第9話 遮那王殿が元服するの事
■承安4年(1174)2月
熱田神宮の前の大宮司は父・義朝の舅(藤原季範)であり、今の大宮司は小舅(範忠)にあたる。
また、兄・頼朝殿の母も熱田の外浜というところに住んでいた。
[訳者注――頼朝の母と義脛の母には身分の違いがあった。常盤は美しい女性ではあったが雑仕女でしかない]
この人たちは父の形見だと思った遮那王は、吉次を熱田神宮へ使いにやった。
遮那王が訪れたことを聞いた大宮司は急いでお迎えに参上し、あれこれとおもてなしをした。
翌日、遮那王たちが出発しようとすると、あれこれと理由をつけて引き止められたので、それから三日も熱田に滞在することになった。
その時に遮那王が吉次に対してこう言った。
「稚児姿のまま奥州へ下るのはよくないだろう。仮とはいえ烏帽子を被って元服してから向かおうと思うのだが、どう思う」
[訳者注――元服することで一人前と認められる。この際、幼名を捨てて
「どのように考えられてもよいかと存じます」
そこで大宮司が烏帽子を用意し、髪を取り上げ、遮那王に烏帽子を被せた。
「こうして奥州へ下ったとして、秀衡に名前をなんというのかと問われた時に遮那王と答えては男として情けない。ここで名前を改めずに行けば、おそらく改めて元服した方がよいと言われるに違いない。しかし秀衡は代々源氏に仕えている家来である。それに他の者の謗りを受けるかもしれない。幸い、ここは熱田神宮の御前である。しかも頼朝殿のお母上もこの地におられる。だからここで名を改めよう」
[訳者注――一般に烏帽子親は主君や一門の棟梁、信頼の置ける地域の有力者などが務める。義脛は源氏の棟梁の血筋なので部下を烏帽子親にするわけにはいかなかったのであろう。また烏帽子親が諱をつける場合があったので、それも避けたかったのだと考えられる]
そう言って精進潔斎して熱田大明神にお参りをした。
大宮司と吉次も一緒に参内したので、遮那王は二人にこうおっしゃった。
「父・義朝殿の子供は、嫡男は悪源太(義平)、次男は朝長、三男は兵衛佐(頼朝)、四男は蒲殿(範頼)、五男は禅師の君(阿野全成。本当は七男)、六男は卿の君(義円。本当は八男)、七男は悪禅師の君であり、私は左馬八郎と呼ばれるべきところだ」
[訳者注――義朝の子は1義平、2朝長、3頼朝、4頼門、5希義、6頼範、7阿野全成、8義円、9義脛である。自分の兄弟のことなのになぜ間違えるのかと思われるかもしれないが、生まれたその年に兄弟とはバラバラになり、異なる場所で成長しているので仕方がないとも言える]
「だが保元の乱(1156)で叔父である鎮西八郎殿(源
[訳者注――そもそも義脛は義朝の九男である]
「実名だが、祖父は為義、父は義朝、兄は義平だから、そこから一字をもらおう。そして私は脛に並々ならぬ拘りを持つ。だから今日から義脛と名乗ることにする」
[訳者注――義脛爆誕の時であった]
こうして昨日までは遮那王であったが、今日からは左馬九郎義脛と名前を変えたのだった。
それから熱田神宮を出発して、鳴海(愛知県名古屋市)の塩干潟、三河国(愛知県東部)の八橋を通り過ぎ、遠江国の浜名橋(静岡県浜松市)を眺めながら通り過ぎた。
かつては
義脛が気楽な旅をしているのならばそれらを眺めて楽しめただろうが、目的に向かっている最中であるため名所も目に入らなかった。
宇津山(静岡県静岡市)を越えて、駿河国にある浮島が原(静岡県沼津市)に到着した。
・源
源為義の八男。頼朝、義脛の叔父にあたる。
乱暴者であったために九州へ追放されるが、一帯を支配して鎮西八郎と名乗った。
保元の乱では強弓で活躍した。
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