第5話 神、人の子どもに振り回される。

 央山の麓に広がる森林の一角、木々が数本倒れてできた草地にぱちぱちと燃える焚火があった。

 銀砂をこぼしたような夜空の下、焚火を挟んで座る二の人影の片割れ、はく鵲梁じゃくりょうは、ゆっくりと視線を上げる。

 

「ん?」

 

 少年、しょう歌雲かうんは人好きのする整った顔に笑みを浮かべて首を傾げ、細い枝を折って焚火に放り込んだ。

 

「少年、俺は帰れと言ったよな?」

「だけど僕はうんとは言わなかった。またね、と言ったんだよ、白の兄さん」

「俺などを待つなよ。家まで送ってやるから場所を教えろ。夜の森にいては獣に食われても文句は言えんぞ」

「僕は旅の途中なのさ。家を出て随分経つから、兄さんの神の力があっても帰るのには一日二日じゃ済まない。そもそも、長い間さすらってるからどこにある家だったかも少しあやふやなくらいさ」

「お前……お前なぁ」

 

 茶目っ気たっぷりな歌雲を前に、言いたいことが喉の奥から百万語は溢れた鵲梁は結局何も言えずに俯き、白布で一部を束ねた長い髪を乱暴に手でかいた。

 

「それより、白の兄さんは平気だったの?天界へ行って随分早く戻ってきたけど、あの怖い武神にいじめられなかった?」

「いじめられてなどおらんわ。海玄かいげんはちゃんと俺が知りたいことを教えてくれた」

「ふぅん。だったら、また白橋観びゃくきょうかんへ戻るのかい?」

「……しばらくは戻れぬ。やるべきことができたから、北の星繍国せいしゅうこくへ行く」

「じゃあ、僕も連れて行ってよ」

「はぁ?」

 

 何を言っているのだと、思わず力が入った鵲梁の手の中で枝がぐしゃりと折り潰される。

 歌雲は怯むこともなく、軽い口調で続けた。

 

「星繡国は僕も知ってるよ。六百年前、阿丈龍公女が最後に滅ぼした国だ。民は皆龍の炎で焼き殺されて、未だ亡霊たちがさ迷い続けてる」

「ならばどうして……」

「僕の眼のこと、力のこと、兄さんは気づいてるでしょ。これはきっとあなたの役に立つよ」

「俺の役に立つ、立たないの話などしておらん。お前は人間で、子どもだ。危ない場に連れて行かぬ」

「だったらさ、兄さんが行くのは良いの?」

「は?」

「危ない場に、一人で行くことだよ。一人で行くより、二人で行くほうが心強いって思わない?僕を子どもと言うけど、兄さんは何歳なのかな」

「……あのな、俺は人間ではない。見た目はこうだがお前より何倍も長く生きているのだから、こういうのには慣れている。俺が怖いのは、やるべきことを為せなくなること。それだけだ」

「じゃあ尚更、僕を連れて行った方がいいと思うよ。僕の眼は死者の魂と話ができる。消えかけの魂の声も聞こえるし、視えるんだ」

 

 それは確かに、青義道人・白鵲梁には無い力だった。

 鵲梁は神だから死者の姿もある程度は視え、声も聞ける。

 だが、彼は近づくだけで、漏れている神の気配によってか弱い亡霊を消し去ってしまうことも考えられた。

 そこへ来て、人間である歌雲は亡霊たちを消し去ることはまずない。

 鵲梁の隠形の術を見破り無丈の声も聞き分けられていたのだから、視鬼しきの能力は極めて高く、武神の威圧に怯まなかったことから亡霊に呑まれない胆力もあるだろう。

 子どもを守る神である鵲梁が側にいれば、亡霊の陰気によって体を弱めることも恐らくない。

 

 鵲梁に難しいことが、歌雲にはできるのだ。

 

 鵲梁はそこで、自分がこの少年を星繍国へ連れて行ける理由を探していることに気がついた。

 自分は、ほんの僅かしか会っていない人間の少年と、まだ離れたくないと思っている。

 それは、鵲梁にとっては雷に撃たれたかのような衝撃だった。


 何故そう思ってしまうのかを己の心に問いかけて、鵲梁はすぐに答えを見つける。

 青義道人ではなく、白鵲梁の帰りを待っていたと言われることも、あなたを助けたいと言われることももう随分長い間なかった。

 

 だから嬉しいと思ってしまったのだ。

 幼すぎる想いだと、鵲梁は今すぐ白橋観の奥へ引きこもって頭を抱えて丸まりたくなった。


 そんなところへ引きこもっても、引きずり出しに来る者などいないのだけれども、そうでもしなければ耐えられそうになかった。

 食べ物をくれた人間に懐く野良犬よりも、単純すぎる。

 

 こうなれば、もう鵲を呼んで強制的に人里へ運んでしまおうかと鵲梁が片手を上げたときだ。

 

「青義道人、何をこんなところでぐずぐずしている」

 

 鵲梁の背後の林から、眉にしわを寄せた青年が現れた。

 鎧を纏って剣を腰に佩いた、りく海玄かいげんである。

 今回は龍殺しの神旗を掲げていない彼は焚火の一角に腰を下ろすと、ぎろりと鵲梁を睨んだ。

 

「何故ここに来た、などと尋ねるなよ。私は天賀てんが将軍から貴殿の補佐をするように言われたのだ」

「ほ?」

「血を流さずに龍を鎮められると言うならば、任せてみるのも手だと天賀将軍は仰られた。だが、龍を鎮めに星繍国の跡地へ向かったと李文神に聞いたのに、まだここにいたのか?人間の子ども一人に関わり合って何をしている。視鬼の瞳で手を貸すと言うならば、やらせればいい」

「海玄!」

「貴殿は子の守護を司るのだから、そいつ一人など守れるだろう。何故わざわざ納得させて家に帰そうとしているのだ」

 

 要するに、さっさと話を付けて星繍国へ向かうか、さもなくば放って行けと海玄は言っている。

 天界から静かに降りてきたらしい武神の青年はしかめっ面で、今すぐに龍を殺して場を治めたいと額に書いてあるようだった。

 

「共に行きたいと願う人間の願いなど、叶えてやればいい。それに貴殿は、子を守護を司る神だ。守るべき対象がいるとき、より強い力を振るうことができる。ならば、敢えて守るべき子どもを連れているほうが力を出せるだろう。先ほど私を凌いだ武の力も、そうやって手に入れていたのではないのか?」

「……お前、もう見破ったのか」

 

 当然だとばかりに海玄は鼻を鳴らした。

 阿丈を庇って海玄と剣で戦った際、鵲梁は正面から武神に対抗できた。

 あれは何も、鵲梁の戦う力が海玄のそれを上回っているというのではない。

 ここが鵲梁の信仰が盛んな央山州であることも理由の一つだが、もう一つあった。

 歌雲を海玄の威圧から庇い、守る形で戦っていたことである。

 

 神は、自らが司る役目や信仰の源と逸話に沿った行動を取ればとるほどに、より強い力を振るうことができる。

 

 青義道人・白鵲梁はといえば、子の守護と縁結び、子授けを司っている。

 子どもを守る形で戦うならば、青義道人は守り切れるだけの力を振るうことができるのである。

 今回の場合、少年である歌雲を守る形で海玄と戦ったからこそ、鵲梁はどうにかあしらえたわけだが、無論この信仰心を核にした特性にも穴はあった。

 神は自らの役目と反する行いをすれば力が削がれ、それでも実行し続ければ神の資格を失う可能性もある。

 

 鵲梁の場合、彼は子を害することができない。

 場合によっては母親や父親、人の親になろうとしている者たちを含めて、鵲梁は人を傷つけることができないのだ。

 

 どうやら、海玄はそのからくりを早々見破ったようだった。

 彼が言うように、歌雲が側にいたほうが鵲梁の力が増すのは間違いない。

 間違いないが、だからと言って連れて行くと頷くのは躊躇われた。

 鵲梁の腰で、ぶるぶると無丈が震えた。

 

『白公子が先ほど私に、少年のお陰で戦えたのだと仰られたのはそういう理由があったのですか』

 

 無丈の声もしっかりと聞き拾った歌雲は、目を細める。

 

「そうだったんだ。それは良かった。僕がいると白の兄さんは力が強くなるってことだよね」

「……そうだ。神は条件に縛られるからな」

「だったらなおさら僕は行きたい。ここにいる人間は、僕だけだろう?ねぇ、頼むよ。僕はこの眼を使って誰かの役に立ってみたいんだ。今までこの眼を持っててよかったと思えたことなんて、一度もなかった。僕のこの願いを、あなたが叶えてくれないかな?」

 

 うぐ、と鵲梁の喉の奥で空気が潰れた。子どもと認識している相手からの祈りには、弱い。純粋な想いが込められていればいるほど、弱くなる。

 歌雲の願いには、嘘偽りがなかったのだ。

 

 視鬼の瞳を持つ者は死者の魂を見透かし、彼らの声を聞く。

 その瞳を持たない人々からすれば、視鬼人しきじんは何もない虚空へ視線を向け、聞こえない声と対話する訳の分からぬ人々だ。

 実際、我が子が視鬼人に生まれたと知って動揺し、白橋観へ駈け込んで来た者はいる。

 視鬼眼の子どもはこの二百年で十人いるかいないかというほどだったが、歌雲の能力は彼らの誰よりも高いだろう。

 

 幼い視鬼の子は、時として亡霊の言葉と生者の言葉の区別がつかず、あの世へ引きずられて落ちてしまう。

 成長しても多くは周囲から変わり者だと虐げられて、大人になってから自らの瞳を抉り取りたいと言う者すらいた。

 

 持って生まれた自分自身の一部を、嫌い抜いて成長していくのはつらいことだ。


 遠い昔に出会った、人と違う瞳を持っていた一人の子どもの面影が歌雲に重なって過って、鵲梁は靴で足元の枝を踏みにじった。

 ぱきりと音がして枝が折れ、鵲梁は片手で目を覆う。

 そのまま数秒考えこみ、彼は歌雲を今一度見た。

 

「わかった。お前の力を俺に貸せ。ただし、星繍国へ行ったときは必ず俺の言うことを聞くんだぞ」

「ありがとう!もちろんだよ!」

「お前、俺の言ったことすべて無視しておいて、よくも言う……」

 

 ついて来るなと言ったのについて来て、帰れと言ったのに帰らなかった。

 挙げ句、闇の森で焚火をつくって鵲梁が戻るのを待ち、さらについて来ると言って聞かない。

 誰かのために自分の力を使ってみたいと歌雲は言い、言い切った彼に邪心のある雰囲気はなかったが、鵲梁にはどうも彼にはそれ以外の目的もある気がしてならなかった。

 非常に強力な視鬼の眼を持った家出をした子どもで、屠龍神殿の陸海玄相手に喧嘩を売るぐらいには熱心な青義道人の信者。

 要するに、鵲梁は歌雲について何も知らないに等しいわけだ。

 目的など見抜けるわけもなかったし、邪心がないなら構わない。

 彼が何か訳のわからぬことを内心秘めていても、その思惑ごと守ろうとするのが青義道人という神であるからだ。

 よし、と鵲梁は心を決めて頷いた。

 

「それでは、明日の朝星繍国へ向けて出発する。海玄……もう、海玄と呼んでいいか?」

「いい。正直、『殿』をつけて呼ばれるのは慣れていない」

「そうだったか。では海玄、お前も星繍国へ来るのだろう?」

「そのために来たと言っただろう。異論があるのか?」

「いや、まったく。強い武神が来るのは心強い。星繍国の地域に俺の信仰はそう流行っておらんが、龍を屠った陸天賀将軍は熱心に崇められているようだったからな」

 

 含みなく返した鵲梁に何を思ったか、海玄の謹厳な表情はわずかに綻び、誤魔化すように彼は咳払いをしてから続けた。


「向かうのはいいが、貴殿は千里を飛ぶ術は持っているのか?星繍国の土地は遥かに北だぞ」

「一瞬で飛ぶのは無理だが、俺の遣いである鵲に運んでもらう。明日朝立てば、昼前にはつくさ」

「朝になってから行くの?僕は眠くないから今すぐでも旅立てるよ」

「駄目だ。今晩はもう休む」

 

 言って、鵲梁は焚火に土をかけて消し、立ち上がってから海玄と歌雲へ手を差し出した。


「海玄、少年、手を貸せ。握れ」

 

 海玄は訝し気に渋々と、歌雲は楽し気に手を伸ばして鵲梁の手を握る。

 二人の手をそれぞれの手で握ったまま、鵲梁は爪先で地面をとん、と蹴る。

 その仕草だけで、三人は次の刹那には白橋観の門前へ放り出されていた。

 信仰盛んな央山州の中でのみ、鵲梁は自分の廟へ一瞬にして帰ることができる。

 夜も更ければさすがに参拝客は皆帰ったらしく、青義道人を祀る廟は静かで、常夜灯の灯りだけがささやかに揺れている。

 鵲梁は二人の手を離し、閉じられていた門を両手で押し開けた。

 

「今晩はここで眠ろう。部屋は今から案内する」

「ここは貴殿の廟か?」

「普段はここにいる。人間も良く来るが、よほど勘の良い人間でない限り俺たちのことは感じ取れないさ」

「そこの視鬼人にはばれているだろう。大丈夫なのか?」

「……例外もいるだけさ」

 

 鵲梁が低い声で応えると、その顔を歌雲は下から覗き込んだ。

 

「そうだよ。僕の眼が強いだけ。明日、僕を置いて旅立つのは無しだよ、白の兄さん」

「神に念押しするとは、お前は怖いもの無しか」

 

 軽く笑って、鵲梁は海玄と歌雲を自らの廟の中へいざなったのであった。

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