第7話 遮那王殿が鞍馬寺を出られるの事

■承安4年(1174)2月

 遮那王はこの話を聞いて、以前から聞いていた話と少しも違いがない。世にはこのような者がいることを知った。

 そうとなればなんとしても奥州へ下る必要があった。


 頼むことができるのならば、十八万騎の軍勢のうち、十万騎は奥州に留め、八万騎を率いて坂東へ打って出るのだ。

[訳者注――ここからお手本にしたいような捕らぬ狸の皮算用が続く]


 坂東の八か国(武蔵、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)は源氏と志を共にする国だ。

 なにより下野守であった父(義朝)の国でもある。


 下野国(栃木県)をはじめとして十二万騎を集めれば二十万騎になる。

[訳者注――根拠はない]


 十万騎は伊豆の兄・頼朝殿に差し上げ、十万騎は木曽きそ義仲よしなか殿につけて、私は越後国(新潟県)へ向かおう。

 そして鵜川(石川県鳳珠郡)、佐橋(新潟県柏崎市)、金津(福井県あわら市)、奥山(新潟県新発田市)、能登(石川県北部)、加賀(石川県南部)、越前(福井県北部)の兵を集めよう。

 そうすれば十万騎にはなるはずだ。

[訳者注――当然、根拠はない]


 その兵を率いて荒乳(福井県敦賀市)を越えて北陸道を通り、大津の浦(滋賀県大津市)に着いたら坂東から来る二十万騎の合流を待つのだ。


 そうして逢坂の関(滋賀県大津市)を越えて京に攻め上る。

 十万騎を後白河院の御所に向かわせ、源氏が京に入ることを申し上げるのだ。


 もしも平家がなおも都で栄えていてこの想いが叶わないのであれば、名を後世に残し、屍を都に晒すことになったとしてもなんの不足があるだろうか。

 そのように思い立ったのがわずか十六歳であったのは恐ろしいことであった。

[訳者注――現代ならば妄想癖と言ってもいいかもしれないほどである]


 遮那王は吉次に本当のことを伝えようと思われた。


「お前だから本当のことを教えよう。決して他人に漏らしてはならないぞ。私こそ源義朝の子である。ついては藤原秀衡の許へ文を一つ届けて欲しい。いつ頃返事を届けてくれるだろうか」

[訳者注――「お前だから~」というのは、実は兄の頼朝もよく使っていたという。流石は兄弟といったところだろうか]


 吉次は座敷から滑り降り、烏帽子の先を地面につけるほど平服をした。

[訳者注――この時代、烏帽子は男性の象徴であり、扱いが非常にデリケートであった。その烏帽子を地面につけるほど平服した吉次の心情がうかがい知れる]


「貴方様のことは秀衡殿が以前から申されていました。文を届けるよりも奥州へ下られるのがよいでしょう。道中のお世話は私がいたします」


 たしかに文の返答を待つのも気がかりである。それならば吉次と一緒に奥州へ下るのもいいだろうと考えた。


「いつ頃下る予定なのか」


「明日は吉日ですので、形式通りに出発したいと考えています」

[訳者注――この時代では外出や帰宅する時に向かう先の方角の縁起がよくない場合、いったん別の方角へ移動して夜を明かし、それから目的地へ向かうようにしていた。これを方違かたたがえという]


「それならば粟田口(京都市東山区)にある十禅師の前で待っているぞ」


「承知しました」


 吉次はそう言って帰っていった。






■承安4年(1174)2月

 遮那王は東光坊の僧坊に帰ると、このまますぐにでも旅に出ようとした。

 しかし七歳の春から十六歳になった今日まで、朝は教訓の霧を払い、夕方になればキラキラと光り輝く星を見上げるように尊敬し、いつだって一緒だった師匠との日々もこれが最後だと思うと、涙にむせび泣くのを堪えることができなかった。


 とはいえ気持ちが弱くては平家打倒の願いが叶うことはないのだと思い直し、二月二日の明け方に鞍馬を出発した。


 遮那王は白い小袖に唐綾を着重ね、播磨浅葱で作った帷子を上に着て、袴は白色で裾が大きく開いた大口袴をはいた。

 大天狗からもらった敷妙という腹巻の上に唐織物の直垂ひたたれを着て隠し、腰には紺地の錦で柄鞘を包んだ守刀と、腹巻と同じく大天狗から譲り受けた黄金作の太刀を佩く。

[訳者注――どうしてそんな重装備をするのかと思われるかもしれないが、現代のように治安がよいわけではないので、旅に出る者は相応の準備が必要だった]


 さらに薄化粧をして眉を細く書き、髪を高く結い上げた。

[訳者注――ここでも義脛の外見を描写している]


 心寂しげな様子で壁を背にして部屋を出る。

 誰かがここを通るたびに、自分のようなしかるべき者がここにいたのだなあと思い出してほしいものだと思った。

 そこで漢竹の横笛を取り出して、せめてこの音色を形見にしてほしいと一時間ほど吹いた。

 それから泣く泣く鞍馬寺を後にした。

[訳者注――まるで見つかって欲しいかのような行動だが、それだけ義脛と鞍馬寺の関係が深かったことをうかがわせる描写である]


 その夜は四条にいる聖門坊の宿を訪ねて、奥州へ下ると伝えた。

[訳者注――義脛に出生の秘密を教えた鎌田正近のこと。平家打倒のために源氏に力添えしたいと考えていた正近の想いを汲もうという義脛の心遣いであろう]


 聖門坊は何を置いてもご一緒すると出かける用意を始めたが遮那王はそれを止めた。


「そなたは都に留まってもらいたい。そして平家の動向を調べて教えてほしいのだ」


 そう遮那王に言われて聖門坊は京に留まることになった。


 その後、遮那王は粟田口へ向かった。

 聖門坊もせめてお見送りさせてくださいと言うので、十禅師の前で吉次がやって来るのを共に待つことにした。

 吉次も夜更けに京を出て粟田口へやってきた。


 実のところ、吉次は二十何頭の馬に様々な商品を背負わせて先に出発させており、自分はいつものように京を出立するつもりでいた。


 吉次の格好は、ところどころを柿渋で引き染めて模様を摺りだした直垂に、秋毛の行縢むかばきをはいている。

[訳者注――行縢は袴の上から着装する服飾品の一種。馬に乗っていばらの道を通り過ぎると足を痛めることが多いので、これをはいて予防とした。現代でも流鏑馬をするときには腰に巻いている]


 そして黒栗毛の馬に角覆輪の鞍を置いて乗っていた。


 遮那王に乗ってもらおうと月毛の馬を引いているが、そちらには金粉銀粉を沃ぎかけた沃懸地いかけじの鞍を置いて、その鞍を覆い隠すように大きなまだら模様の入った行縢をかぶせている。

[訳者注――義脛の身分を考えて上等なものを用意したのがわかる]


「約束通り来たようだな」


 そう声をかけられた吉次は素早く馬を降りて馬を引き寄せ、遮那王を馬に乗せた。

 そしてこのようなご縁を結ぶことができたのを喜んだ。

[訳者注――鞍馬寺で育った義脛がどうやって乗馬技術を磨いたのか疑問があるが、記述がないだけで大天狗から習ったのかもしれない]


「吉次よ。馬の腹の筋が切れんばかりに大急ぎで雑人たちが追いかけてくるだろう。それを考慮して馬を速く走らせて下っていこうと思うのだがどうだ。私が鞍馬寺にいないと知られれば都中をくまなく探すだろう。都に姿が見えないとなれば僧侶たちは東海道を下ったのだと予想するに違いない。そして摺針山(滋賀県彦根市)からそう離れていなければ追いつかれ、私に帰れと言うはずだ。そう言われて帰らなければ仁義礼智にもとることになる。そもそも都は敵ばかりがいる場所だ。足柄山(神奈川県足柄下郡)を越えるまでは用心をすべきだろう。だが坂東は源氏に味方する者が多い場所だ。相手の言葉尻を上手くとって宿場宿場の馬を使って下るとしよう。白河の関さえ越えてしまえば秀衡の領地になる。そうなれば雨が降ろうが風が吹こうが心配はない」

[訳者注――状況をよく把握し、それに対してどう行動するかという義脛の優れた戦略眼の一端が示されている]


 それを聞いた吉次は改めて義脛のことを恐ろしく頭が切れ、そして肝の据わった人物だと思った。


 今の義脛は毛並みのよい馬に乗っているわけではないし、主のためならば命をなげうつ覚悟を持つような家来を一人も連れていない。

 だというのに敵の支配する国の馬を使って奥州まで下ろうと考えるなど、なんと大胆なお方なのだろうか。

[訳者注――道中の国々の多くは平家の関係者が治めており、父・義朝のように道中で討たれる危険もある。吉次の心情を通じて、義脛の大胆さを描写している]


 とはいえ吉次は遮那王の命令に従い、馬の脚を速めて先を急いで松坂を越えて四宮河原しのみやがわら(京都市山科区)を過ぎ、逢坂の関(滋賀県大津市)を打ち越えて大津の浜(滋賀県大津市)をも通り過ぎた。

 そして瀬田の唐橋(滋賀県大津市)を渡って、鏡の宿(滋賀県蒲生郡)に着いた。


 そこの宿の長者(女主人)は吉次が以前から知っている者だったので、遊女がたくさんやって来て色々もてなした。

[訳者注――この時代、女性でも一定の権力を持つことがあった。この長者もそうした一人であろう]





木曽きそ義仲よしなか

源義賢(藤原頼長と男色関係にあった人)の次男。

頼朝や義脛の従兄弟にあたる。

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