第4話 聖門坊の事

■承安2年(1172)夏

 四条室町に古くからの源氏の家来が暮らしていた。

 頭を剃った法師だが、それは恐ろしき者の子孫であった。


 源義朝の乳母の子、鎌田かまた次郎じろう政清まさきよの息子である。


 平治の乱(1159)の時は十一歳であったが、長田忠致がこの子を斬るという噂があったために母方の親戚である親しい者がなんとか匿っていた。

 そして十九歳になると元服し、鎌田三郎さぶろう正近まさちかと名乗るようになった。


 保元の乱(1156)で源為義殿が討たれ、平治の乱では義朝殿が討たれてしまった。

 それからというもの、源氏の子孫はすっかり鳴りを潜めてしまい、武名も地に埋もれ、長い月日が経っている。自分の家もその時に清盛に滅ぼされてしまった。


 こうなったからには出家して諸国を修行しながら巡り、かつての主君(義朝)の菩提を弔い、親(政清)の供養をしよう。

 そう考えた正近は二十一歳になると九州へ向かい修行を積むことにした。


 筑前国(福岡県)の御笠郡大宰府にある安楽寺という寺で正近は学問を学んでいたが、故郷のことを思い出して都に戻り、四条の御堂で修行するようになった。

 法名を聖門坊しょうもんぼうというが、四条のひじりと呼ばれることもあった。


 正近は修行をする合間に平家が繁栄している世の中を見ては苦々しく思っていた。

 平家は太政大臣にまで平清盛が上り詰め、一門の末席にいる者であっても臣下や公卿になっているはどうしてだろうかと考えていた。

[訳者注――いわゆる『平家にあらずんば人にあらず』という状態である。とはいえこれを口にしたのは清盛ではなく、義理の弟である平時忠のものだとされる。しかも「人にあらず」というのは「人間ではない」という意味ではなく、「栄達できない人」だと考えられる。この場合「平家一門でなければ宮中で栄達できない」といった感じになる]


 一方、源氏は保元の乱や平治の乱の戦いでみな滅ぼされてしまった。

 成人していた者は斬られ、子供はあちらこちらに押し込められ、今では世の中に出ることもできないでいる。


 よい運を授かって生まれ、心も剛胆である源氏が立ち上がってくれないだろうか。

 そうすればどこであろうとも自分は駆けつけ、平家を撃ち滅ぼし、本懐を遂げたいものだ。


 そんなことを思いながら正近は勤行の合間合間に指を折って諸国の源氏を数えてみた。


 紀伊国(和歌山県)には新宮十郎義盛(源行家ゆきいえ)、河内国(大阪府)には石川判官義兼(源義兼)、摂津国(大阪府)には多田蔵人行綱(源行綱)、都(京都府)には源三位頼政(源頼政)卿、君円成、近江国(滋賀県)には佐々木源三秀義(佐々木秀義)、尾張国(愛知県)には蒲の冠者(源範頼よりのり)、駿河国(静岡県)には阿野禅師(阿野あの全成ぜんじよう)、伊豆国(静岡県)には兵衛佐頼朝(源頼朝)、常陸国(茨城県)には志田三郎先生義教(源義広よしひろ)、佐竹別当昌義(佐竹さたけ昌義まさよし)、上野国(群馬県)には利根、吾妻の一族がいる。


 とはいえ、これらの者たちはみな国が遠く離れているので力が及ばない。

 しかし都に近い鞍馬寺には義朝殿の末の子、牛若殿という方がおられる。


 それならば牛若殿を訪れてお会いし、心がしっかりしたお方であるのならば書状をいただこう。

 そして伊豆国へ下って頼朝殿のところへ向かい、周辺の国々を促して平家討伐の兵をあげていただこう。

[訳者注――この時点で義朝の跡を継ぐのは三男である頼朝であった]


 夏である今時分は四条のお堂におこもりをする季節にも関わらずそれを放り出した正近はすぐに鞍馬寺へと向かった。




 鞍馬寺の別当である東光坊が縁にたたずんでいると、


「四条の聖がおいでです」


 と連絡を受けた。

 東光坊が「承りました」とおっしゃったので、正近は屋内へ招き入れられた。

 東光坊は正近が謀反を起こそうと内心考えていることを知らなかったのである。


 ある夜のこと。

 人々が寝静まったのを確認した正近は牛若がいる部屋へ向かい、寝ている牛若の耳元に口を当てて話し始めた。


「今までお思い付きにならなかったのは、ご存知ないからでしょうか。あなたは清和天皇より十代の子孫、源義朝殿のご子息なのです。かく言う私は義朝殿の乳母子である鎌田政清の息子でございます。御一門の源氏の皆様があちらこちらの国に追いやられているのを情けないとお思いにならないのですか」

[訳者注――乳母子は母親に代わり貴人の子を養育する女性の子供のこと。乳兄弟は親しい関係になることが多く、主従関係としても特に信頼しあえる相手となる]


 しかし牛若は正近に打ち解けようとはしなかった。

 今は平家が全盛の時代であり、自分を騙そうとしているのではないかと警戒したのである。

[訳者注――義脛は貞操の危機を感じ取っていたとも考えられる。この時代、貴人であれば男色はままあることだった。事実、義朝の異母弟・源義賢よしかたが藤原頼長よりながの男色相手になったことが頼長の日記に残されている。基本的に身分が上の者がタチ、低い者はウケなのだが、義賢×頼長であった。その上で頼長は「景味あり」と日記に記している。つまり「ありよりのあり」だったというわけだ。見ず知らずの坊主に夜中に声をかけられた義脛が尻に力を入れていたとしてもおかしくはないのである]


 そんな牛若の考えを知らない正近は、源氏の代々のことを詳しく話して聞かせた。

 牛若はこの人物のことをこれまで知らなかったが、以前からそのような者があると耳にはしていた。


 目を覚ました牛若は正近に対し、同じ場所で会うのはよくないだろう。次は別の場所で話を聞くといって聖門坊を都へ返された。






鎌田かまた政清まさきよ

源義朝の第一の郎党で乳兄弟として最も信頼された。

平治の乱で落ち延びた際、義朝と共に謀殺される。


・鎌田正近まさちか

政清の息子。

義脛に出生の秘密を告げる。


・源行家ゆきいえ

源為義の十男。

以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。


・源義兼よしかね

源義家(八幡太郎)の曾孫で、源義基の長男。

のちに頼朝に仕える。


・源行綱ゆきつな

多田頼盛の長男。

一ノ谷の戦いで義脛軍の一翼を担い活躍する。


・源頼政よりまさ

源仲政の長男。

平家全盛の時代に従三位に叙せられた。


・君円成

源義朝の八男。

園城寺で出家した義脛の同母兄。


佐々木ささき秀義ひでよし

頼朝の挙兵を助けた佐々木四兄弟の父。


・源範頼よりのり

源義朝の六男。

遠江国(静岡県)蒲御厨で生まれ育ったので蒲冠者かばのかじゃ蒲殿かばどのとも呼ばれる。


阿野あの全成ぜんじよう

源義朝の七男。

醍醐寺で出家した義脛の同母兄。


・源義広よしひろ

源為義の三男。


佐竹さたけ昌義まさよし

源義業の長男。


・源義賢よしかた

源為義の次男で木曾義仲の父。源義朝の異母弟。

藤原頼長に仕えたが男色相手にもなっている。

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