第9話 神、戦う。

 轟、と空気が鳴った。

 半ば幻の龍が起こした風は廃墟を駆け巡り、鵲梁じゃくりょう海玄かいげんは再び剣を振るってその風を弾き飛ばす。

 当たれば肌が切れる刃風は、神二柱にとっては平気だがただの人間である歌雲かうんにとっては危険極まりなかった。

 まだ辛うじて残っていた屋敷の壁の陰に歌雲を引っぱって飛び込み、鵲梁は海玄に尋ねた。

 

「海玄、お前、龍とはどうやって殺すものかわかるか?」

 

 視界一杯を埋めるような巨体である。

 神と言ったって、生前まみえたこともない天の生き物を前にしては踏みつぶされることも燃やされることもあり得た。

 幻霊の龍であるから本物より遥かに弱いだろうが、それでも放たれる威圧はただならぬものがあった。

 

「……顎の下の逆鱗だ。ひとつだけ逆さに生えた鱗を刺せば、だいたいの龍は弱る。龍の再現体ならば、滅することもできるだろう」

「あれ、言い伝えの類ではなかったのか」

 

 影からそっと顔を出して天を仰げば、龍はぐるぐると蛇体を巡らせそこにいた。

 六百年前、龍はああして現れてこの国を灰燼に帰したのだろう。

 その龍の幻が何故今このときに姿を現したか、わからんと鵲梁は内心頭を抱えていた。

 

 ───一番可能性があるのは、罠だろうなぁ。

 

 阿丈が昔を思い出した途端、見計らったかのように龍の幻が亡国の壁の中にいる者を閉じ込めるように現れたのだから。

 だが、この裏に黒幕がいたとしても今はそれより何より龍をどうにかしなければならなかった。

 

「逆鱗は言い伝えではない。だが、龍とて自身の弱点など承知済みだ」

「易々と刺させてくれるものなどおらんわけか。弓矢の類は?」

「弓神の加護を受けた人間か、弓神そのものを呼んで来い」


 剣しか持っていない神二柱では、難しい。

 空の龍から視線を逸らし、地上を眺めた鵲梁は顔をしかめる。龍の巨体へ吸い込まれるように、煤のような亡霊たちが消えていくのが目に入ったからだ。

 彼らの力が、龍の糧になっているのは明らかである。

 その上、取り込まれた彼らはもう二度と生まれ変わることもできないと言う。

 鵲梁の剣を持つ手に力が込められた。

 

「先に力の元を断つか」

「亡霊のことか?彼らをどうするつもりだ」

「ちょっと鎮めて来ようかと。歌雲たちを頼むぞ」

「は?」

 

 剣を背中の鞘に納めて、鵲梁は壁の影から飛び出す。離れたところまで一気に走り、そこで彼は剣を再び抜いて目の前に掲げた。

 二本の指を刀身にすっと滑らせて浅く指を切ると、こぼれた血で地面へ陣を描く。

 

 亡者の魂を集める招魂陣しょうこんじんである。

 神がその血で描いた陣は淡く光って地上を覆い尽くし、光に触れた土からはぶわりと黒い霞が次々立ち上がる。

 彼らは鰯の群れのように一斉に、鵲梁の方へと動き出す。

 小さな影も大きな影も、大中小さまざまの黒い影が鵲梁ひとりの下へ集まるのだ。

 砂糖の塊に集まる、黒蟻の群れが如き動きだった。

 

 龍の炎の中で訳もわからず死に、その死後までも土地と記憶に縛られ陣で囲い込まれて動くに動けぬ彼らにとって、人を護るための神は存在そのものが飢えた者の前に差し出された粥のようなもの。

 餓えを満たそうと縋る彼らを前に、鵲梁は刀身に通力を込めた。


「いいぞ、来い。苦しいのは、皆嫌だものな」


 助けてくれ助けてくれ、この終わらぬ苦しみをとめてくれ、護り神であるなら我々を救ってくれと、老若男女の嘆きの渦が鵲梁へ向かう。

 亡霊の黒が額に触れる寸前で、鵲梁は刀身に込めた力を解き放った。

 

 黄金色の光が、鵲梁の剣を中心にして円状に広がり、触れた亡霊たちの霞を打ち払っていく。

 光の粒に触れた彼らは刹那の間生前の姿を取り戻してから、光の珠へと変えていく。

 珠へ姿を変えた彼らは結界の網目をすり抜け、天へ昇って姿が見えなくなる。

 しかし、それで消えたのは黒い煤四割ほど。

 鵲梁の術が効いたのは、子どもと、子どもの母親、または母になりたい未練があった女の亡霊のみ。

 それだけだ。

 

 残りの六割の黒い影は、そのままに前へ進んで来た。

  

「ああもうまったく!見てられるかっ!」

 

 身構えた瞬間、鵲梁は突き飛ばされて尻餅をついていた。

 目の前に立ち塞がるのは、黒い髪と黒衣の少年。ただしその右手には長い巻物が握られ、左手には筆が握られていた。


「吸い込め、泉下名鑑せんかめいかん!」


 紫の鱗模様の巻物から墨の文字が浮き出て飛び出し、網となって黒い亡霊たちを一人も残さず掬い取る。

 十把一からげに黒い亡霊を集めた墨文字の網は巻物へ吸い込まれ、あっという間に消えた。


 鵲梁が何が起きたかを判断する間もなく、空っぽになった大地のその上で、龍が身を捩じって咆哮を上げた。

 内側から毒が破裂したかのようにのたうち、地面へ落ちてくる。その隙を見逃さず、海玄が飛んでいた。

 人の身ではありえない高さに跳躍した武神は、矢のように真っ直ぐ剣を構えて落ちる。

 両刃の剣がぎらりと光り、顎の下の鱗に深々と剣を通す。

 

 耳をつんざく龍の悲鳴が空気を切り裂いて風を起こし、鵲梁はまだ立ったままの歌雲の袖を引いて諸共地面に伏せる。

 

 砂を巻き上げ瓦礫を吹き飛ばす龍の最期の風が収まってようやく、鵲梁は身を起こした。

 空を縛める結界はそのままに、黒龍の姿だけが消えていた。

 まるで蜃気楼の街であったかのように、何もなくなっていたのだ。

 

 ぽかんと口を開けた鵲梁は、自分の手の下でうめき声が聞こえて我に返った。

 

「兄さん、兄さんちょっと、痛いんだけど」

「うわっすまん!」


 歌雲の背中を押さえつけて地面に伏せさせていた鵲梁は手を離す。

 埃を払って立ち上がった少年の手には、先ほどの巻物と筆がしっかり握られていた。


「少年、お前もしや冥府の者か?今のは、冥府に伝わる霊集めの術では?」

 

 自然疑うような口調になった鵲梁を前にして、歌雲は束の間動きを止める。

 巻物を一瞬で丸めて筆と共に懐へ入れた彼は、ぶらぶらと空の手を揺らした。

 

「ああ、そうだよ。僕は冥府の冥官だ。死者をあの世へ引き渡す冥府の官吏、黄泉の川向こうから来た者。びっくりした?」

「当ったり前だっ!お前、あそこまでの術を使って大丈夫なのか⁉」


 百人は超えていた亡霊たちを、歌雲は瞬く間に巻物一本へ吸い込んだのだ。

 相当力を使ったのではないかと、鵲梁は歌雲の額へ思わず手を当てた。


「よし、熱は無いか」

「……ないよ。僕は冥府の者なんだから、鬼に近い。熱なんて出さないさ」

「ああ。冥府の者は半鬼半人はんきはんじんだったか。……いやそれでも、気配がわかるはずなのだが」

「僕は特別なんだよ。冥王から遣わされたから、加護を頂いてる。子どもの気配に敏感なあなたでも見破れない隠形の加護さ」

「うへっ」

 

 半鬼半人とはすなわち、半分が死者、半分が生者となった者である。

 死にながら生き、生きながら死んでいる彼らは冥府の冥王の下におり、時に地上で人々から死神として畏れられる。

 寿命の近い者を見に行き、死してさ迷う魂を冥府へ呼び込む彼らが訪れた場所には、死人が出るのだ。当然彼らは死者を見透かす視鬼の瞳を持ち、彼らと言葉を交わすこともできる。

 

 黒衣を纏う半鬼半人は、秘密を知られて困り果てる人間の少女のように俯いていた。

 鵲梁はずかずか近寄り、少年の顔を覗き込む。

 ずっと浮かべていた余裕のある笑みがなくなった顔は、何故か幼く見えた。


「しかし、おかげで助かったぞ。俺は子どもと母親、母への未練があった女の鎮魂はどうにかできるが、それ以外はなぁ」

「……なのに霊を全部集めようとするだなんて、白兄さんは何を考えていたんだい?」

「まぁ、どうにか通力を振り絞ったらどうにかなるとは思っていたぞ。腐っても神だからな。だが本当に助かった。ありがとう、歌雲かうん


 人間でない冥府の者ならば、神が名を口にしても差し障りは無い。

 少年、少年と呼ぶのに味気なさを感じていた鵲梁は、盛大な笑顔で名を口にした。

 それに対して歌雲が応える前に、大音量が轟いた。


「おい!青義道人!最後のは何だ⁉」

「海玄か。いやさすが龍殺しの神が眷属。閃くような一撃だったな!」


 本来の龍と比べれば十分の一か、百分の一ほどの力しかないであろう亡霊の龍だが、それでも一撃のもとに倒したのはさすが龍への特攻を持つ龍殺しの武神の眷属神だからこそなせる業だった。

 鵲梁が衒いなく讃えれば海玄は僅かに表情を緩めるが、彼の後ろから顔を出した歌雲を見つけるやずかずかと近寄って来る。


「そいつだ!その人間!いや人間ではないな、冥府の鬼か?」

「鬼ではないぞ。冥府の官吏だ。歌雲のおかげで助かったのだから、礼を言うのが先ではないか?」


 ぐ、と海玄が奥歯を噛み締めた。

 手のひらを合わせて礼を取り、顔を上げる。その顔には困惑が貼りついていた。


「冥府の官吏だと?青義道人、このことを知っていたのか?」

「違うよ。白兄さんは何も知らない。僕のほうがこの人に用があったから、無理について来たのさ」

「俺に用?」


 なんぞ冥府の境を弄る真似をしただろうかと鵲梁は首をひねるが、歌雲は肩をすくめる。


「あとで話すさ。今は先にあの龍のお嬢様のとこへ戻ったほうがいいんじゃない?」


 彼が言ったとき、まさに無丈たちがいた廃墟の方から悲痛な叫びが聞こえる。

 「ああ!」という嘆きの声に、彼ら三人は駆けだして駆けつけるが、そのときにはあの母親の亡霊は光の粒となって天へ昇るところであった。

 死者の魂は天へ向かうように見えるが、天界へは辿り着かない。

 空まで上がってから、地上へ向かう魂の循環の環に入って地の底へ向かうのだ。

 地の底にある冥府まで下り、記憶をすべて失って別の生き物としてまた生まれてくる。

 魂はそうやって、天地を巡っているのだ。

 死んで、忘れて、また生まれる。その繰り返しだ。

 その輪から外れた者が、仙であり神なのだから。


 六百年この地に縛られ娘の名を唱え続けていた母親はこうして地から解き放たれ、あとには龍剣の少女が取り残される。

 悲痛な叫びをあげたのは、彼女だった。

 細い肩はぶるぶると震え、消えて行った光をくみ取ろうとするかのように手を伸ばしている。その指先で、光の最後のひとかけらが弾けて消え去って行った。


「無丈」


 その背中に、鵲梁は声をかける。

 ぴくりと一度震えてから、無丈は鵲梁たちへ向き直った。

 白い顔に泣いた痕のない少女は衣の裾を払って立ち上がる。

 剣のように背を伸ばして、彼女は廃墟の土を踏みしめて立った。


「ありがとうございます。皆さま。龍の幻霊を消し去り、この地に囚われていた人々を解放してくださったこと、実丈様に代わってお礼を申し上げます」

「いやいや待ってほしいよ、龍剣さん。白兄さんの力で四割の人たちは解放されたけど、残りは僕が封じたままだ。外へ出てから全員を魂送りしてやらなくちゃ」

「でも、これでこの国の人々はすべて旅立つことができるのです。ありがとうございます。白公子、陸公子、蕭公子」

 

 その口調は何かを押し殺しているようであり、鵲梁は地に目を落とした。

 母親の亡霊が旅立って行ったのは、鵲梁が通力で彼らの鎮魂を行ったからだ。

 無論無理やりに行ったのではなく、彼らに旅立ちたい、救われたいという想いがあってこその術だが、結果として母の亡霊は鵲梁の術によって消え、無丈は彼女を引き留めようとするかのような動きをしていた。


 きっと、彼女は亡霊を阿丈のところへ連れて行こうと考えていたのだろう。

 母と娘を、会わせてやりたかったのだ。


 それでも術を行使した張本人に向かって礼を言った無丈に、鵲梁は静かに礼を返した。

 

 今はもう、この亡国をさ迷う魂たちはどこにもいない。

 本当の空になった国の空を仰ぎ見、鵲梁は肩に必死でしがみついてくれていた夜果の頭を撫でた。


「夜果、働かせてすまぬが帰りも頼むぞ。帰ったら、俺の廟の供え物をいくらでもどれでも好きに持って行って構わんからな」


 鳴き声を上げて飛び立ったカササギは翼を広げて巨大化し、地面に降り立つ。その翼の根元に手を置いて、鵲梁は背後にいる神と剣と半鬼半人を見た。


「すまない。少し力を使いすぎた。夜果には頼んでおいたから、央山へ問題なく帰れるはず、だ───」


 そこまでを伝えた鵲梁の視界が、ぐらりと揺れる。

 

 通力の使い過ぎで見事に眼を回した子守りと縁結びの神は、ばたりと板のようにその場で倒れ伏したのだった。

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