第6話 神、鳥の背に乗り空を行く。
その日の夜、
夢の中で目を開けば、そこには見慣れた少女が一人卓に付いており、頬杖をついてこちらを見ている。
雪のような白い髪に金の冠をつけ、緋色と白の衣を纏う吊り目の美しい少女こそが、央山の龍神、
「阿丈か、そろそろ呼ばれるかと思っていたところだ」
「相変わらず目敏いわね」
「お前、無丈の中からずっと俺たちを見ているだろう。ところで、あいつとお前の人格は本当に別なのか?」
「ええ。あの子はあたしを殺すための剣よ。人格を共有させたら、大変なことになるじゃない。記憶なんかも少し分けたけど、あの性格はあの子がつくったものよ。あたしの娘に近いわ」
「そうか。なれば、娘の中で話を聞いていたお前はどう思う?お前は想い人の
少女は、静かに鵲梁を見つめ返した。
その瞳の中に諦観が巣くっているのを見て鵲梁はおやと片眉を上げた。
「ねぇ、白鵲梁。あたしの答えに意味ってあるの?天下の人間は皆、あたしが六百年前に国を燃やした龍だって言ってるわ。悪いことをしたから封印された当然の悪龍だって」
「俺は、殺したか殺していないかの否定か肯定かで尋ねているのだが。お前は違うと言うのか?」
「……正直に言うわ。あたし、覚えていないの」
「ん?」
「ふざけるなって話でしょうけど、あたし、覚えてないのよ。あたしは気がついたら龍で、央山の中に封じられて僅かしか外へ行けなかった。それより前の記憶がなくて、あたしは山に封じられてから生まれたようなものよ。央山では五百年くらい過ごしてるから、六百年前は知らないの」
信じるのかどうかと言わんばかりの挑むような強い目で阿丈は鵲梁を見つめ、鵲梁は目を瞬いた。
「困ったな。お前は弁明も何もできないではないか」
「そう。皆あたしは央山に封じられて当然の悪龍だったと言うけど、あたしには覚えがない。でも、あたしが龍であるのは事実。荒ぶる山神にして、滅国の悪龍なんだから」
諦観の目でこちらを見ていたのはそれが理由かと、鵲梁は納得した。
納得したが、愉快とは到底思えない。
誰であろうとも、投げ捨てたような諦めの感情は鵲梁には苦手だった。
「でも、あんたはあたしを糾弾しない。そのこと、あたしは感謝してる。すっごくね」
「無丈も同じだと思うが?」
「あの子はあたしから生まれたから、あたしの影響を受けてるの。だけどあんたはそうじゃないでしょ。あたしのせいでなりたくもないものになった。恨んでたって当たり前なのに、あんたはそうしなかった。しないまま二百年も過ぎて、今もあたしを助けようとしてくれてる。感謝してるのよ、本当に!」
「しておるなら、地面を揺らすのをやめればいいのではないか?」
ばん、と阿丈は卓を両手で叩いた。
「できるならとっくにやっているわ!あたしは龍だけど、その力を完璧には扱えない!感情が高ぶって抑えられなくなると、地面が揺れてしまうのよ!人間だって、自分の感情を抑えられない時があるでしょ?」
「……うむ、あるな。誰かがいてくれぬと押しつぶされそうなときが確かにある。お前にとってはそれが薛不寒で、彼が居なければ自分自身を抑えられぬから大地を揺らせてしまう。大地の揺れを止めるためには、薛不寒によってお前の感情が収まらなければならないと」
「そう。あたしはあいつじゃないと駄目なの。あいつに側にいてほしいの。あんたや無丈があたしにいくら優しくしてくれても、あたしを思いやってくれていても、あたしの中には薛不寒っていう人間じゃないと埋められない穴があってどうしようもない。……我がままで、情けないって思う?」
「いや」
ゆるゆると、鵲梁はかぶりを振った。
澄み切った黒だった阿丈の瞳は、いつのまにか光沢のある黄金色に代わっていた。
龍の瞳、龍の力が溢れる瞳を覗き込み、鵲梁は言い放つ。
「俺はお前ほど情熱的な性格ではないし、そうまで深く一人の人間を想ったこともない。が、衝動を抑えられなくて苦しいと言うのはわかる。お前は薛不寒が戻ってこなくなってからの何百年かを、ずっと耐えてきた。耐えて、自分の寂しさと怒りで地上を壊さぬよう努めて来た。頑張って来たお前を、俺はえらいと思う」
とはいえ、と鵲梁は苦笑した。
「悪龍であった自覚や記憶がまったくない話はもっと早く俺に言ってくれてもよかったのではないか?巷の悪龍の伝説とお前自身がかけ離れているから、俺は混乱していたのだぞ。薛不寒というお前の特別な人の話も、つい昨日知ったばかりだ」
「……信じてもらえないんじゃないかって、怖かったのよ。言おうとは思ってたけど、あんたや無丈に嘘つき呼ばわりされたらどうしようって思ってずっと足踏みしてたの」
しおらし気に肩を落とした阿丈を前に調子が狂い、鵲梁は呟いた。
「思っていたのだが、お前随分俺に肩入れしているな」
「あんたは、自分があたしにしてきたことを顧みなさいよ。動けるようになってからずっとあたしが泣いたら宥めに来て、怒ったらあやしにきて、喚いたら歌を歌いに来たでしょ。不寒みたいに、あたしを愛してるわけでもないのに。慈しみだけで。そこまでされて何とも思わないなんて、あり得ないわよ」
「……そう聞かされると、頷くしかないな。俺は、変なやつだ」
「そうよ!あんたはね、自分がしてることに自覚が薄いの。大方、あたしに妹でも重なったんじゃないかしら。悪龍に妹を重ね合わせるなんて、おかしなやつよね」
「そう言われると……うむ、何も言えぬ」
妹たちと、阿丈が重なっていたのは本当だ。
どんな我がままでも、ああまたかと宥めに行けたし、それが普通と思っていた。
だが確かに言われてみれば、癇癪ひとつで山を揺らし火を吹かせる龍と、もう何百年も前に永遠に別れた妹たちを重ねて過ごすなどおかしな話だった。
「とにかく、ね。ありがとう、白鵲梁。あたしはあたし自身の力を抑えてなきゃいけないから、手助けができない。でも、無丈の中でずっと見てるから」
「そうか。何があっても、耐えられると言えるか?」
「耐えてみせるわよ。少なくともあんたが帰って来て、あたしを無丈で殺してくれるまでは耐える。そうじゃなきゃ、大地が揺れて割れて、央山が破裂して大変なことになっちゃうわよ。あたし、できるだけ人は殺したくないの。あんた以外の神どもは、どうなろうが知ったこっちゃないけどね」
軽薄にも取れる口調で、阿丈の中にある薛不寒を失った穴の大きさを感じさせられて鵲梁は唸った。
本人ですらどうしようもないほどに、彼女は激しく失った者を求めている。
瞳の強さが、炎でも秘めているのかと思うほどに激しく力強い。
龍が恋人に向ける感情を侮るなと林器は口を酸っぱくして言っていたが、その通りらしい。
阿丈は、月が陰るようにほほ笑んだ。
「あたしは、不寒を覚えてる。あいつ、あたしを見てずっと会いたかった人に会えたみたいだって言ったの。人間のくせに、皆が悪いやつだって言うあたしにそういうことを言えるやつなの。馬鹿なのよ」
「……」
「あたしは絶対にあいつを殺していないし、あいつは霊魂でもなかった。死んでなんかいなかったのよ。触れてくれたとき、ちゃんと生きてて暖かかったもの。あたしはあの温もりを絶対に間違えないし、忘れないの」
炯々と光る黄金の瞳で、阿丈は静かに言い切った。
龍の瞳を輝かせるのが、愛か執着か寂しさか怒りか、哀しみなのか、鵲梁には相応しい言葉が見つからない。
唐突に、寂しいという気持ちが湧いて来る。
二百年も生きていて、鵲梁には阿丈が瞳にはらんだ熱に名をつけられなかったし、そんな感情を持ったこともない。
誰かに会いたいと焼け付くように最後に思ったのはいつだったろうかと鵲梁は考えて、思い出せなくなっている自分に気がついた。
───まぁ、それはそれとして。
今は、兎にも角にも亡霊たちの話を紐解かなければならない。
彼らが何を語るのか、語ったところで薛不寒を見つけられるのかもわからないのだが、まだ猶予があるなら諦められない。
我がままだが情熱的なこの龍を、誰が殺したいと思うのだろうか。
鵲梁は、椅子を引いて卓から立ち上がった。
「もう行くの?」
「ああ。明日は早いからな」
「人間みたいなこと言うわね。あたしたちに眠りなんて関係ないのに」
「今回は人の子どもがいるからなぁ」
「……ああ、あの生意気な小僧ね。あたしは好かないけど、あんたがあいつといるのはいいんじゃないかと思うわよ。あんたが助けたい人間じゃなくて、あんたを助けたい人間が現れるの、随分久しぶりなことだもの。……ありがとうね、白鵲梁。あたしはここで、待っているから」
ひらひらりと、阿丈が手を振る。
それきりで、龍の公女の夢は閉じたのだった。
■■■
青い空を、黒と白の羽を持つ鳥が飛ぶ。
その上には、三つの人影があった。
『
「元々の人間の俺に、そんな力はさっぱりなかったのだがなぁ」
無丈に応えながら、鵲梁は片手でぽんぽんと黒い鳥の首筋を叩いた。
石をこすり合わせたような鳴き声を上げるのは、
羽の上に乗って下界を眺めながら、海玄が呟く。
「こうまで来れば最早、鳥の神と名乗ってもいいのではないか?」
「俺の力は鵲にしか効かぬ。鵲に言うことを聞いてもらうこの力だって、だいぶ後になってから気がついたしなぁ」
「そうなの?」
「そうだ。俺は縁結びの神になって、鵲は元々恋仲の者を結ぶ瑞鳥だった。で、俺の名に鵲の字が入っていたからと二つが結びあわされて、俺の遣いは鵲となったのだ」
「僕は、人間だった青義道人は随分強い道士だったって聞いてたんだけど」
「違う違う。剣術にしか取り柄がない道士だった。妹弟子のほうがよほど優秀さ」
手をぱたぱたと振り、鵲梁は被った編み笠を少し持ち上げて地平線を見透かした。
明け方に白橋観を飛び立った彼らは、鵲梁が呼び出した巨大なカササギの背に乗って星繍国へ向かっていた。
鳥の名は、【
百年を生きて化ける力を身に着けたカササギの精怪で、長い黒の尾羽と、頭のてっぺんに生えた一筋の白い羽が特徴である。
普段は鵲梁の遣いとして空を飛び回っている彼女は、背中に乗せてくれと言う久々の鵲梁の願いに上機嫌で応え、神と人間と剣の一行を運んでいた。
翼の一打ちは力強く、星繍国がかつてあった地までは半分と言ったところにまで進んでいる。
「歌雲、ほら」
鵲梁は自身の廟にあった供物から持ってきた包子を、歌雲にぽんと放り投げる。
受け取った歌雲は、まだ温もりが残っている包子に齧りつき、おいしいと声を上げた。
「白の兄さんはいらないの?」
「腹は減らんからな。海玄と無丈は……」
「要らん」
『私は剣ですから』
「……だ、そうだからお前が全部食べろ。俺の廟の供物は、俺がこうやってよく盗っていくから減ったところで誰も気にせん」
「あなたに捧げられたものをあなたが持って行くのは、盗みとは言わないんじゃないかな」
「それもそうか」
亡国の跡地へ向かう鳥の上で、緩やかな時間が流れる。
夜果の背に乗っている間は風からも寒さからも守られるため、かなりの速さで空を飛んでいても振り落とされることはない。
見慣れた央山はとうに後ろへ置き去りになり、行く手には黄色い土の大地が広がっていた。
央山や大河の周囲は緑が多く街も多いが、この大陸の大部分はまだ背の低い草しか生えぬ荒れた草の海だった。
転々と見える草原の獣の群れを見下ろす鵲梁の背に、剣を膝の上に乗せた海玄が声をかけた。
「貴殿は昨日文天殿へ行ったそうだが、何の情報を仕入れて星繍国へ行くと言い出したんだ?」
「あぁ、今の阿丈の荒れ狂いは、昔に恋人に去られたことが原因なのさ。だから、俺はそいつを探して天へ行った。ところがこれがなぁ、六百年前に星繍国で死んでいたと言われたのだ」
『ですが、私が阿丈様から与えられている記憶によれば
「
「……六百年前の亡霊に話が通じるか?」
「さぁな。だが、俺にやれることはやる。やれることすべてを、手当たり次第に試すしかないだろうな」
夜華の滑らかな黒い羽を撫でながら、鵲梁は目を細めた。
先の方に、不自然に赤茶けた土地が見える。
かつて星繡国を囲んでいたと思しい城壁の残骸も見止められて、鵲梁は唾を飲み込んだ。
崩れた城壁に囲まれたその土地だけが、ぽっかりと空いている。空を飛ぶ鳥は迂回し、獣の声が何ひとつ聞こえない。
不自然なまでに、その城壁の周辺と中だけが死んでいた。
龍の炎に焼かれた星繡国は亡霊たちが今もさ迷い、草木は生えず鳥も飛ばず、獣も生まれぬ呪われた土地となったと言う。
夜果が、到着を告げるように一声甲高く鳴いた。
「星繡国……元星繡国はあそこか。ここから見える分には瘴気は感じぬが」
「土地の神々が陣を敷いて封じているのだ」
「そうだね。白兄さん、薄くだけど結界が張られてるよ。地面を歩いては入れないようになってるんじゃないかな」
歌雲の言葉に大地を注視した鵲梁は目を瞬いた。
少年の言う通り、星繡国を囲むように金色の網が半球状に張られている。
結界を張りはするものの、中にいる亡霊たちを解き放とうと言うものはいなかったらしい。
海玄も片膝立てて地上を見下ろし、首を傾げる。
「どうやって中に入るつもりだ?」
「ン?空から直接だが?」
「は?」
聞き間違いなのかと声を上げた海玄をそのままにして、鵲梁は片手を上げた。
「歌雲、海玄、怖ければ羽を掴んでおけ。夜果は絶対に背に乗せた者を落とさぬから、必要ないがな」
「わかった。でも、僕は思いっきりやって平気だよ」
「待て、貴殿、
鵲梁は、手を刃のように勢いよく振り下ろす。
瞬間、羽を畳んだカササギは真っ直ぐ下へと石のように落ちる。
視界ががくんと下がり、海玄の声は途中で途切れて悲鳴へ変わった。
錐もみ回転しながら、結界の網目をすり抜けた夜果は星繍国の上空で翼を広げて落下の速度を抑え、ゆっくりと大地に鉤爪を下ろす。
夜果の翼を滑り降りて地面に降り立った鵲梁は、夜果の嘴に手を伸ばしてかいてやる。
数珠玉のような黒い瞳をきらめかせて満足げに鳴いた夜果が翼で地面を一打ちするとその体は縮み、普通のカササギの大きさになった。
当然、その背中にいた海玄と歌雲は放り出される。
が、二人とも危なげなく地面に着地し、鵲梁はほっと息をついて海玄はぎろりと彼をねめつけた。
「青義道人っ!一言声をかけてからやれ!いきなり落下するなど何を考えているっ!」
「武神様はどうしてそんなに怒るんだい?僕はおもしろかったけど」
「少年は肝が据わっているな。大丈夫だぞ、海玄。夜果は賢いし力があるからな」
そうだそうだとばかりに、小さくなった夜果が鵲梁の肩の上で鳴く。
まだ何か言いたげな海玄は、平気な顔の鵲梁と歌雲と夜果を見て諦めたように肩をすくめて天を仰いだ。
「……それで、ここがあの星繡国というわけか」
「うむ、では行こうか」
鵲梁は背後をふり返る。
そこには、半分が焼け焦げ崩れ落ちた門がある。
龍の炎で焼かれて消えた亡国、星繍国は静かに彼らを出迎えたのだった。
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