第4話 神、過去を知って驚愕す。

 文神・林器りんきの【文天殿ぶんてんでん】の中は、さらにいくつかの建物に分かれていた。

 高い壁で囲われた文天殿は文神たちが集う城であり、代々の文神筆頭に任じられた神が天帝からここを与えられる。

 今の筆頭神は林器であり、大体鵲梁が神になったのと同じころに林器は文神たちの筆頭になったそうだ。

 

 最も立派な奥の宮殿が林器が普段使う執務のためのもので、他の建物は他の文神たちの宮殿や、書物が収められた倉である。

 文神は、天界にまで届く信者からの嘆願を処理する神々も兼ねているから、敷地内では文官の衣を着た彼らは足早に行き交っていた。

 その中を歩きながら、鵲梁は林器に尋ねる。

 

「お前、抜け出しているようだがいいのか?」

「いい。最近は戦や飢饉の願いよりも、各地の鬼や怪異をどうにかしてくれという話が多い。それくらいならば、神が直接介入せずとも地上の道士にお告げを下す形で任せられるからな。優秀な人間を見つけることもできるし」

「それは、今の地上は平和だと言っていいのか?」

「ああ、今天下を掌握している国の皇帝が優秀だからな。あと七十九年もすれば地上の火山が一つ爆発して灰が降るから、その後は荒れるだろうが。……戦の時代はいつも武神どもが騒ぐから大変なんだ。皆、自分の信仰が篤いほうを勝たせようとする」

「祈りを捧げたのに負け戦が続けば、信者は減るからなぁ。やれやれ、どっちが使われているのやら」

 

 神だからと言って、すべてが上手く行くわけもない。

 全知全能は、神にも為せないことなのだ。

 特に武神には人間上がりが多く、殊更その辺りの神同士の諍いは熾烈になりがちだった。

 地上の傑物が偉業を成し遂げれば神に至るというこの仕組みは、元は混沌からこの天と地を創り上げた、最古の神々が編んだ一種の術法である。

 古き彼らはほぼすべてこの天地にとけて一体となり、形を失っているが、遺された仕組みだけが機能して、神の数は増えたり減ったりしている。

 太古の神々は自分たちもいずれ形を保てなくなることを見越して、神という存在そのものが消えぬ術を天地に組み込んだのである。

  

 詰まる所、完全な神など存在しない。

 

 天地に術を施した古い強力な神さえも、永遠に存在し続けることはできないように。

 欠けの無い神は存在していないのに、人々の祈りは現実を変える力を神々に与え、一人一人の人間は神に及ばなくとも彼らの束ねられた祈りは神を変えることすらある。

 そうやって、世界は形を保ち続けているのだ。

  

 森羅万象の中に敷かれた決まりごとは、深く考えれば考えるだけ頭が痛くなると鵲梁じゃくりょうは眉の上をかいた。

 と、じっと見つめてくる林器の視線を感じて鵲梁は首を傾げる。

 幼い子どもの形の神は、鵲梁が帯に無理に押し込んで吊るした無丈を見ていた。

  

「鵲梁、その龍剣に鞘はないのか?剥き出しだとすぐに龍の剣だと知られるぞ」

「どこかで調達しようと思っていたのだがな、龍殺しが降りてきたり色々あって間に合っておらん。まぁ地上に戻ったら武器屋を尋ねてどうにかするさ」

「地上の品でいいのか?天界には職人の神もいるだろうが」

「対価が怖いので行く気がない。ツテもないしな」

「貧乏性すぎないか、お前。立派な剣が嘆くぞ」

『私は気にしておりません。白公子が対価を要求されるほうが心苦しいのです』

 

 無丈むじょうの言葉に、またもふんと鼻を鳴らした林器が鵲梁たちを導いたのは、門を背にしたとき右手に建っている倉である。

 中に入った鵲梁は、おやと首を傾げる。

 中の広さと、外から見た大きさが釣り合っていなかったのだ。見た目よりも遥かに広い。

 天井は見えないほどに高く、無数の棚にはぎっしりと書物や巻物、紐で繋げられた竹簡や木簡の束が隙間なく詰め込まれている。

 通路は狭く、奥行きもどこまであるかわからない。

 それどころか、鵲梁が見ている間にも倉は拡張し続けているように感じられた。

 屋根や床はみしみしと音を立てながら伸び、空間を拡張して行っている。

 

「……これは、一冊で一人の人間の記録になっているのか?」

「生まれてすぐ死んだ者はその限りではないが、大体はそうだ。人間以外の記録は別の倉で集めていて、この倉は人の記録専用だ。情報の元は、冥府から上がって来る死者の記憶たちだな。我々の分身体たちが、奥で今も執筆を続けているからほぼ自動的に記録は増えていく寸法さ。我が神となる以前から、文神たちが代々続けてきた仕事だ。今は我が責任者を引き継いでいるがな」

「分身まで働かせて書を書いているのか。しかも何代にも渡って」

「お前こそ似たようなものだろうが。お前、自分の遣いの鵲たちにどこで何をやらせている?あいつらを使えば、人探しなどすぐ済むのではないか?」

「あやつらにはあやつらで、やるべき仕事があるのだよ」

 

 青義道人せいぎどうじんはよく鵲を伴った姿で描かれるが、信者たちは彼が連れている鵲が男女の仲を取り持つ遣いだと信じている。

 元々鵲は、天帝によって川の両岸に引き離された恋人たちを年に一度繋ぐ橋となる生き物であり、瑞鳥だった。

 昔からのその言い伝えに鵲の字を名に持つ青義道人せいぎどうじん白鵲梁はくじゃくりょうの信仰がいつの間にか結びつけられて、鵲梁は神になってから鵲を使役する力を身に着けたのだ。

 人間だったころの鵲梁は、生き物を使役する術はまったく扱えなかったのにも関わらず、である。

 いざとなれば千羽単位で鵲を操れる鵲梁だが、今その鵲は一羽も身近にいなかった。

 

 ぴゅぅぴゅぅ口笛を吹いて誤魔化す鵲梁を前に額に手を当て、林器は腰に差している払子ほっすに手をかけた。

  

「もういい、わかった。お前たちが探している人間の名を早く教えろ。名を教えれば、すぐさま我がそやつの記録を呼び寄せてやる」

「ほぉ、やはり文神筆頭は凄い力を持っているなぁ」

「御託は良いから早く教えろ。名前だぞ、名前」

せつだ。せつ 不寒ふかんという。道士だと聞いたが、合っているよな、無丈?」

『はい。薛公子です。彼の見た目の記憶は私にも分け与えられていますが、必要でしょうか』

「不要だ。名前さえわかればい」

 

 林器は帯に挟んだ純白の払子を抜き出し、くるりと頭上で振り回す。

 軌跡に合わせて巻き起こった翡翠色の風は、真っ直ぐに書庫の奥へと吹き込んで行った。

 払子で自分の肩を軽く叩き、林器は首を捩じって鵲梁を見上げた。

 

「驚いたか?これが我の法具だ。風を起こす力があり、この倉から何かを取り出すときの必需品だ。そら、もう来たぞ」

 

 通路の奥の闇から、翡翠色の風が巻物を一本持って戻って来る。

 風の手から巻物を受け取った林器は、得意げに鼻の穴を膨らませてざっと中を改める。

 微かに顔色を変えてから、彼はそれを鵲梁に差し出した。

 

「これだ。薛不寒の一生を記した書だな。だが……」

「ん、どうした?」

「この者、星繍国せいしゅうこくの出身だ。星繍国のは手前にまとめてある記録だったから、これほど早く見つけられたんだ」

「……ん?」

「歴史に学べよ、馬鹿者。繍国は六百年前、龍公女の阿丈が最後に滅ぼした国だ」

「なんだと?」

「しかも薛不寒はその際、ぞ。龍剣、お前の主は一体いつ、こいつと恋に落ちたと言うのだ?」

 

 鵲梁の手の中で、無丈は息を吞んだように硬直した。彼女にも答えられないのだ。

 しんしんと書物を積み上げ続ける巨大な書庫の入り口で、二柱の神と一振りの剣の間に沈黙が降りた。

 


■■■



 呆然自失してしまったのか黙った無丈を持って、鵲梁は林器の執務殿に入れてもらった。

 林器はそこで巻物を広げ、今一度目を通す。

 彼の頭越しに中を覗き込んだ鵲梁は、そこに書かれている内容を見下ろして眉をひそめた。

 

 確かにそこには、星繍国に生まれた薛不寒なる人間が阿丈龍公女による滅国で死亡したと記されていたのだ。

 

 阿丈はある春の日に、星繍国の上空に現れて炎を吹き、国を灰燼に帰した。

 星繍国は小さな国で、阿丈が二晩暴れ続けたのち、草木一本残らぬ無残な焦土と成り果てた。

 国民はほとんどが初めの日に炎の中で死に絶えて、僅かな生き残りは方々へ散り、二度と国へは戻れなかった。

 星繡国とかつて呼ばれた緑の地は、六百年が過ぎた今も亡霊たちが彷徨い続け、並みの神ですら解きほぐせない怨念が燻り続けていると言う。

 阿丈が何故、何のために星繡国を滅ぼしたかは記録になく、ただ彼女の行状の結果のみが淡々と記されていた。

 

 しかも記録によれば、薛不寒なる人間はこの星繍国滅亡の日に死んでいる。

 感情を露わにして、無丈が叫んだ。

  

『あり得ません!阿丈様が薛公子と心を通わせられたのは、央山に封じられてより後のことです!旅をしている薛公子が央山に迷い込まれ、たまたま人形じんけいを取って森で戯れていた阿丈様に出会われたのが、馴れ初めなのです!』

「落ち着け、龍剣。だが現に、薛不寒はそれより前に死んでいる。これは冥府にある死者たちの記憶を、いわば写したものだ。間違いはあり得ない。薛不寒は死に、冥府に下っている」

「阿丈は、とうに死んでいたはずの人間と恋をしたというのか?薛公子は死後鬼になったとか」

「違う。鬼になっているならばその旨もここに記されるはずだ。薛不寒は、故郷で家族諸共龍炎に巻かれて死んで、冥府へ行った。婚姻を結ぶ直前だった許嫁の少女と共にな。そういう記録になっているんだよ」

 

 よく己の眼で確かめろと巻物を押しつけられ、鵲梁は隅から隅まで巻物を眼を通す。

 薛不寒という人間の一生が、そこには簡潔に記されていた。

 星繡国が炎の中に消えたとき、彼は十七歳で、許嫁の少女は十六だった。

 今や無機質な文字の中にしか存在を留めぬ人々の生が迫ってくるようで、鵲梁は深く息を吐く。

 

「林器、この記録に誤りがある可能性は?」

「ない。少なくとも、我らの側での誤りはない。それは冥府から上がって来る記録だ」

「となると、冥府のほうが誤っていればどうだ?」

「もっとあり得ない。冥府は魂の管理場所。間違いなど起こさない」

「そうだろうか。お前はこれを死者たちの記憶の写しだと言っただろう。記憶は案外簡単に捻じ曲がるし、自分でもそうと気づかず嘘を覚えてしまうこともあるだろう。俺たちの逸話だって、地上の者たちは好きに付け足して変えていくだろうが」

 

 林器は、ゆっくりかぶりを振った。

 

「お前は阿丈に肩入れしているから、あの龍神がこんな蛮行をしていたと直視したくないだけではないのか」

「……うん、それはある。俺が見て来た阿丈は、理由もなく国を炎に沈めたりなどしない」

「龍公女、阿丈は生まれついての龍だろうが。龍たちは生まれながらの強者だ。我ら人間上がりの神とは、考え方の仕組みになる土台が違うぞ。龍がもたらす破壊に我々が想像するような理由は要らない。気が向けば滅ぼし、息をするように踏み躙る。龍は、そういう生き物だ」

「人と恋をするのにか?」

「龍であろうと、かかる病はあるというだけだ」

 

 ぱん、と林器は柏手を打った。

 

「これで薛不寒の行方はわかっただろう。問題は、この結果をどう龍神に述べるかだぞ。龍公女は、探し人が生きているはずだと信じ込んでいるんだろうが」

「いや、林器。薛公子の行方はわかったが、おかしいだろう。これでは、阿丈は鬼にもなれていない死者と恋をしたことになるぞ」

「ならば、ただの弱弱しい亡霊と恋をしたんじゃないのか?亡霊の力が尽きて消えたのを、己の元から去ったと思い込んでいるだけとか」

『そんな……。薛公子様は確かに生きておられたと、私に預けられた阿丈様の記憶はそう言っておられます……』

「だが、記録は違う。阿丈龍公女は、己がとうに殺した人間と恋をし、その面影を探して暴れている。我からはそうとしか言えんし、見えない」

 

 林器はむっつりと目を閉じて腕を組み、無丈はすすり泣くように細かく震える。

 鵲梁は目を片手で覆って天井を仰ぎ見た。

 

 話の辻褄が合わない。

 

 どこかで間違いか起きているか、誰かが嘘をついているとしか思えぬ。

 誰かが嘘を言っているならば、まだ救いはある。

 しかし、もし本当にこの記録の通りのことが起こっていたならば、阿丈の願いはずっと昔から狂っているのだ。

 どう足掻いても叶えられるはずがなく、良い形にも収まらない。

 

 眉と眉の間をきつくつまんでから、鵲梁は座っていた椅子から立ち上がる。

 薛不寒の記録をもう一度よく確かめ、彼は無丈の柄を強く叩いた。

 

「無丈、嘆いていないで起きよ。地上へ戻るぞ」

『戻って、どうされるというのですか?阿丈様になんとお伝えをすれば……』

「まだ調べるべき場所はあるだろうが。というより、今できた」

「何だと?」

「冥府の記録は、あくまで冥府に辿り着いた死者たちの記憶から取られたものなのだろう?ならば、未だ冥府に行けずに地上をさ迷う亡霊たちの記憶は収集されていない。違うか?」

「おい鵲梁、お前まさか……」

「多分、想像通りだ。俺は星繍国に行く。行って、そこをさ迷う亡霊たちと話をする。彼らは当事者だ」

 

 口に出してしまえば、単純で簡単な案に思えた。

 鵲梁はどうしても、阿丈を信じたい己がいることに気がついていた。

 これまで何度も、阿丈が蛮行を為した悪龍だと聞いて来た。

 その都度、鵲梁は否定も肯定もせずに来たのだ。

 

 どこか遠い響きを持って聞いていたその話は、阿丈が滅ぼした星繍国の記録、彼女が焼き殺した人々の名に触れたことで急に生々しく感じられた。

 星繡国で龍の炎によって焼き殺され、冥府を渡った人々の記録は巻物の山として残っている。

 彼らが暮らす国があった土地には、未だ冥府へ行けずにさ迷っている人々も残っている。

 彼らは皆、阿丈が理由なく虐殺したのだと林器は言う。

 

 だが、鵲梁が日々目にする龍は気まぐれに国を亡ぼすことは絶対にできない。ただ気が強いだけの、人間の少女のように見えるときすらある。

 あの龍は、遠い遠い昔、鵲梁の手を取って謝ったのだ。

 ごめんなさい、と彼女は言った。

 を恨んでいい、と阿丈は確かに贖罪を願う言葉を口にした。

 

 林器は、龍の考えなど理解できると思うなと言ったけれど、鵲梁は違うと思うのだ。

 一度死のうが、神になろうが、結局己は自分の信じたいことを信じてしまうのだと、鵲梁はごく薄く苦笑した。

 

「……星繍国の亡霊は、六百年も土地に縛られている。周囲の土地を枯らせるほどの怨念の塊だぞ」

「俺は神だから、死ぬことはあるまい」

「お前は浄化の力を持っていないだろうが。穢れを押し流せる水の力すらない神が行けば、どうなるかわからないんだぞ。星繍国周辺には、お前の信者は少ない。央山州にいるときのような力は出せなくなる。いいか、神は死ぬほどの痛みを覚えようが、死ねないんだぞ」

「彼らは名もなき穢れではない。ただ惨い死に方をし、逃れられなくなった人間たちだろう。俺は彼らに会って、話をしに行くだけだ」

「……っ!」

 

 林器は払子を己の手のひらに打ち付ける。

 風がびゅうと室内を吹きわたり、壁際の棚に山と積まれた竹簡の束がいくつかころころと転がり落ちた。

 

「……何を言っても、無駄か?我の記録を見せたのに?」

「俺は預かった仕事は果たしたいし、長い付き合いの相手も信じたい。何かがあると言う気がして堪らない。お前を信じておらぬわけではなく、ただ、まだ確かめたいことがあるだけなのだ」

 

 鵲梁は胸の前で手を合わせて礼をし、林器は払子の柄を握った小さな手をきつく握りしめる。

 やがて手の力を抜いて払子を帯に差し戻した彼は、額にかかった前髪を払った。

 

「そうまで言うならば、行ってこい。星繡国の場所は覚えたんだろうな」

「勿論さ。ありがとう、李林器。また地上に来ることがあったなら、俺の廟をどこでも好きに使ってくれて構わぬ」

「次は酒でも用意しておけよ、子守り神」

 

 またなと笑って、鵲梁は少年神が治める文天殿を後にした。

 元の通りに編み笠を目深に被り、足早に天界門へ向かう。

 地上への帰り方はまだ試したことがないが、何となく感覚で掴めるだろうと進み続けた。

 

「阿丈、落ち込んでいるのか?」

『……いえ、もう大丈夫です。取り乱してしまい、大変なご迷惑をおかけしました』

「気にするなよ。阿丈はお前にとって母のようなものだろう。己によくしてくれた親の過去を知って、動揺せぬ娘はいないだろうさ」

『感謝します。白公子。微力ですが、私は炎の龍の力を振るうことができます。あなたの護りとして十分に働けるでしょう』

「頼もしいな。林器にはああ言ったが、俺も痛いのは嫌いだ」

 

 神々のための都を足早に駆け抜けて行くと、見覚えのある巨大な天界門が見えてくる。

 見えた途端、鵲梁はほっと詰めていた息を吐いていた。

 美しく着飾り、優雅に歩く神々の間を、編み笠を深く被って鬼気迫る速足で通り抜ける鵲梁の姿やや注目を集めたが、声をかけられるほどではなかった。

 誰にも声をかけられないまま歩き通して天界門をいざくぐろうとしたとき、鵲梁はふと視線を感じて笠を持ち上げて上を見た。

 

 天界門の扁額の真下に人影がひとつ佇み、こちらを見下ろしている。

 目を凝らしても顔立ちははっきりと捉えられないが、ただならぬ気配は感じ取れて、鵲梁は半ば無意識に背中の黒羽こくうの柄に手をやる。

 

『白公子!』

 

 無丈の叫びではっと我に返り、鵲梁が今一度見上げれば扁額の下の人影は消えていた。

 

『どうかされたのですか?いきなり上を向かれて……』

「お前、今天界門の扁額の下に立っていた者が見えなかったのか?黒の鎧をつけた、武神らしき者がいたのだが」

 

 言っているうちに己も見た者を信じがたくなり、鵲梁は口を閉ざした。

 いたとしても、関わり合っている時間は無い。

 今は一刻も早く地上へ帰るべきだろう。

 

「何でもない。では戻ろうか、無丈」

『はい!』

 

 天界門を通り抜けた鵲梁は、そのまま足元にある雲の切れ目から勢いよく下へ飛び降りる。

 行きのときと同じく、気持ちの悪い浮遊感は一瞬のこと。

 

 次の瞬間には、鵲梁は無丈を腰に差し、背に黒羽を吊った格好のまま森の中に佇んでいた。

 懐かしい央山の空気を肺一杯に吸い込み、青年姿の神は編み笠を少し持ち上げる。 

 天界へ行っている間に、地上には夜が訪れたようだった。日は沈み、辺りは漆黒の闇に包まれている。

 いや、違った。

 何かがおかしいと、鵲梁はすぐさま振り返る。

 無丈と彼が降り立ったその場所だけは、火が灯されて明るかった。

 彼の足元の地面には草地を掘って作られた小さな焚火があり、その縁に一人の人間が腰を下ろしていたのだ。

 

「お帰り、白の兄さん。早かったね」

「お前は……っ⁉」

 

 黒髪の少年、しょう 歌雲かうんは、ぱちぱちと鳴く焚火に粗朶を放り込みながら、鵲梁を見上げてにっこりとほほ笑んだのだった。

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