第38話 腰越からの申し状の事
■元暦二年(1185)5月
左衛門少尉義脛、恐れながら申し上げます。
私がお伝えしたいのはこの事だけです。
兄上の代官として選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を退け、代々の弓馬の芸を世に示し、
[訳者注――会稽の恥とは、敗戦の恥辱のこと]
当然、恩賞は誰よりももらえるものだと思っていたのですが、思ってもいなかった虎口の
[訳者注――虎口の讒言とは、事実無根の告げ口のこと]
この義脛、功績があるにも関わらず犯してもいない罪のために咎めを受け、御勘気を被ることになり、虚しく血の涙を流しております。
[訳者注――事ここに至っても、義脛は自身に問題はないと認識していたのがわかる]
つくづく事の真意を考えてみれば、良薬は口に苦し、忠言は耳に逆らうと言われています。
讒言を述べた者の言葉の真偽を確かめず、鎌倉へ入れていただけない間は私の考えを伝えることもできずにいたずらに数日を送っております。
[訳者注――結局、義脛に弁明の機会は与えられていない]
この大切な時に長く兄上のお顔を拝見することもできないのは、血を分けた兄弟の契りも既に空しいものになったかのようです。
この私の運命が尽きてしまったのでしょうか。それとも前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。
そうはいうものの、亡き父上の霊が蘇ってくださらなければ、誰がこの悲嘆を申し開いてくれるでしょうか。誰が憐れんでくれるでしょうか。
今さら申し上げても愚痴になってしまいますが、この義脛の身体や髪や皮膚は父母に授かり、この世に生を受けて時を経ずして父上に先立たれてしまいました。
孤児となって母の懐に抱かれ、大和国宇多郡(奈良県吉野町あたり)龍門の牧に赴いて以来、一日として安堵の思いで暮らしたことはなく、甲斐のない命をとどめるばかりといえども、京都の周りで暮らすことも難しく、諸国を流浪し、身をあちらこちらに隠し、辺鄙な遠国を住処として、土民や百姓の世話になって生きてきたのです。
[訳者注――義脛の人生を振り返っているが、これまでの描写とは随分と異なっている内容である]
しかしながら、幸運の機が熟して平家一族を追討するために上洛しました。
まずは木曾義仲を討ち果たし、平家を攻め滅ぼすために、ある時は険しい岩山で駿馬に鞭を打ち、敵のために命を失うことも顧みませんでした。
[訳者注――義仲討伐と一ノ谷の合戦のこと]
またある時は波風が激しく渦巻く大海へ漕ぎだし、たとえわが身が海底に沈んだとしても構うことなく、屍が鯨の餌になっても構わないと懸命に戦いました。
[訳者注――屋島の戦いのこと]
甲冑を枕として眠り、弓矢で戦う本意は、ただひとえに亡き父上の御霊の怒りを鎮め奉るという長年の宿願を遂げようという気持ち以外に他意はありませぬ。
ましてこの義脛が朝廷より
[訳者注――義脛が九郎判官と呼ばれるのは四等官の判官に就いていたからである]
それでも、今、深い愁いと嘆きがこの胸にあります。
仏神のお助けがなければ、どうしてこの胸の内の切なる嘆きを訴えられることができるでしょうか。
ですから、もろもろの寺社の護符の宝印の裏面をもって、この義脛に全く野心などないことを、日本国中のすべての神様に誓って数通の起請文を書いてお渡ししました。しかしなおも寛大なお許しをいただけておりませぬ。
我が国は神のおわす国です。神は非礼を嫌うものではありませぬか。
[訳者注――義脛は複数の起請文を書いたので、いろいろな寺社の牛王を集めたのであろう]
他に頼む所はありません。ひとえに兄上の広大なお慈悲を仰ぐばかりです。
どうか便宜を図ってもらい、兄上のお耳に入れていただきたい。
手立てを尽くし、義脛に誤りなどないことをお認めいただき、お許しを得られることができれば、善行があなたの家門を栄させ、長くその栄華は子孫へ伝わることでしょう。
これをもって私も年来の愁いがなくなり、生涯の安寧を得ることができるというもの。
言葉では書き尽くせぬのですが、ここでは省略させていただきました。どうか胸中をお察しください。
義脛、恐れ謹んで申し上げます。
元暦二年五月 日 左衛門少尉源義脛
進上 因幡守(大江広元)殿
[訳者注――この書状は大江広元に送られたものである]
と書いてあった。
これをお聞きになった二位殿(北条政子)をはじめとした頼朝殿の女房たちまでもが涙を流した。
これにより義脛の処分はしばらく止め置かれた。
義脛は都において後白河院の評判がよく、京都の守護に義脛に過ぎたる者はいないと言われるほどであった。
万事に置いて義脛は尊敬の的であった。
[訳者注――まさに狡兎死して走狗烹らる(敵が滅びたあとに功績のあった者が邪魔にされ、殺されてしまうこと)である]
こうして秋も暮れ、冬のはじめになったが、梶原景時の恨みは晴れず、何度も頼朝に諫言をしたので、頼朝殿も義脛のことを憎く思うようになっていった。
[訳者注――景時は繰り返し義脛の危険性を語っていたのがわかる]
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