第2話

林冲が席を立って用を足し、そろそろ帰らせてもらおうかと思っていた矢先のことである。


樊楼の給仕と、慌てた様子の錦児が話しているのを見かけた。


御嶽廟の一件もあり、杏麗に何かあったのだと即座に察知する。


「錦児!何かあったのか?!」

「旦那様!陸謙様のお宅へ急いでください!」


錦児は涙目で、息も整わずにそう叫んだ。

林冲はすぐにでも駆け出そうとするも、信じられない名前に踏み止まってしまう。


「陸謙だと?!」


何故だ。つい今、共に飲んでいた。杏麗の危機にあいつの名前が出るのはおかしい。


「旦那様!」


錦児の声にハッとして、林冲は駆け出す。

生来考えるのは得手ではない。


今は妻の元に行くしかなく、一目散に走る。


林冲が陸謙の家の戸を蹴破ると、二階から騒々しい音が聞こえた。

バタバタと走り回る音に、何か物を投げるような衝突音。それに杏麗の悲鳴が混じっている。


林冲はあらん限りの声で妻を呼んだ。


「杏麗!無事か!!」


すると今度悲鳴を上げたのは男だった。

高植の声だ。


二階に駆け上がると、部屋から出て来た妻の顔が目に入る。


見たことがないほどの涙が溢れ、体がガチガチに震えていた。相当な恐怖だったに違いない。


部屋に入ってみたが、窓が開け放たれており、そこから逃げたのか高植の姿はない。

部屋はひっくり返った机や、あちこちに書物や木彫りらしき置物が散乱していた。

非力な女の、出来る限りの抵抗だったのだろう。

林冲は杏麗に優しい言葉を掛ける。


「・・・無事か?怪我は?」


杏麗は首を横に振り、


「大丈夫です・・・何もされてはいません。」


そう小さく呟いた。

安堵から、林冲は大きく息を吐いて杏麗の肩を抱く。


そこへ錦児もやって来た。


「奥様!」


ホッとした様子の錦児に林冲は礼を言った。


「錦児、よく知らせてくれた。・・・ところで何故こんな所に来たんだ?」


陸謙と家を出てからあまり時は経っていなかったはずだ。

錦児は申し訳なさそうに、順を追って話し出す。


「旦那様がお出かけになってしばらくしたら、陸謙様の隣の家の者という男性がいらっしゃって・・・。旦那様が突然倒れて意識がないと言うものですから、私も奥様も慌ててしまい行くしかないと・・・。しかしここに来たら旦那様はおらず、御嶽廟の時の男がおりまして、私は部屋から追い出されてしまったのです。」


すぐに林冲を探しに走った、と話したところで錦児も杏麗の手を取る。そして無事で良かったと涙を流した。


「そうか・・・よく樊楼にいると分かったな。」


場所を変えたことを、当然錦児は知らなかったはずだ。何故、さほどの時間をかけずに樊楼に来てくれたのか、林冲は疑問を口にする。


錦児は袖で涙を拭いながら答えた。


「陸謙様と飲んでいることは間違いないと思いましたので、飲み屋街の方へ探しに行ったら薬屋の張さんが教えてくれました。」

「そういえば店の前を通ったな。」


慌てる錦児によく気付いてくれたものだと林冲は心裡で感謝した。


ともあれ、杏麗の無事を確認したところで、林冲には沸々と怒りが沸く。しかし先ずは妻の安全が最優先、自宅に一度帰ることとした。


杏麗と錦児を自宅に入れ、


「陸謙と話をしてくる。俺が戻るまでは鍵をかけて、誰が来ても応対はするなよ。」


そう言って林冲は走って樊楼に戻った。しかし陸謙はいない。


家に戻ったかと思って駆けつけても、いなかった。


何かの間違いだと林冲は信じたかった。


『こんな事になるとは思わなかった。本当に知らなかった。どうか許してくれ』


目を見て、そう言ってくれさえすれば林冲はその言葉を信じただろう。


弁解でも言い訳でもいい、『許してくれ』の一言が聞きたかった。


何度彼の家を訪ねても、陸謙に会うことはできぬ日々が続く。


どういう事なんだ


湧き出た疑念は刻々と林冲の心を侵食し、憎悪へと変じて行くのだった。





何故こんな男の世話を焼かなければならないのか。


不満はあれどそれを面に出すわけにはいかず、陸謙は一人になると大きなため息を吐く癖がついてしまった。


こんな男とは言わずもがな、高植だ。


林冲を嵌めて張氏を手に入れようとしたが、失敗。

怒り狂った林冲の怒声で相当に肝が冷えたことと、二階から飛び降りて逃げたせいで足を負傷したことから、高植はずっと床に伏せっている。


「あぁ・・・あの美しい女性に振り向いてもらえないなんて・・・こんなに愛しているのに・・・俺はもうダメだ・・・。」


という弱音を一日中聞かなければならない陸謙は心底呆れ果てていた。


先日の計画は陸謙にとっては巧いこといってくれたが、これではまるで決着が着かない。


陸謙にとっての計画というのは以下のようであった。


薬屋の張というのは愛想のいい男である。客の顔をよく覚えていて、その客が通りかかっただけでも声を掛けてくれることが多い。


そして林家では張から薬を買っていて、夫妻、錦児は張と顔見知りである。

だからわざと、その薬屋の前で樊楼の名前を出した。林冲は長身で目立つから、張も気付いてくれるだろうと踏んでいた。


そして錦児。杏麗の人柄と年が近いこともあり、二人はとても仲が良い。杏麗の危機に彼女はすぐに林冲を探しに出るだろう。陸謙と飲んでいることを知っていれば近くの飲み屋街の方角へ来てくれる。

常連客である錦児の慌てた様子に、張も気付くだろう。そうしたら張から林冲の居場所を錦児は聞くことが出来る。


そんな次第なのであった。


高植の世話をしつつも、早く林冲に会いたいという焦りもあった。だが今は耐えるしかない。


なんとか高植には横恋慕を諦めてもらおうと、陸謙は開封府の隅々まで駆け回った。

花街の女郎だろうと街娘だろうと、美女の噂を聞いては会いに行って高植との見合いを勧める。太尉の子息という肩書きがあるが、生憎とそれこそが邪魔になっていた。高俅の悪名は既に良民の知るところとなっている。


稀に高植と会ってくれる女性もいたが、花街で生計を立てているいわば玄人。女郎と客以上の発展はない。


つまり、他の女性と引き合わせるという成果はさっぱりだった。

一般良民である彼女らを謀るような真似はしたくないので、これも仕方ない。

大体にして、高植自身が『花花太歳かかたいさい(女たらしの疫病神)』という不名誉なあだ名を付けられているのだから自業自得なのだ。


ある日のこと、高植の父親である高俅の元から見舞客がやって来た。

高俅の執事を務める初老の男だ。


「若様・・・こんなにお痩せになって・・・。」


執事は涙を流して高植の手を握る。


「俺はもうダメかもしれない・・・親父の後を継げず申し訳ないと、親父に伝えておいてもらえないだろうか。」

「若様っ!」


一体何をみせられているのかは疑問だが、余計なことは言わぬに限る。


陸謙は目を伏せて事態を見守り、執事が帰る際には富安と共に通りまで見送った。


その時のことである。

富安が執事の耳もとで何かを囁いた。

陸謙が耳を澄ますと、富安の口から衝撃的な言葉を聞く。


「実は高植様のご病気は恋の病なのです。槍棒班教頭、林冲の女房に懸想するあまりあのような痛々しいお姿に・・・。これではもう、林教頭を亡き者にするほか、高植様が回復する手立てはございません。」


陸謙は言葉を失った。

いくらなんでも、完全な横恋慕で命を取ろうとする発想が理解出来ない。


そんなもの了承する訳がない、という陸謙の予想は執事の次の言葉で裏切られることになる。


「なるほど・・・。では私からも高太尉に相談することと致しましょう。」

「はい。どうぞよろしくお願いします。」


執事が帰った後に陸謙は黙っていられず、富安に問い詰めた。


「富安殿。林教頭を亡き者になどと、正気でございますか。」


富安はこともなげに答える。


「ああ、正気だとも。花街のどんな美女でも高植様の心を動かせなかったのだ。これしかあるまい。」


正気だと言う富安の目には狂気が宿っているように陸謙には見えた。


簡単に人を亡き者にするなど、普通ではない。

富安は尚も喚く。


「これが上手くいけば出世できる!これ以外に方法などあるか!」


出世・・・。そんなものの為に、というつもりはないが人の命を秤にかけるほどのものではないはずだ。

それが判らぬ富安に陸謙は苛立ちと恐怖を覚える。


だが林冲を謀殺など、看過できるわけがない。


陸謙は考えた。

ここで声高に反対したら、自分が屠られる。そのこと自体は大した問題ではないが、そうなったら誰が林冲の危機を救えるのか?


やるしかない。


林冲の命を狙う振りをして、彼の退路を確保するのだ。


「ごもっともです。では、私もお手伝いしましょう。」


林冲にはもう親友と思ってもらえないだろう。


それを思うと陸謙は哀しみ、一人涙したのだった。




林冲は自宅に帰った様子のない陸謙を探し続けた。


彼が自宅以外に行く所といえば高俅の屋敷かもしれない。私邸でもありながら太尉としての執務場所を兼ねるそこが、元々彼の職場だからだ。

だが、未遂とはいえその息子が妻を襲ったと思うと、平常心で高俅と話ができそうになかった。

基本的には穏やかな性格の林冲は、理不尽なことに関しては気が短い。ただでさえ尊敬に値しない高俅に殴りかかりでもしたら、ただではすまないことは容易に想像できる。


それでも陸謙と話がしたくて、高俅の屋敷に出入りしている用人を掴まえてみた。


「いきなりすみません、陸虞候をご存知でしょうか。」

「これは林教頭。・・・陸虞候はしばらくこちらには来ておりません。」


陸謙の所在を尋ねるも、そう返って来る。

ちなみに、林冲は男のことは知らないが、武芸の達人である林冲は開封府で知らぬ者はいない。


「何か聞いておりませんか。」

「いいえ、なにも。林教頭こそ、何か知っていれば教えていただきたいのですが。」


この若い用人、陸謙とも懇意であるらしくかなり心配している。おそらくここにいないのは本当なのだろう。


「すみません。私も何も知らぬのです。」


林冲は咄嗟にそう言った。本当のことを話すのは憚られたのだ。


「そうですか・・・。」


彼はそう言って深く林冲に一礼する。林冲も礼を返すと背を丸めて去って行った。



では高植の方と何か繋がりがあるのかと思い、こちらの屋敷にも向かう。妻を襲った張本人のいる所だ。こちらは本当に、いきなり殴りかかってしまいかねない。


そう思い、金を払って旅人に探りを入れてもらった。開封府は短期の出稼ぎや旅芸人も多く出入りしているため、この手の依頼は珍しいことでもない。

だが何度繰り返しても、知らぬという答えが返って来る。


開封府中で聞き込みをするしかないのか。そう思い始めたある日のこと。


見知らぬ男に声をかけられた。


「すみませんが、槍棒班教頭の林冲殿ですよね?」

「?そうだが・・・。」


普段であれば良からぬ輩かと警戒するのだが、もしや陸謙を知っているかと林冲は期待する。


男の手招きに従い、店が並ぶ裏手で人通りの少ない路地に入った。


「お伝えしなければならないことがございます。陸謙殿という方をご存知ですね?」

「陸謙を知っているのか?あいつはどこにいる?!」


興奮から、林冲の声は無自覚に大きくなってしまう。

男は人差し指を立てながら声を潜めた。


「しっ!お静かに・・・。陸謙殿は今高植様の屋敷におります。ですが、無事とはいえぬ状況です。」

「・・・・・・どういうことだ?」

「先日、高植様と陸謙殿は林冲殿の奥様に対して良からぬ企みをしました。それが失敗に終わり、陸謙殿はその責を負わされ毎日高俅様から厳しい折檻を受けております。」

「なんだと?!」

「この書簡にはその事実と謝罪、そしてどうか助けてほしいという懇願が書かれております。陸謙殿は隙を見て、高植様の虞候である私にこれを託されました。」


そう言って男は書簡を林冲に手渡す。

林冲は震える手でそれを見ると確かに陸謙の文字でそう書いてあった。


高俅と高植に対して激しい怒りが湧き上がる。


「よく届けてくれた。礼を言う。」

「その書簡は破棄せねばなりません。陸謙殿が外部に助けを求めたと知れたら、彼の命が危ない。」


男はそう言って手を差し出した。自分が破棄するということらしい。


「・・・そうか。」


林冲は男の言葉を信じ、その書簡を返す。


「今日の夕刻に高太尉の屋敷の前で落ち合いましょう。そこからは私が案内します。」


そう言って男は足早に立ち去ってしまった。




林冲は一度家に帰って懐に短剣を仕込むと、夕刻前に高俅の屋敷へと向かう。


「林冲殿、お待ちしておりました。さあ、急ぎましょう。」


男は既に待っていて、林冲は何も疑わずに付いていった。


部屋をいくつか通り過ぎ、奥の間にたどり着く。


「ここで待っていれば今日もやって来るでしょう。私は一緒に待つ訳にはいきませんので、これで失礼します。」

「わかった。」


男が出て行き、辺りはしんと静まり返った。


あまりにも人の気配がしないことに違和感を覚えると、その部屋が本来何であるか林冲は唐突に思い出した。


『白虎節堂』。機密の軍議が開かれる場所で、許可がないと立ち入る事さえ禁止されている。

部屋を見渡すと白虎節堂の文字が書かれた看板が隠すように置いてあった。


「おかしいぞ・・・。これは・・・・・・。」


すぐに部屋を出ようとした林冲だったが、既に遅い。


「そこで何をしている?!」


いきなり警備兵が現れ、抵抗する間もなく体を拘束されてしまう。


そこへ高俅がゆっくりと歩いてやって来た。


「何の騒ぎじゃ?」


どこかにやけた表情の高俅に、林冲はカッと

なる。

だがそのすぐ後ろに陸謙の姿があって、林冲は陸謙から眼を逸らせなくなった。


陸謙は口を真一文字に結び、その感情は読み取れず林冲と視線も合わせない。だが、目元に隈が出来ているものの話に聞いた折檻を受けている様子がないのは明らかだった。


林冲の頭は混乱し、あらん限りの声で叫ぶ。


「・・・陸謙っ!俺はお前に呼ばれたんだ!そうだろう?!」


そうだ、と言ってくれること林冲は信じた。

かつての親友なら、そうしてくれるはずだと。


しかし、目の前にいる陸謙がもう親友ではないと思い知らされてしまう。


「そう言っておるが?」


ニタニタ嗤って陸謙に尋ねる高俅。

陸謙は抑揚のない声で言い放つ。


「覚えがありません。」


陸謙の言葉に林冲は絶望した。


書簡の文字は間違いなく陸謙の手のもの。流れるように美しいのに、時折力強く跳ねる文字は林冲も好んだ筆跡。


それを、謀りに使っていたなんて。


警備兵に体を調べられても指一本動かす気にならない。


「短剣を所持しております!」


言い訳は無駄。何を言っても、逃れられない。


高俅は嗤った顔のまま、林冲に近寄る。


「林冲よ。ここがどこだか分からぬ訳ではないな?武器を所持して立ち入るなど、重罪だぞ?」

「・・・・・・。」

「その短剣で誰を刺すつもりであったのかの?」

「・・・・・・。」


それでも林冲は何も答えない。


謀られた。


それがすべて。


林冲の視線は陸謙を刺す。

陸謙は眉一つ動かさず、ただ事態を眺めていた。


「連れて行け。」


高俅の声が遠く聞こえる。


何故だ。


陸謙、お前は清廉で公正な男のはずだ。


その問いだけが脳裏を占め、気付いた時には林冲は牢獄に入れられていたのである。






すまん 許してくれ お前の為なんだ


そう叫びたい。


林冲に頭を下げ、泣いて許しを請いたい。


だが今そんな事をしてはいけない。


高親子に目をつけられた以上、開封府にいることこそが危険なんだ。


早く開封府から逃がさなくては!


陸謙は陽が落ちた後、頭と顔を大きな巾ですっぽりと包んである男に会いに行った。


孫定そんてい殿。夜分に大変恐縮ですが、お話をさせていただけないでしょうか。」


孫定は開封府の孔目という職の、いわゆる裁判官である。

『孫仏児』・・・仏の孫さんと呼ばれるくらい慈悲深く人助けをよくしていた。


そんな彼に、陸謙は重大な頼み事をしなくてはならない。


孫定の自宅からは背筋の伸びた初老の男性が出て来た。孫定本人である。


顔を隠した陸謙に、孫定は警戒しているような低い声で尋ねた。


「・・・あなたは?」


警戒されるのは仕方ない。しかし話は聞いてもらわなくては困る。

陸謙は必死の思いで、深く頭を下げた。


「申し訳ありませんが、素性は明かせません。

しかし白虎節堂に立ち入った林教頭のことでお話ししたいことがあります。」

「・・・どうぞ。」


孫定は優しく陸謙の肩を叩くと、家に招き入れてくれた。


孫定自ら茶を煎れると、


「お話を伺いましょう」


と言って椅子に腰掛ける。


陸謙は単刀直入に尋ねた。


「林教頭の件、孫定殿はどのような判決を下すおつもりでしょうか?」


孫定は答えにくそうに頬を掻いている。


「高太尉からは死罪を申しつけられておりますが・・・」

「死罪?」


思った通り、高俅は手を回していたのだ。

それをやめてくれ、と陸謙が頼む前に孫定は続けた。


「もちろん死罪にはしません。林教頭は本来、そのようなことをなさる方ではありませんから。余罪も全くありません。」


これを聞いて陸謙は安堵した。

だが聞きたいのはそれだけではない。続けて陸謙は尋ねる。


「では判決はどうなされます?」

「流刑が妥当でしょう。」

「流刑先は?」

「さて、いくつか候補を絞っている所です。」


陸謙は身を乗り出すようにして、孫定に頭を下げた。


「もし、私の願いを聞いて下さるなら滄州そうしゅうにしていただきたいのです。」

「滄州ですか・・・。」

「林教頭が白虎節堂に立ち入ったのは高太尉の企みによるものなのです。林教頭には本来何の咎もありません。」

「企みとは?」


陸謙は事の次第を話した。

高植が林冲の妻の張氏に横恋慕していること。そのせいで病にかかり、高植の為に側近達が林冲を謀殺しようとしていること。


孫定は哀しげな顔を見せると、茶を一口啜って陸謙の意見を承諾してくれた。


「・・・滄州は流刑先の候補の一つとして挙げていました。滄州への流刑を林教頭の判決と致しましょう。」

「ありがとうございます!」


陸謙は深く礼をして孫定に感謝を述べる。


「林教頭の人柄は良く知られております。槍棒の達人、真面目で勤勉、義に篤い真の好漢であると。」


滄州。そこに何があるか孫定も心当たりがあるように陸謙に確認を取る。


「だからこそ・・・・・・滄州なのですね?」

「・・・はい。」


多くを語らずとも、分かってくれた様子の孫定に陸謙はようやく肩の力を抜く事が出来た。


用を終え、帰ろうかと陸謙が腰を浮かせたら孫定が手で制す。


「あぁそうそう。」

「なんでしょう?」


他に話し忘れたことなどあっただろうかと陸謙は思い返すが、孫定の言葉は陸謙にとって予想外のものだった。


「目の隈がひどいようですね。判決は心配要りませんから、今夜くらいはゆっくりお休みなさい。」


その言葉に顔を包んだ巾の下で陸謙は涙を流す。


よかった。この方が孔目で本当によかった。


穏やかな声と優しい言葉が、陸謙の心にじんわりと染み込んだ。


林冲の命がかかった綱渡り、陸謙は大きな重圧に耐えながら思案を続けている。


これで本当に大丈夫なのかと、何度も何度も考え直しては眠れない夜が続いた。


林冲を失うのではないかという不安は、まるで暗闇を駆ける恐怖に等しい。


それでも、孫定のおかげで一筋の光が陸謙には見えたのである。


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