第3話 牛若、鞍馬寺に入るの事

■仁安2年(1167)2月

 常盤は子供たちが成人するにつれ、気がかりが増えていくようになった。

[訳者注――この頃の常盤は子供のことで心労が絶えなかったと考えらえる。いわゆる「子宝、脛が細る」ということわざの語源である]


 いきなり誰かの家来にするのも血筋的によくないし、教養などを身につけなければ殿上人との交流を持つこともできない。

 それならばただの法師にして、亡き父親や兄弟たちの弔いをさせるのがよいだろうと考えるようになっていた。

[訳者注――仏門に入ることで平家にとって危険な存在ではないと思わせたい親心でもあったのだろう]


 そこで亡き義朝が生前に祈祷を頼んだことのある鞍馬寺の別当べっとう(長官)である東光坊とうこうぼう阿闍梨あじゃり(高僧)に使いを出して相談することにした。


「義朝公の末の子である牛若のことはご存じかと思います。今は平家が栄えている世の中です。女の身としては源氏の息子を育てているのは心苦しく、鞍馬寺へお預けしたいと思っています。猛々しい性根であろうとも穏やかな心根をもてますように、書の一巻でもよいので習わせ、お経の一文字でもよいので覚えられるように導いていただけないでしょうか」


 そのように伝えたところ、東光坊から返事があった。


「亡くなった源義朝のご子息をお預けいただけるとは大変ありがたいことでございます」


 そしてすぐにでも山科へ人を送り、お迎えすることになった。牛若が七歳になった二月の上旬のことである。

[訳者注――この時、常盤の脛にかじりついてでも離れなかったという逸話が残っている。いわゆる「親の脛をかじる」ということわざの語源である]


 それからというもの、昼間は師である東光坊の前でお経をよみ、太陽が西へ傾き夜が更けて燈明が消えるまで東光坊と一緒に書物を読み、夜明け方までひたすらに学問に取り組んでいた。

[訳者注――この頃に身に着けた教養が後に義脛の活躍に繋がっている]


 天台宗の総本山である園城寺にもこれほどの稚児はいないであろうと東光坊が思うほど義脛は優秀だった。

 実際、学問に精進するし、心構えや顔立ちまで他に比べる者がいないほどの稚児であった。


 良智坊の阿闍梨や覚日坊の律師も

「このまま二十歳になるまで学問を続けられたら鞍馬の東光坊の後を継いで仏法を受け伝え、多聞天の宝物にもなりえるお方だろう」

 と言うほどであった。


 この話は常盤の耳にも入るほどだったので、このような文を東光坊へ送ることにした。


「牛若が学問によく精を出しているのは喜ばしいことです。ですがもしも里に居続けたいと思うようなことがあれば心がかき乱されて、学問に手を抜くようになってしまうかもしれません。母を恋しく思うこともあるでしょう。その時は人を送ってくれたら母の方から訪ねるようにします。そしてお互いの姿を見ることができたら母は都へ引き返します」


 手紙を受け取った東光坊は次のように返事を書いた。


「そもそもの話、稚児を里へ下ろすことはそうそうすることではありません」


 実際、一年に一度、二年に一度ぐらいしか里へ下ろさなかった。

[訳者注――東光坊の仕打ちを酷いと思う向きもあるかもしれないが、そもそもこの時代は平家が権勢をふるっており、源氏の血を引く牛若を外に出さないようにしたと考えるのが普通であろう]






■安元元年(1175)秋

 これほど学問に打ち込んでいた牛若だったのだが、どんな天魔にそそのかされたのであろうか。

 十五歳の秋の頃から学問に対する心が思いの外変わっていったのである。


 その理由は、かつての家来がやってきて平家への謀反をすすめたからである。






・子宝、脛が細る

ことわざ。

子は宝というが、親が子を育てるには苦労が多いというたとえ。


・親の脛をかじる

ことわざ。

子供が独立した生活が出来ずに親に養われて生活すること。

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