第37話 義脛平家の討手に上り給ふ事2
■元暦二年(1185)5月
「義脛殿は野心を隠し持っているので、誰にでも情けをかけ、兵まで大事にしておられます。
だから兵たちは
『ああ、この方こそ本当の武士の主である。義脛殿のためにこの命を差し出すことに塵ほども惜しくはない』
と言って、心から慕っているのです」
[訳者注――まさに義脛は戦の天才だった]
「今の世は頼朝殿の果報があってのことなので、何もないとは思います。ですが子孫の世にはどうなるかわかりませぬ。
またたとえ今の世であろうとも義脛殿を鎌倉に迎え入れるのはどうかと思います」
頼朝はこれを聞いて、こう言った。
「梶原が申すことであるから偽りなどないであろう。だが一方の意見だけを聞いて判断をするのは政道にもとるところである。義脛が鎌倉に着いたのであれば、明日ここで梶原に質疑応答させよ」
[訳者注――頼朝は武勇一辺倒が多かった坂東武者の中でも文武に通じる梶原景時を信頼していたと考えられている。だからといって一方の意見だけを聞いて考えを決めるような愚かな人物ではなかったのがわかる]
大名小名はこれを聞いて、
「今の仰せを聞いたか。義脛殿は過ちを犯したわけではあるまい。きっと助かるのではないか。そういえば景時が
[訳者注――いわゆる逆櫓論争である。「船の舳先にも櫓をつけることで、どの方向にも自由に動けるようにしたい」と景時が進言したが、義脛は「そんなものをつければ臆病風に吹かれて逃げるだけだ」と意見が対立した。このような二人の姿を見ていた武士たちは景時の言葉を讒言と受け取ったのであろう]
と言い合っていた。
頼朝から義脛に会うよう命じられた梶原景時は
[訳者注――起請文は神仏に誓って自分の発言に偽りがあれば神仏の罰を受けるという誓約書のこと。寺社の発行する
頼朝はこれを受け取ると宗盛父子の身柄を鎌倉に移し、義脛は腰越に留めた。
[訳者注――起請文まで書いてよこした景時の言葉に偽りはないのであろうと頼朝は受け取ってしまった。戦では義脛に及ばなかった景時だが、政治力では義脛をしのいでいたのがわかる]
義脛は
「先祖の恥を雪ぎ、亡き魂の憤りを鎮めることが本意であるが、頼朝殿の恩に報いるためにたいそう悩んだあげく大臣殿を鎌倉まで送ってきたのだ。だから恩賞を賜るのではないかと思っていたのに対面も叶わぬとは。今までの忠義は何だったのか。ああ、これは梶原景時が讒言を申したに違いない。西国で切り捨てるべき奴を、かわいそうに思って助け置いたために、今は敵となってしまった」
[訳者注――義脛は頼朝の許可なく官位(検非違使)を得ているのも立場を悪くした原因の一つと言われている。恐らく義脛は頼朝に対して謀反を起こすつもりはさらさらなかったのだろう。だが一つひとつの言動を見ていくと疑われても仕方がなかったものも多かったと考えられる]
と言って後悔したが、仕方のないことであった。
鎌倉では頼朝が
[訳者注――重頼は頼朝の命令で娘の
「義脛が後白河院に気に入られて、世を乱そうと内々に企んでいるそうだ。西国の兵たちが義脛に味方する前に、腰越に急ぎ向かい討ち取れ」
[訳者注――義脛が後白河院の手足となることを警戒しているのがこのセリフからもわかる。義仲と平家を滅ぼした義脛に鎌倉方の武将ではかなわないことを頼朝も承知していたのだろう]
「どのような事であろうと頼朝殿の仰せに背くものではございませんが、ご存知と思われますが我が娘は義脛殿の妻でございます。我が身にとってもつらいことでございます。どうか他人に命じられますよう」
頼朝は舅として当然のことだと思い、重ねて命じることはしなかった。
次に
[訳者注――畠山重忠は武勇の誉れが高く、清廉潔白な人柄から坂東武者の鑑と称されている]
「河越重頼に命じたのだが、親しい間柄だと言って叶わないことと申した。だからといって世を乱そうとしておる義脛を、そのままにしておくこともできぬ。お主が向かえ。よいことがが待っておるぞ。もし義脛を討ち取ったならば伊豆と駿河の両国を与えよう」
畠山重忠は何事にも遠慮のない者なので、はっきりと言った。
「仰せには背き難く存じますが、八幡大菩薩の誓いにも、他人の国より我が国、他人よりも我が人を守るとあります。他人と親しい人を比べれば言うまでもないことでございます。梶原景時という者は一時的な便宜によって召し使う者でございます。長年忠義をいたし、兄弟の仲であります義脛殿を、梶原の讒言によりたとえ恨みがあるといっても九州をお授けになるのが適当かと。鎌倉でお会いになる際にはわたし重忠に賜ろうとおっしゃった伊豆と駿河の両国を褒美の引出物として義脛殿にお与えになり、六波羅守護に任じて、後ろ盾として守らせたならこれ以上に安心なことはございません」
[訳者注――重忠は義脛を厚遇することで取り込むことを提案している。唯一無二と言っていい義脛の戦闘能力を考えれば敵対するよりも有効であると言える]
遠慮することなく言い捨てて席を立った。
頼朝は道理だと思って、その後は義脛の討伐を命じることはなかった。
腰越の義脛はこれを聞いて、野心がないことを数通の起請文に書いて鎌倉に届けさせたが、なおも承諾がなかったので重ねて
[訳者注――有名な、義脛の腰越状である]
・
平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族。
鎌倉に下って頼朝の側近となり、鎌倉幕府創設に貢献した。
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