第3話

孫定の言葉に嘘偽りはなく、林冲は滄州への流罪と決まった。


高植と高俅の親子は多少悔しがってはいたが、張氏と林冲が離れるだけでもまあ良しという雰囲気でもあり、陸謙は一先ずは安堵といったところ。


だが油断は出来ない。


林冲が滄州に発つ前夜、陸謙は大相国寺の菜園にやって来た。大相国寺は開封府一の大寺院である。

孫孔目を訪ねた時と同様、陸謙は顔が分からぬよう巾で覆った。


陸謙は当然ここに用があって訪れたわけであるが、脚に緊張が走って声をかけるのを怯んでしまう。

閉ざされた門の向こうから聞こえる、複数の低い怒号がどうにも穏やかではないからだ。


ここ、大相国寺の管理する菜園は宋国各地から集まった荒くれ者の溜まり場なのである。


開封府の警備兵も取り締まりに二の足を踏んでおり、その数は増え続けている。


重大なことを話しに来たのだ。林冲の命が懸かっていると己を奮い立たせた。


陸謙は意を決して門を叩き、声を上げる。


「夜分に大変失礼致します。魯智深ろちしん和尚はご在宅でしょうか。」


陸謙の声に気付いたのか、荒くれ者の一人が門から出て来た。


痩せて目つきの鋭い男が陸謙を睨む。


「・・・なんだ?」


特に理由もないであろう威圧に、陸謙は少し萎縮しながらも毅然とした態度で告げた。


「魯智深和尚にお願いがあって参りました。お目通り願います。」


気に入らないのは陸謙の態度か顔を隠した風貌か。それとも、単に虫の居所が悪いのか。いずれにしても男の返しは素っ気ない。


「帰れ。」


だが陸謙とて簡単には帰れないのだ。頭を下げ、食い下がる。


「お願いします!和尚にしか頼める方がいないのです。明日滄州に流される林教頭のことです!」

「はぁ?林教頭だと?」


そこへ大きな足音を立てた大男がやって来た。


身の丈は八尺をゆうに超え、腹周りも相当にありそうだ。

陸謙を睨む眼光は鋭く、口の周りは硬そうな髭で覆われている。

重さが幾らか見当もつかぬ、大きな鉄の禅杖を肩に担ぐ様は普通の坊主ではありえない。

噂通りの風貌だ。

そしてその手には酒が入っているであろう瓢箪、呼気からは酒臭が蔓延している。


陸謙は頭を垂れて、静かな声で挨拶の口上を述べた。


「魯智深和尚でございますね。突然の訪問、失礼を承知で参りました。」


この魯智深という男。

人を殺して出家したが酒をやめられず、どこぞの寺を追い出されてここ、開封府大相国寺の菜園の守人として落ち着いたらしい。

というのがもっぱらの噂だが、あながち間違いではないのだろう。

ここの荒くれ者達をまとめ上げる度量と強さに、陸謙は賭けに来た。


「うむ、まあ入れ。」


魯智深は陸謙を門の中に招くと、口を曲げ眉間に皺寄せ、不機嫌丸出しで尚も陸謙を睨む。


「固い挨拶なんぞいらん。林冲は盃を交わした兄弟じゃ。弟の名は聞き流せん。頼みとはなんじゃ?言うてみろ。」


相当気が短そうだと見て取った陸謙。僅かばかりの恐怖を感じながらも、林冲のことを思えば最適な人選だと確信する。


「はい。林教頭は高太尉とその部下、陸謙の謀りにあって滄州への流罪が決まりました。」


陸謙がそう話し出した途端、魯智深は激昂して持っていた瓢箪を握りつぶした。とんでもない握力である。


「そうじゃ!あれほどの好漢を、どんな理由かは知らぬが陥れるとは許せる所業じゃないわ!」


空気をびりびりと震わせる声に肝を冷やしながら、陸謙は続ける。


「実は高太尉の企みはまだ終わっておらぬかもしれないのです。」

「流すだけじゃすまぬというか?」

「はい。林教頭は命を狙われております。滄州に向かう途中、護送役人に金を渡して殺すつもりかもしれません。」

「なんじゃと?!」


宋代において、流刑になった罪人を道中で屠るということは珍しくなかった。


流される罪人は首と腕に枷をつけられる。武芸の達人の林冲も、この時に命も狙われては一溜まりもないだろう。


だからこそ、陸謙は魯智深の元を訪れたのだ。


「和尚の義気と武を見込んで・・・」

「林冲を助けろ、というわけか。」

「その通りです。滄州までの無事を確保していただきたい。」

「承知致した。」


いつの間にか、魯智深の目には穏やかな光が灯る。

陸謙は少しばかり安堵して、尚も頭を下げた。


「それから、林教頭には奥方がおります。」

「うむ。知っておる。」

「実は高俅の息子の高植が、この奥方に横恋慕したのがそもそもの発端です。林教頭の不在をいいことに、奥方に何やら悪さをしでかすのではないかと・・・。」

「なるほど。高親子の魔の手から、林夫妻を助けてほしいという頼みじゃな。」

「はい。」

「さっきも言うた通り、林冲は我が弟じゃ。ならば助けぬ選択なぞない。任せておけ。」


力強い言葉と共に、魯智深は大きな禅杖を一振り。

ビュンーーーと唸り声を上げ、夜気を震わせた。


心強い味方だ、と思うと同時に陸謙には憂慮されることもある。


「懸念がございます。林教頭を助けることで、今度は貴方が太尉達に・・・」


狙われることになりかねない。

そう最後まで話す前に魯智深は鼻を鳴らした。


「構わん。道に背いた振る舞いをしているのは奴らじゃ。そんなものが怖くては好漢とは言えんわい。」


話している内に恐怖が消え去っていたことに陸謙は気付く。

強面の大男、しかし強さと共に義に篤い性格が言葉の端に現れていた。


林冲と義兄弟の盃とは噂に聞いただけであったが、確かに林冲と気が合いそうだ。


最後に、と言って陸謙は申し添える。


「誠に勝手ながら、私のことは林教頭にも口外しないでいただきたいのです。私は高太尉に近しい者、もしこのことが露呈すれば首を刎ねられてしまいます。なにかあった際は、『怪しい男が護送役人に何やら話していて不審に思った』と、そういうことにしておいてはもらえないでしょうか。」

「それも問題ない。頼まれなくとも儂は林冲を助けに行く。」


よかった。


陸謙は深く、深く頭を下げて何度も礼を言った。


帰り際、門を出てからもう一礼。


無事に、滄州に辿り着いてくれーーー


そんな祈りを込めて。



部屋をあてがわれている高植の屋敷に帰ると、待ち構えていたらしい富安に呼び止められた。


「陸謙よ、どこに行っていた?」

「張教頭の屋敷です。張氏も夜なら外出するのではと張ってみました。出ては来なかったですが。」


咄嗟に吐いた嘘、という訳でもない。張氏の家に行ってみたのは本当だ。張氏が出て来なかったのも本当。


魯智深を訪ねた帰り、張家の周りをそれとなく徘徊した。

陸謙の『張家に行っていた』という言い訳を本当にするためである。何も問われなければそれで良いが、念の為の行動だ。

それと、高植の手の者が夜間に嫌がらせをしたりしていないかを見回るためでもある。


しかし富安は疑いの目を向ける。


「張教頭の屋敷とはなぁ。それは本当だろうな?」

「本当です。」

「私は林冲と懇意のお前を信用しきれていない。」


まさか尾行が付いていたかと、陸謙に緊張が走った。

探りを入れたい所だが、余計な言葉は墓穴になりかねない。

富安への返答には当たり障りのない言葉を選ぶ。


「私も出世を狙う一人です。そのためには親友であろうとも謀略にかけます。」

「ふん。高植様へ他の女を紹介するのに、随分と必死だったようだが。」

「横恋慕せずに縁組みがまとまればそれに越したことはありません。」

「本心では林夫妻を助けたいと思っているのではないか?お前と教頭は相当仲が良かったと聞いたぞ。」


富安の核心に近い言葉に、陸謙の鼓動が速くなった。

疑われるのは仕方ないとしても、今ここを放り出されるのは困る。


陸謙は真っ直ぐ富安を見据えた。


「もう一度申します。『横恋慕せずに縁組みがまとまればそれに越したことはない』のです。女性の夫が林教頭であるかどうかは関係ありません。それでいて高植様が張氏を諦められぬというのであれば、林教頭には大人しく滄州へ行ってもらうのも仕方ない。」

「さて、大親友とも言える林教頭をそんなにあっさりと捨てられるのか?」


『応』と言っただけでは富安は納得しないだろう。陸謙は富安から目を逸らさずに問う。


「困りましたね。・・・では、どうすれば信用していただけますか?」


富安は懐から包みを取り出して陸謙に渡した。


「十両ある。これを明日、護送役人に渡して林教頭を殺させろ。お前がやれ。」

「・・・・・・分かりました。」


やはり、と思わずにいられない。

むしろ富安の企みがはっきりして良かったのかもしれない。


富安は包みを指差してこう続けた。


「高植様には護送役人にそうさせたのは私だと言っておく。出世するのは私一人でいい。」

「それで信用して下さるのであれば、そこはご自由に。私は私で、出世させて下さるように動くだけです。」


陸謙は富安に一礼して立ち去った。


胸糞悪い。

そう思いながら、震える手で陸謙は包みを握り締めるのだった。





牢は暗くて寒い。


夏という季節のため、実際にはそれほどではないのかもしれない。しかし、幼い頃から親友と信じた男が裏切ったという事実が、一層林冲の心身を凍てつかせた。


何故


いくら林冲が問いたくても、もう陸謙には届かない。


槍棒を振るえればそれで良い林冲と違い、陸謙には大きな夢があって、その夢を実現する足掛かりには出世が不可欠だ。


清廉な彼は賄賂を嫌い、媚を疎んじていたからその道は容易くない。


だから遂に、彼自身が変わってしまったのだろうか。


そのことが無性に哀しく、腹立たしい。


一日に何度も林冲は涙した。


そんな中で滄州への流刑が決まり、出立の日が訪れる。


牢獄から出され、別れの挨拶をしに張家を訪問した。


応接室に通されると、杏麗の父親である張堅が林冲にいくらかの銀子を差し出す。


「金が物を言うことも多い。少なくて申し訳ないが持って行きなさい。」


張堅は義や情に厚く、身近に関わりのある者を家族同然に扱ってくれる方だ。林冲も若い頃から世話になっていたのみならず、結婚してからも本当の息子のように接してくれた。

早くに両親を亡くした林冲にとって、心の支えになってくれた大恩がある。


こんなことになってまで、張堅が気遣ってくれることは林冲にとっても幸いだ。


だが、林冲はその銀子を受け取れないと拒否した。


「申し訳ありません。杏麗とは離縁して行きます。なのでそれは受け取れません。」


林冲の言葉に驚いたのは張堅だ。

信じられぬといった形相で林冲の肩を掴む。


「離縁だと?それはいけない。林冲には何の咎もない。私も杏麗もその事は良くわかっている。」


牢獄の中で、林冲は考えていた。


罪は意図的に作られたもの。だからこそ、簡単には開封府に戻って来られないだろう。


林冲は張堅に頭を下げる。


「謀りであったからこそ、いつ戻って来られるか分かりません。杏麗をいつまでも待たせる訳にはいかないのです。まだ若いのですから、良い縁があれば再婚することもできましょう。」

「そうした方が安心できるのか?」


納得はしていないであろう張堅の声。

恩を仇で返しているような罪悪感を感じながらも、林冲は毅然と答える。


「はい。」

「・・・・・・なら仕方ない。離縁状には私が署名しよう。」


張堅は女中に紙を持ってこさせると、林冲がその場で離縁状を書いた。


その時、別室で話を聞いていた様子の杏麗が涙を流して応接室に入って来る。


「あなた!離縁なんてあんまりです!」

「杏麗、聞いてくれ。気持ちが離れた訳ではない。」


杏麗の瞼は腫れ、体は瘦せ細ってしまった。

高植の手に捕まらぬよう、杏麗は実家に引き籠もって外にも出ず、牢獄の林冲と会うことさえ出来なかったのだ。

毎日泣いて過ごしたのだろうと思うと林冲の心が痛む。


きちんと諭さねば、そう思っても林冲とて別れは辛い。

なんと続ければ良いか分からず、涙を堪えてそっと抱き締めた。


林冲の胸で杏麗は声を上げて泣く。


「お願いですっ・・・。離縁なんて言わないで下さいっ!」

「・・・・・・本当にすまない。しかし分かってくれ。お前はまだ若いのだから、いつまでも俺を待っていてはいけない。」


林冲の言葉に、杏麗は泣きながら首を横に振った。


そんな二人の様子に、張堅も遂に涙を流す。

そして愛娘の肩を優しく叩いて、諭すように言った。


「杏麗、そんなに我が儘を言わないであげなさい。一番辛いのは林冲本人だ。分かるね?」


杏麗は言葉を詰まらせる。

辛いのは杏麗も同じはず。張堅は優しい声で続けた。


「いいかい?今は林冲が安心して出立することが先決だ。離縁したからといって、縁切りという訳でもない。早くほとぼりが冷めて戻って来られるように祈ってあげなさい。」


杏麗は顔を上げ、大きな愛らしい瞳で林冲を見つめる。


「・・・・・・戻って来られたら、また私を妻にして下さいますか?」

「・・・もちろんだ。約束する。」


戻って来られるか、正直分からない。

分からないことを約束するのも酷だろう。

だが、林冲にはそうとしか言えなかった。


良い縁があれば再婚するのが彼女の為だ。

それは本心で間違いない。

間違いないのだが、今それを強調することは杏麗を傷付ける。


何より林冲自身、もしも罪が許される日が来るのならもう一度杏麗と添い遂げたい。


「分かりました・・・・・・。」


杏麗はようやく、そう答える。

林冲は杏麗の涙を拭うと、頬にそっと口付けたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る