしていたのではないか。」

「賄賂もナシにそれに決まったのは妙でございますが、用心を怠らなければ大事は防げましょう。入り用の物があればこれまで通りお届け致します。」


一抹の不安はあるものの、李小二の言う通りだとして林冲は深く考えぬようにする。


ただ、陸謙はどこにいるのか。未だに知れない。


思い出すのは、共に飲んで笑った日々だ。彼が殺しに来たとは思いたくない自分がいる。

この配置換えも、殺しの企てとは関係ないのかもしれないとさえ期待してしまう。


同時に、自分を謀略にかけ更には殺しを依頼したという事実が、林冲の中から殺意を消し去ってはくれなかった。


なにより、ずっと雲隠れしているのは何故だ。


話がしたい。もう一度その機会が得られるなら、自分はどうするだろう?


盃に満たされた酒に陸謙の顔が浮かぶ。


なあ、陸謙。お前は本当に・・・・・・俺を殺せるのか?


林冲は酒を煽って、その問いかけを飲み込んだ。


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