第二巻

第8話 鏡の宿で吉次が泊まった宿に強盗が入る事

■承安4年(1174)2月

 鏡の宿は都からそれほど離れていない場所なので、人目を気にしなければならなかった。

[訳者注――鏡の宿は早朝に都を出た旅人が最初に泊まる場所だったので、それほど離れているわけではない]


 そのため吉次は遮那王を遊女たちから離れた末席に座らせたのだが、そのことを申し訳ないと思っていた。


 酒を飲んでたけなわになった頃、宿の長者(女主人)が吉次の袖を掴んでこう尋ねた。


「貴方は年に一度か二度ほどこの道を通りますよね。でもこんなに美しいお稚児さんを連れているなんて初めてのことではありませんの。貴方のお身内の方ですか? それとも他人ですか?」


「身内ではない。だが他人というほどでもないな」


 それを聞いた長者ははらはらと涙を流す。

[訳者注――女の涙に弱いのは古今を通じて変わらない]


「まあ、悲しくなるようなことをおっしゃいますねえ。これまで生きてきてこんなに悲しい思いをしたのは初めてですよ。昔のことがまるで今あったかのようです。あのお方の立ち居振る舞い、それに顔かたちはまるで源義朝殿の二男、朝長殿にそっくりではありませんか。ちょっとしたお言葉まで瓜二つですよ。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)が終わってからというもの、源氏の子孫はあちらこちらに閉じ込められているそうではありませんの。成人して思うところもおありなのでしょうが、よく考えてからご実行に移されるべきなのではないですか。壁に耳あり、岩に口ありとも言います。草の生い茂る庭園にあっても紅花は事に目立つもの。優れたお方はどこにいたって人目に立つのですよ」

[訳者注――「障子に目あり」ではないのが面白い。なお障子は平安時代末期ごろから使われるようになる]


「う、うむ。だがそのような者ではないのだ。なんというか、身内のような者とでもいえばいいか」


「ふふふ。なんとでも言えばいいでしょう」


 そう言って長者は座敷を立って遮那王の袖を引くと、上座に座り直させた。

 それから酒をすすめた。


 そして夜が更けると、長者は自分の部屋へ遮那王を誘った。

[訳者注――当然、おセックスをしたに違いない。義脛、齢十六にして脱童貞である]


 吉次も酒に酔って寝入ってしまった。



 その夜の鏡の宿では思いもよらなかった事件が起きた。

 その年は不作で、あちこちで飢饉が起きていた。

[訳者注――この時代、庶民は竪穴式住居で暮らしていたと考えられている]


 出羽国で噂になっていた窃盗団があり、その大将を由利ゆり太郎たろうといった。

 この者は越後国(新潟県)で名を知られた頚城くびき郡の住人、藤沢ふじさわ入道にゅうどうと手を組んでいた。


 二人は、佐久権守の息子である太郎、遠江国の蒲与一、駿河国の興津十郎、上野国の豊岡源八といったいずれも名を知られた盗人二十五人、総勢七十人の集団で信濃国へやってきていた。


「東海道はすっかり寂れちまった。山中にある少しばかり実入りのよさそうな家に押し入り、身分は卑しくとも金持ちがいれば俺たちのものにしてしまえ。若い奴らにはうまい酒を飲ませてやって都まで行き、夏が過ぎて秋風が吹く頃になったら北へ向かい、それぞれの国に戻ろう」


 そして通りかかった家々に押し入っては金品を強奪し、京に向かっていた。


 その夜は鏡の宿にある長者の家と軒を並べた宿に泊まっていた。

 由利太郎が藤沢にこう言った。


「都で有名な吉次という金を扱っている商人が奥州へ下るためにたっぷりの売り物を持って、今、長者の宿にいるらしい。どうする」

[訳者注――実際は事前に荷物を送っているが、それを由利太郎が知る由もない。こういう事態を吉次は想定していたのだと考えられる。それだけ旅は安全なものではなく、だからこそ義脛に同道を申し出たのであろう]


「これぞ渡りに舟というものだ。そいつの商品を全部いただいて、若い奴らに酒を飲ませてやろうではないか」


 そう言った藤沢入道が立ち上がる。


 腕っぷしの立つ五、六人に腹巻(簡素な鎧)を着させ、油をさした車松明の五、六本に火をつけて高く掲げると、外は暗いが屋内は昼のように明るくなった。


 由利太郎と藤沢入道の二人は大将となり、手下を八人連れて出発した。


 由利太郎は唐萌黄の直垂に萌黄威の腹巻を着て、折烏帽子をかぶり、三尺五寸(約105センチ)の太刀を佩いている。


 藤沢入道は褐色の直垂に黒革威の鎧を著て、兜の緒を締め、熊の革の尻鞘に黒塗の太刀を入れ、大長刀を杖のように突きつつ、夜半に長者の宿を襲撃した。


 ところが宿に突入したものの誰の姿も見えない。

 次の部屋に進んでみたが、やはり誰もいない。


 これはどうしたことだとさらに奥へと入り込み、障子を五つ六つほど斬り倒した。

[訳者注――障子は長者の宿でも使われていたのだが、言い回しとして「障子に目あり」がなかったのがわかる]


 吉次はこの音を聞いて驚き、がばりと起き上がる。

 するとそこに鬼王のような姿をした者が迫ってきていた。


 吉次の商品を目当てにやってきたとは思わず、これはきっと源氏の若君を連れて奥州へ下ろうとしたことが六波羅に知られて追手が差し向けられたのだろうと判断をした。

[訳者注――吉次がこう判断をしても誰も責められない。そもそも追手があると吉次に言ったのは義脛である]


 そして取るものも取りあえず、体を低くして逃げ出した。


 遮那王はそんな吉次の様子を見て、何事においても頼りにならないのは二流の者だなと思った。

 たとえ形ばかりだとしても本物の侍であればあのように逃げたしたりはしないものよ。

[訳者注――散々な言われようだが、そもそも吉次は商人である。無理を言っては困る]


 ともあれ、都を出たその日から私の命はあの者に預けたのだ。

 このまま屍を鏡の宿にさらすことになったとしても覚悟の上のこと。


 大口袴の上に素早く腹巻を着け、太刀を脇の下に挟み、唐綾の小袖を頭にかぶった。


 そして部屋の障子の陰からするりと出て、屏風の一つを引きたたんだ。

 たたんだ屏風を自分の前に置いて盾として、八人の盗人が来るのを今か今かと待ち構える。


「吉次を探せ。奴から目を放すな!」


 そう喚きながらこちらへやってくる。

 屏風の陰に人がいると知らずに松明を高く掲げて部屋を確認すると、とても美しい者がそこにいた。


 奈良の比叡山でも美少年と知られていた牛若が、鞍馬山を出た時の稚児姿である。

 肌はとても白く、お歯黒で染めた歯、細く書いた眉、そして衣を頭からかぶっているのだ。

[訳者注――出発時の描写では義脛がお歯黒をしていたとはなかった。もしかすると長者と睦まじくした(おセックス)あとに長者のすすめでしたのかもしれない。そもそも平安時代末期には貴族や平氏の武士たちもお歯黒をしていたと記録にある]


 それはまるで松浦佐用姫まつらさよひめ領巾ひれ振って夫を見送る姿が石となってしまったという伝説のようである。

 特に寝乱れた髪がまるで鶯の羽が風に揺れるようで、それが艶やかですらあった。

 唐の玄宗皇帝の時代に例えるのであれば楊貴妃ようきひとでも言えばいいだろうか。

 漢の武帝の時であれば李夫人りふじんかと疑うほどの美しさである。

[訳者注――各時代、各国における美女と並べ比べることで、義脛の美しさをこれでもかと強調している]


 強盗たちは、これほど美しいのは遊女であろうと考え、屏風を押しのけて通り過ぎていった。


 これではまるで無視されたようではないかと思った遮那王はカッとなった。


 このまま生き残ったとしてなんの意味がある。

 世も末というほど乱れた世情ではあるが、このまま何もしなければ世間はなんと思うだろう。

 義朝の子である牛若という者は、平家に対し反乱を起こそうと奥州へ下る途中、鏡の宿で強盗にあったが、何もせずに生き延びた臆病者だ。

 よくもまあ太政大臣である清盛殿を狙ったものだと笑われるのではないか。

 そんなのは我慢できない。

[訳者注――現代であれば被害妄想の一言ですんでしまうが、源氏の血筋として相応しい振る舞いというのもあったのであろう]


 このまま逃げる真似などできないと太刀を抜き、大勢の中へ向かって走っていった。

 八人の強盗はさっと左右へ散った。


「女かと思ったが、なかなか勇猛ではないか」


 そう言った由利太郎と散々に斬り合う。


 一太刀で斬ってやろうとした由利太郎は少し距離をとって体を開き、力一杯振り下ろす。

 しかし大柄な由利太郎の振る太刀は天井の縁に突き刺さってしまう。

[訳者注――狭い屋内での戦闘では刀を振り上げると鴨居に引っかかるので突き技を中心とした幕末の新選組の例もある]


 由利太郎が慌てて太刀を引き抜こうとしている隙に、遮那王は小太刀で相手の左腕を袖ごと打ち落とし、返す刀で首を斬り落とした。

[訳者注――鞍馬山の大天狗から教えられた京八流のうち、義脛は小太刀を得意としたとされるが、それを描写している]


「よくも由利を斬りやがったな。そこを動くな!」


 それを見た藤沢入道が巨大な長刀を振り回しながら走り寄る。

 遮那王は藤沢入道を迎え撃ち、散々に斬り合った。


 藤沢入道はなるべく長刀の柄を長く持ち、鋭く突き込んでくる。

 それに対し遮那王は距離を詰めるように走り寄って斬りかかる。

[訳者注――対人戦闘であれば長柄である長刀のが有利とされる。また由利の失敗を見ていた藤沢は突きで戦うことを選択したのであろう。一方、有効射程の短い義脛は距離を詰める必要があった]


 遮那王の持つ太刀は鞍馬の大天狗が持っていた宝刀だったので、長刀の柄をぷつんと斬り落とした。


 藤沢入道は咄嗟に腰の太刀を抜き払おうと手をかけたが、その間すら与えない。

 遮那王は相手の兜を真っ向面から斬りつけた。

[訳者注――義脛は兜割りができるほどの達人であった。個人の武勇としては破格と言ってよいだろう]


 物陰に隠れて見ていた吉次は遮那王の戦いぶりに度肝を抜かれていた。

 翻って、逃げ出した自分のことを意気地なしだと思っておられるであろう。

[訳者注――『次の者』……二流の者、身分の低い者だと思っていた]


 こうしてはおられぬと寝ていた帳台へ急いで入り、腹巻を身に着け、髷を解いてざんばら髪になり、太刀を抜いて敵が捨てた松明を持って庭に走り出た。

[訳者注――奥州という遠い地まで商いに出向くだけあり、吉次もそれなりに覚悟を持つ者であった]


 そして遮那王は吉次と一緒になって敵を追いかけまわし、散々に戦い、屈強な者たち五、六人をたちまち斬り捨てた。

 そのうち二人は傷を負ったまま北へ逃げて、一人は逃がしてしまった。

 残った盗人は全員どこかへ逃げ去っていた。


 夜が明けてると宿場の東の外れに討ち取った盗賊五人の首をかけ、札にこのように書き添えた。


「噂にも聞いたことがあるだろう。そして実際にその目で見るがいい。出羽国の住人、由利太郎、越後国の住人、藤沢入道以下の首を五人も斬った者は誰だと思う。京の三条に暮らす黄金商人の吉次に所縁がある者だ。わずか十六歳で成し遂げたこれが初仕事である。詳しい話を聞きたい者は鞍馬寺の東光坊のところへ行くがいい。承安四年二月四日」

[訳者注――自慢したい気持ちはわかるが、追手が来ることをわかっていながら痕跡を残すのはどうなのよと思わなくもない。結果的にだが、源氏の血を引く者が平家打倒のために立ち上がったその狼煙にはなっているのだが]


 案の定ではあるが、このことが後になって源氏の門出であったのだと怖がり恐れられた。


 その日のうちに境の宿を出発した。

 吉次はこれまで以上に遮那王を大切にして奥州へ向けて下って行った。


 小野の摺針峠を通り過ぎ、番場、醒井を通過すれば、今日もほどなく日が暮れて、美濃国は青墓の宿に到着した。

 この場所は父・義朝と深い付き合いのあった長者が暮らしていた場所だった。


 また兄・朝長が亡くなった場所であるので墓所を訪れて、一晩中、法華経を唱えて、夜が明ければ卒塔婆を作り、自ら梵字を書いて供養をしてから出発した。

[訳者注――朝長の死に際については、『源義朝、都落ちの事』で触れられている]


 児安の森を見ながら久世川(岐阜県南西部を流れる杭瀬川)を渡り、明け方には墨俣川を眺めながら通り過ぎる。

 旅を始めて三日が過ぎる頃に尾張国の熱田神宮に到着した。






松浦佐用姫まつらさよひめ

6世紀ごろの人物。

大伴狭手彦の妻で、朝鮮遠征を見送る時に領巾ひれを振って別れを惜しんだとされる。


楊貴妃ようきひ

唐の玄宗皇帝の妃。

そのあまりの美しさで皇帝が寵愛しすぎ、国が滅んだので傾国の美女と言われる。


李夫人りふじん

前漢の武帝の夫人。

容貌に優れ、舞踊に長け、武帝の寵愛を一身に受けた。

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