第26話 書写山が炎上の事2

 これを聞いた学頭はこのように考えた。


「理由は何であれ、これは書写法師が面を叩かれたようなものだ。話し合いをして、理に反する事をした者がいれば、それを捕らえて弁慶に引き渡し、大事にならぬようにしなければ」

[訳者注――実にまっとうな判断をしている]


 そして僧たちを集めて、講堂で学頭たちが会議をすることにした。

 しかしその場に弁慶の姿はなかった。


 学頭は使者を立てたが、老僧が使いに来ても弁慶は出てこなかった。


 重ねて使いがあったので、弁慶は東坂の上から中の様子を覗き見てみた。

[訳者注――癇癪を起してその場で無茶苦茶なことをせず、再三の要請を受けて仕方なく話し合いの場に参加しようとするあたり、弁慶の成長の跡が見える]


 建物の後ろの方を見ると衣の下に伏縄目の鎧腹巻を着た二十二、三ばかりの法師が出てきた。

[訳者注――この僧たちが弁慶と争うつもりがあったかどうかはわからない。この時代、僧兵といって武装をした法師はよくあるものであった]


 これを見た弁慶は、これはどういうことだ。今日は穏便な会議をすると聞いていたが、あいつらの様子はただごとではない。


 内々に聞いていたところでは、僧が理に背いたときはこうを与え、修行者が理に背いたときは小法師たちに任せると言っていたではないか。

[訳者注――夏安居に参加するにあたりそのような説明を受けていたのであろう]


 このまま出ていき大勢の中で取りこめられたらかなわない。

 そうであれば自分も支度を整えてから出ていこうと考えた。


 そこで学頭の僧坊に入り、「これはどういうことだ」と問いかけられても返事もせず、許しを得ないまま奥へ進んでいく。


 知らない場所ではあったが、倉庫にさっと走り入り、唐櫃を一合持って出てきた。


 そして褐色の直垂に黒糸威の腹巻を着て、九十日間も剃っていない頭に揉烏帽子を被り鉢巻を巻いた。

[訳者注――僧たちが身に着ける装備が倉庫に保管されているのがわかる]


 イチイの木を削った棒を八角に角を立て、手元を一尺(約30センチ)ばかり丸くしたものを引き杖にして、高足駄を履いて御堂の前までやって来た。


 僧たちは弁慶を見て言った。


「ここへやって来るのは何者だ」


「わしこそ噂の修行者よ」


「なんという格好をしているのだ。こちらへ呼んでよいものか、放っておいたほうがよいものか」


「放っておくのも、呼び寄せるのもよくはあるまい」


「それならば目を合わせるな」

[訳者注――わざわざトラブルに巻き込まれたくないと思うのは当然であろう]


 そのように言い合っているのを見た弁慶はなんと言おうかと思ったのだが、僧たちが目を伏せているのが許せなかった。


 善悪を言わぬとは大事である。

 近づいて聞いてやろうと思い、走り寄った。


 講堂には老僧から稚児までが入り混じり、三百人ほどが集まっていた。

[訳者注――圓教寺にはそれだけの人数が集まれるだけの大講堂があった]


 緑の上には配膳係の者や小坊主たちが一人残らず集まっている。


 講堂の前には上から下の者まで寺中の残る者なく集まっていたので千人ほどもいた。


 弁慶はその中を悪いなと侘びもせず、足駄を高く踏み鳴らし、肩や膝を踏み付けて通っていった。

[訳者注――地面も見えないほどすし詰め状態だったのだと思われる。そこを歩くとなれば人を踏むのは必然であろう]


 僧たちは「あ」とも「そ」とも一言でも言えば、きっと一大事になると思っていたので、皆、肩を踏まれても弁慶を通した。


 階段のところまで行ってみると、僧たちが履物を脱いでおり、びっしりと並んでいた。

 弁慶も脱ごうと思ったが、脱げば禍を除くことになるかと思い、足駄を履いたまま荒々しい様子で段を上がっていった。


 僧たちはこれを咎めようとすれば騒ぎになるだろう。よくよく考えれてみれば、弁慶に逆らっても無駄と思って、皆小門の方へ逃げ隠れた。


 弁慶は長押の際を足駄を履いたままあちらこちらと行き来した。


 学頭はこれを見て咎めた。


「なんと恐れ多い者なのか。この山は、性空上人が建立した寺であるぞ。高僧たちがおられる上や、幼い者の腰元を足駄を履いて通るとは無礼な」


 さすがの弁慶もつい後ずさりして申し上げた。


「学頭のおっしゃることはごもっとも。このように緑の上を足駄を履いて上がるただけでも狼藉であると咎められる僧たちである。どれほどの無礼をすれば修行者の顔を足駄にして履くというのか」


 まったくもって弁慶の言う通りであったので僧たちは一言も声を発することができなかった。

[訳者注――わずかな言葉で咎められた自分の行動を上手く切り返すあたり、弁慶の聡明さがわかる。とはいえ人を踏んではいけないのは道理である]


 罪に問わず放っておき、学頭が上手く取り計らってどのようにでもして弁慶を山から出せばよかったのだが、わざわざ会議をすることで禍が起きてしまったのである。


 これを聞いていた信濃坊は居丈高に言った。


「こっけいな修行法師の面構えだな」


「あまりにもこのお山の僧は奢り高ぶりが過ぎているようだな。このわしが修行者のなんたるかを見せてやろう。後から後悔しても知らんぞ」


 それを聞いた信濃坊が立ち上がった。

 僧たちは、ああ、これは大事になったと騒ぎ出した。


 弁慶は信濃坊が立ち上がったのを見て言った。


「面白い、奴こそ相手を選ばぬ悪者よ。わしの腕を抜けるか、弁慶の脳を砕けるか。思い出したぞ、わしの顔に字を書いた奴だったか、憎い奴め」


 そして棒を取り直し、待ち構えた。


 戒円をはじめ寺の法師たち五、六人が座敷にいた。


「見苦しいであろう。あの程度の法師ならば縁より下に掴み落とし、首の骨を踏み折って捨ててやる」


 そう言って衣の袖を取って結び、肩に掛け、喚き叫んで弁慶に向かっていく。


 それを見た弁慶は、えいやと立ち上がった。

 そして棒を持ち直し、横薙ぎに打ち払って一度に全員を縁から下に払い落とした。

[訳者注――四、五人を一撃で吹き飛ばすとは、まさに弁慶は怪力無双である]


 これを見た戒円は走り回って周囲を確認したが、弁慶を打つための杖がなかった。


 末座を見るとイチイの木を切ってくべた燃えさしがあったのでそれを取り、囲炉裏ににじり寄って、「そこを動くなよ、和法師め」と言って走りかかった。


 たいそう腹を立てた弁慶は間合いを取って戒円を棒で打ち据える。

 戒円はすれ違い様に弁慶を打つ。


 弁慶はそれをがしっと棒で受け止めた。

 そして潜り込むように左手の腕を伸ばし、戒円の手首を掴んでぐいっと引き寄せる。

 右手の腕で戒円の股を掴むと目より高く持ち上げて、講堂の大庭まで抱え上げていく。


 これを見た僧たちは慌てて言った。


「修行者よ、おやめください。奴はそもそも酒に酔っていただけです」


「往生際の悪いところを見せてくれるな。修行者が酒に酔えば僧が鎮め、僧が酒に酔えば修行者が鎮めるのが約束と聞いている。命まで取らぬ」


 そう言って一振り振って「えいや」と声を上げて、一丈一尺(約3メートル)はある講堂の軒の上に戒円を投げ上げてしまった、

[訳者注――圓教寺にある大講堂の屋根は3メートルよりさらに高い場所にある。とはいえ人一人を屋根の上まで放り上げる弁慶の怪力には恐れ入るしかない]


 戒円は一堪りもなく、ころころと屋根から転がり落ち、雨落ちの石叩きにどっと落ちた。


 弁慶はそれを取って押さえて、骨は砕けよ、脛はつぶれよとばかりに踏みつけた。


 戒円の左手の小腕は踏み折られ、右の肋骨は二本折れた。

 何を言っても仕方ないと、戒円は一言も発しなかった。


 戒円は燃えさしを握ったまま屋根へ投げ上げられていた。

 衝撃で手を離してしまった燃えさしは講堂の軒に引っかかったままであった。


 ちょうど風は谷より吹き上げており、講堂の軒にも吹き付けていたのであっという間に燃え上る。


 九間(約16メートル)の講堂七間(約12メートル)の廊下、多宝塔、文殊堂、五重の塔に吹き付けて、一宇も残さず、性空上人の御影堂をはじめて、堂塔社々の数、五十四箇所が焼けた。

[訳者注――幸いなことに史実ではこの時代の圓教寺は焼けていない]


 武蔵坊弁慶はこれを見て、今や仏法の仇になってしまった。

[訳者注――真面目に修行をしていた弁慶にとっては戒円にちょっかいを出されたのであり、腹立たしいのはもっともなことである。その上で筋の通った処分を望んでいただけであったのだが、ちょっとばかり人より力が強く、屋根の上まで火種を持っていた戒円を放り投げたのが不運であった]


 このような罪を犯した上は、僧たちの坊々を残し置いても仕方ない。

 それならばと西坂本に走り下り、松明に火を点けて、軒を並べた坊々の一つ一つに火を点けて回った。

[訳者注――だからといって他の施設に火をつけて回るのはどうかと思う]


 そして谷から峰に向かって僧坊は焼けて行った。


 山を切り立てて懸造りにした僧坊だったので、何一つ残らず、やっと燃え残ったものといえば土台ぐらいであった。

[訳者注――すっかり焼け落ちている。後に主となった義脛は陵の館を焼いているが、弁慶の方がやっていることが派手である]


 二十一日の巳刻(午前十時頃)に武蔵坊は書写山を出て京に逃げた。


 その日は一日中歩き、その夜も歩いて、二十二日の朝に京に着いた。

[訳者注――姫路から京都までを一日で移動するのは難しいが、生まれついての異能を持っていた弁慶なのだからこれぐらいをしても不思議ではないという描写であろう]

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