退路を確保せよ

山桐未乃梨

第1話

中国宋代、書や絵画などの芸術文化が栄えた頃のこと。反面で軍事力は衰退、北方の遼国に脅かされるも時の徽宗きそう皇帝は趣味の庭造りや絵画書画に没頭していた。当然国の金は中央に集中し、地方の貧困層救済も行き届かぬ有様。


そんな中でも首都、東京開封府とうけいかいほうふは恵まれた街である。宋国各地から商人が集まり、活気もあって賑やかだ。ここに暮らしている多くの人間が、弱り切った国の実態に気づいていないのかもしれない。


しかし、開封府に生まれ育ち、日々宋国の行く末を案じている聡明な男がいる。


男の名は陸謙りくけんといった。



書物の整理は陸謙の日課である。

その最中に、どうやら来訪者がやって来た様子。


「おおい、陸謙。いるか?」

「おう。」


聞き慣れた声に短い返事をして、陸謙は素早く玄関の戸を開けた。

そこにいたのは身の丈八尺の長身に加え、切れ長の目をした秀麗の面立ちの男。


林冲りんちゅうか。突然どうした。」


陸謙が林冲と呼んだ男は、瓢箪を揺らして口角を少しばかり上げる。瓢箪からはちゃぷんと水の音がした。


「すまん、陸謙。急だが、少し飲まないか。」

「おう。酒の誘いは断らんぞ。お前は女房そっちのけでいいのか。」

「遅くならぬうちに帰るさ。」


林冲は家が近所の幼馴染みであり親友だ。

八十万を擁するとされる禁軍に所属し、特に武芸に秀でていないと務まらない槍棒班教頭として日々兵士の指南に勤しんでいる。

彼の同僚で張堅ちょうけんという教頭の娘、張杏麗あんれいと結婚したのは半年ほど前のこと。

結婚しても陸謙と飲むのは変わらないが、本当に遅くならぬうちに帰る愛妻家だ。


陸謙は林冲の上官にあたる新任の殿帥府でんすいふ太尉、国の軍事の最高責任者である高俅こうきゅうという男の虞候ぐこう(傍用人)として働いていた。

林冲とは違い、身の丈低く顔の造りも若いというよりは幼く見える。林冲とつるんで歩くと、周囲からは親子と揶揄された。


そんな二人は互いに真面目、清廉で曲がったことが嫌いな質の為、信頼し合っている。

全く違う仕事をしているにも関わらず度々会っては四方山話に花を咲かせるのだ。


陸謙が林冲を二階の部屋に上げると、彼は感心したような言葉を口にした。


「相変わらずよく片付けてある。」

「散らかっているのは嫌いなんだ。頭の中まで散らかってしまう。」


陸謙にとって整理整頓は趣味の一つだ。物事を順序良く並べ立てて考えるには乱雑な風景は邪魔になる。


「適当に座っててくれ。何か肴を持って来る。」

「俺は塩さえあれば飲めるぞ。」

「俺はそれじゃ飲めないんだよ。」


陸謙は干し肉と、軽く炒めた菜をいくつか皿に盛って部屋に戻る。陸謙の家にあった酒と塩も忘れない。


しめやかに乾杯をして、本当に塩を舐めながら林冲は酒を流し込む。


酒好きの林冲は陸謙と飲むことを楽しみにしてくれているらしく、いつもなら上機嫌だ。

愛想のある方ではないが、陸謙と話す時はよく笑う。


ところが、最近は元気がない。

ふと目を伏せて黙り込む瞬間がある。


「林冲、最近元気がないようだが。」

「そんなことはない。元気だ。」

「同じ教頭の王進おうしん殿が開封府を出て行ったのが堪えているのではないか。」


林冲の同僚の王進は武芸十八般に通じる達人である。実直で部下の信頼も篤い、林冲の目標とする御仁だ。


その人が半ば逃げるように、開封府を出て行ってしまった。

原因は高俅。

親の代からの因縁で難癖をつけられ、命の危険を感じたのだろうとされている。王進は誰にも、何も言わず、こっそりと母親を連れて出て行った。


高俅は現皇帝に蹴鞠の腕を見込まれて現在の地位に座っている。逆にいえば取り柄は蹴鞠でしかない。

そんな劣等感からなのか元々の性格なのか、能力の高い者を嫌った。

自分の地位を脅かす輩を排除しまくっているのだ。


それを知っている陸謙は高俅の前では愚鈍に振る舞っていた。

科挙を目指していた陸謙は本来、頭の回転が早く物知りだ。


そして夢がある。政治の中枢に上り詰め、弱体化した宋国の軍事強化と貧困層の救済がそれである。

高俅が気に食わぬと思っていても、軍事の最高責任者であるが故の権力はおいそれとは敵に回せない。


王進のことに関しても、高俅に露見せぬように手を回すのには無理があった。何かよい考えはないものかと思案する間はほとんどなく、王進の行方は知れない。


林冲にとって、王進がどのような存在だったか陸謙も知っている。だからなんとかしたかった。けれどできなかったことを陸謙は林冲に詫びた。


「高太尉の傍にいながら、何もできなかった。すまない。」

「やめてくれ。陸謙は何も悪くない。お前を責める気持ちは微塵もないんだ。」

「しかし、そんな浮かない顔をしているのはそのせいだろう?」


陸謙のその問いには答えず、林冲は杯を飲み干す。

目の端が潤んでいるのは酔いのせいではない。


林冲は大きな手で拳を握り締め、悔しさから眉間に深い皺が寄った。


「解せない。それだけだ。殿帥府太尉というのは確かに偉いのだろう。だが、何をしても許されるはずはない。そんな職なんてないのではないか。」

「ああ。その通りだ。」


今、宋国は悪臣の巣窟と成り果てている。

徽宗皇帝が政治も軍事も経済も部下に丸投げしている上、奴等の横暴で好き勝手な振る舞いを咎めようともしない。だから、国の権力を握っている者が何をしても許されている現状がある。


変えねばならない。だが、陸謙一人ではあまりに無力だ。


「なあ、陸謙。」


林冲が陸謙の杯に酒を満たす。


「なんだ?」


陸謙は林冲ほど酒が強い訳ではない。しかし今日は酔えそうになくて、注いでくれた酒を一気にのどに流す。


「お前だけは、清廉なままの男でいてくれ。」


林冲は至極真面目な顔で、持っていた杯と陸謙の杯を鳴らした。


凜 ーーー


と微かな音を立てた杯はまたすぐに酒で満ちる。


「当たり前だろう。失礼だぞ。」


何度でも、酒なら付き合ってやる。

これくらいのことしか出来ないことをどうか許してくれ。


そんな思いを隠して陸謙は笑った。


陸謙が笑うと林冲も笑う。


そんな二人に大きな災いが降りかかるのはこれより三年ほど後のことである。






陸謙は自室に戻るなり、結った髪に指を突っ込んでガリガリと掻いた。


焦りと、苛立ち。


抑えきれぬ憎悪の情がこみ上げて、壁に拳を叩きつける。


「・・・・・・っくそ・・・・・・。」


座ることも忘れて開封府の図面を乱暴に広げた。


冷静にならなくては。それは判っている。

地図をなぞる指が微かに震えた。失敗はゆるされない。そんな重圧に涙ぐみながら、陸謙は思案に思案を重ねた。



遡ること数刻前、陸謙は上官の高俅に呼び出しを受けた。

あくまで高俅の前では愚鈍のふりをしてきた陸謙は、なぜ名指しで呼ばれたのか皆目見当もつかなかったが、その内容を知って大きな衝撃を受ける事になる。


「息子が槍棒班教頭、林冲の女房に懸想している。添い遂げさせてやりたいから、協力しろ。」


高俅の息子は、元は高俅の従兄の子であった。子のいない高俅が養子に迎えたわけであるが、ずる賢くて怠け者という性格は実によく似ていた。


そんな命令、応じられるはずがない。


だが高俅とその息子、高植こうしょくは執念深い親子だ。蛇のようにしつこく追い回して目的を遂げようとするだろう。


ここで陸謙が断ろうとも、代わりはいくらでもいるのだ。

だったら協力する振りをして失敗を装いながら、高植にはその恋とやらを諦めてもらうように動く。

それしかない。

林冲の目には裏切り者として映るだろう。

それでもいい。彼らの生活を守れるなら。


陸謙は高植の腹心で富安ふうあんという男の策に乗ることを約束していた。

狡猾で出世欲の強い、小太りの小男だ。

奴から聞いたのはごく単純な計画。綻びは必ずある。陸謙は林冲の周囲の人間の人柄も熟知している。それをふまえて林冲の妻の張氏を守る方法を探った。


独りきりの戦いが、始まったのだった。





陸謙は林冲の自宅へと赴く。このこと自体はさほど珍しいことではないが、陸謙の足取りは重く、緊張していた。


「林冲、いるか。」


それでも、いつもの調子を意識して声を掛ける。


「陸謙か、どうした。」


陸謙はいつも通りを装うも、林冲の返事は明らかにいつもと違っていた。

理由は知っている。

だが知らぬ振りを演じなければならない。チクリと陸謙の胸が痛んだ。


「どうしたもこうしたもない。最近さっぱり飲んでないだろう?たまには付き合ってくれよ。」


陸謙は酒を飲む仕草でそう誘う。

いつもならすぐに『よし飲もう』となるのだが、やはりと言うべきか今日は違っていた。


「ああ・・・すまん。最近どうも飲む気になれなくてな。」

「何かあったのか?なんだ、話してくれよ。水くさい。」


事の発端は富安から聞いている。


五日ほど前、林冲は妻の張杏麗、女中の錦児きんじととに御嶽廟に参拝していた。

その際、林冲が杏麗と錦児から離れている隙に、二人が高植と出くわしてしまう。

高植は一目で杏麗を気に入ってしまい、しつこく言い寄ったのだそうだ。


この時は林冲が駆けつけて事なきを得たが、よりによって悪評高い高俅の息子に目をつけられたことは夫婦にとって災難だったに違いない。


陸謙の前でも伏し目がちに浮かない顔をしているのは、王教頭が開封府を出て行った時以来ではなかろうか。


「・・・・・・」


林冲は頭を掻きながら、何を話せば良いか考えあぐねている様子だ。


「らしくないな。俺は相談相手として不適切だとでも言うのか。」

「いや、違う。そうじゃないんだ。」


林冲との付き合いは長い。どう言えば林冲を動かせられるか、陸謙には容易く想像がついた。


「なら俺の家で一杯くらいどうだ。」

「・・・・・・そうだな。」


そこへ、二人の会話が聞こえていたのか、林冲の美しい妻が錦児と共に林冲の元へと歩いて来る。


「あなた・・・陸謙様と飲むのは良いのですが、あまり遅くならないで下さいね。」


不安そうな張氏の顔に、陸謙の心がジリジリと痛んだ。


「大丈夫ですよ、奥さん。少しだけ飲んだらきちんと帰します。」


謀っているのだという罪悪感を抱えながら、陸謙は笑顔を見せる。


「では少し行って来る。錦児、頼んだぞ。」


林冲はそう言って張氏の肩に手を置いた。張氏がその手をそっと握る。


「はい。旦那様もお気を付けて。」


女中の錦児は深く頭を下げた。

錦児は林冲達が結婚した頃から仕えている女中だ。地味ではあるが整った顔立ちをしていて、頭の回転も早い。


陸謙も二人に頭を下げた。


すまない


そんな気持ちを密かに込めて。





「それにしても、林冲が酒の誘いを渋るなんて余程のことがあったのか?」


林冲の家を離れてすぐに、陸謙は歩きながらそう切り出した。事のあらましは聞いているが、林冲自身がどう思っているか知りたいとも思っている。


「まあ、そうだな。俺も自分で驚いている。」

「じゃ、俺の家なんかじゃなく、たまには贅沢しよう!樊楼はんろうなんかどうだ?」

「俺はどこでもいいが。」

「よし、決まりだ。」


陸謙はこの界隈では高級店の酒場に誘導した。

飲み屋街を少し歩いて店に入ると個室をとって、肴と酒を給仕に頼む。


この先は運も掛かっている。

しくじらぬよう種は蒔いたが、上手く事が運ぶかは博打に等しい。

緊張からか、胸がどきどきと鳴ってうるさかった。


高い酒の味も分からず、酔えもせず、陸謙は時を待ちながら林冲の話を聞く。


林冲は高植に怒り、上官の息子だからといって何の制裁も加えられない己に憤っていた。


無理もない。


林冲と張氏は本当に仲睦まじいおしどり夫婦だ。


その事を知っているので、これから起きることに対して心からの詫びを入れたい気持ちになる。


だが、今林冲に告げ口しては陸謙本人の命に関わるので出来なかった。


そろそろ中座した方がよい頃合いかという頃、厠に行くと言って林冲の方が席を立つ。


そのまま緊張した状態で林冲を待っていると、何やら部屋の外から林冲の声が聞こえた。


「何かあったのか!」


耳を澄ますと錦児のものらしき女性の声も聞こえる。

そのままドタドタと足音が去って行くと、陸謙は大きく息を吐いた。


上手くいったか?


陸謙は支払いを済ませて店の外に出ると、林冲の家に向かう。


弁解の為だ。

嘘を吐いた事、張氏を危険に晒させたことを詫びる為だ。張氏の身になってみれば、とてつもない恐怖だったに違いないのだから。


しかし途中で血相を変えた富安と出くわしてしまった。


「陸謙、逃げるぞ!林教頭にバレた!」


陸謙は冷静に、富安を諭すように、じっと眼を見る。


「バレてしまったものは仕方ありません。林教頭にも高植様にも、頭を下げる他ないでしょう。」


陸謙の言葉は、きっと富安には解せないだろう。

その証に、富安は汗をかきながら陸謙の肩を力一杯に掴んだ。


「バカなことをいうな!」


解してくれなくては陸謙とて困る。これ以上林冲と張氏の生活を脅かしたくはない。


陸謙は自身の肩を掴んでいる富安の手を解こうとしたが、力は奴の方が上のようだ。

それでも、陸謙は富安の説得を試みる。


「夫のいる女性に懸想しても、成就しないということですよ。高植様には別の女性を紹介して・・・」

「いいから来い!」


強引に腕を取られ、陸謙は高植の屋敷へと連れて行かれてしまう。


富安はなんとしてでも、張氏を高植に差し出すつもりらしい。ここまでの執着を富安が見せるとは計算外だった。


夫婦の危機は、まだ続く。


許せ・・・林冲


林冲を守るため、陸謙は富安に従うしかないのだった。


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