第3話
母と一礼して道場に入り、母は肩で息している少女のそばに近づいて、膝立ちになって会釈しつつ挨拶をした。
「おはようございます。あなたが遠縁のお嬢様ね。お名前は?」
少し息を整えて、少女が答えた。
『はじめまして。ひめと申します。以後、お見知りおきを』
しずくさんと涼先生が顔を見合わせた。小声で何か会話している?
(「そういえば、日本名をまだ決めておりませんでした。どうしましょう」)
(「考えようによっては、人前で名前を間違える心配が無くなったのだ。これで…“姫”で良しとしよう」)
思いの外、平民らしい受け答えを姫がしてくれた事に胸をなでおろした涼だったが、
「年はお幾つなの?」
『えーと、14歳!』
「あら、じょうと同い年なのね。よろしくね」
…年齢という概念が希薄な我々なのに、しっかりと仮の年齢を伝えてくれた事は喜ばしいことだが…14歳と言ってしまった。
どうみても14歳に見えない身長なのだが、どうしたものか。
先日学校の手配の話をした際、便宜上“手配を進めている”とは話したが、実際はあまり手配は進んでいなかった。
“名前”と“年齢”というピースが揃っていなかったという事実に加え、涼の本心としては、人との接触を最小限にしてトラブルを避けたい、つまりは学校に行かないならば、それに越したことはないというのが本音だったのだ。
だが奇しくも今、名前と年齢というピースが揃ってしまった…年齢と見た目にギャップがあるという、若干の問題が発生してしまったのだが…じょう君のお母上、知恵殿は気にしたそぶりがない?
笑顔の知恵が立ち上がりながら言う
「そろそろ稽古を始めましょうか」
―
ストレッチと準備運動を行った後、
母と涼先生がペアとなり、僕としずくさんがペアになって、切り替えしという稽古を1セット行ってから他稽古(練習試合的な稽古)を行った。
姫は正座して見ている。
途中、母や涼先生が足を崩すことを促したが、きょとんとしながら
「こうやって見るものなのでしょう?大丈夫ですよ」と姫が答えた。
しずくさんとの他稽古は…時間切れ引き分け。
母が言う「相変わらず女の子には打ち込めない優しい子ね。そのせいか、防御はその年齢にしてはかなりの高レベルと思うわ。たまには同年代の男の子と稽古させて、打ち込みの練習もさせてあげたいのだけど…」
剣道の人口は減少傾向だ。近所の同年代で剣道をやっている男子はいない。
数回は涼先生と稽古した事があるのだが、こちらは違う意味で打ち込めなかった。氷の目で射貫かれて、体がすくんでしまったのだ。だけど先生の激しい打ち込みもなんとか防ぎきった、そんな展開だった。
母が言う
「今日はちょっと新しい事を試してみるわね」
母と涼先生の稽古が始まった。
…動かない…そのまま時間切れになった。
「引き分け?」と僕が言うと、
面を外しながら涼先生が言う「いいえ、お母上には余裕がありました」
顔面が汗まみれで、かつ厳しい面持ちがその言の説得力を増していた。
対して、汗はそこそこ発しているが、笑顔で面を外しながら母が笑って言う
「名付けて“剣の届く範囲に近づいたら遠慮なく切るから撤退してね剣”よ」
涼先生が腑に落ちたという顔をすると同時に、「まだまだ差があると痛感しますね」とつぶやいた。
続けて涼先生が言う「そしてやはり、じょう君の優しさはお母上譲りなのですね。」
“言っている意味がわからない”といった顔を僕がしていたのだろう。涼先生が言葉を続ける。「遠縁の親戚の前で、私が負ける姿を見せない為の配慮、と思われるのです。その心遣いも含めての差を感じます」。
少し離れたところではしずくさんと母が話している。
しずく「知恵様、本日は是非…」
しずくさんは、昔は料理が苦手だった。
しずくさんにとっては、母との稽古は“料理の稽古”の方がメインの稽古だった。
母が「今日は予定が無いから大丈夫」と伝え、お昼ごはんは江蓮邸で頂く事となった。
かつて剣道稽古のお礼をさせて下さいと涼先生から申し出があった時、じゃあたまに一緒にご飯食べましょう、と母が提案したからだ。(その際にしずくさんの料理不得手が発覚したのだが)。
「料理が不得手というより、兄妹共に火が苦手なのです」
かつて涼先生がそう言った事があり、それ以上深くは話さなかった。
帰宅してから母が言った事を覚えている。
「だってトラウマ的な事だとしたら、突っ込んだ話はしたくないでしょうし…でもその割にはさらりと“それは当たり前じゃないですか”みたいな感じで“火が苦手”って言ってたのよね…」
―
「じゃあ一旦帰って、着替えてからまたお邪魔しますね」
母がそう言い、立ち上がる。
姫が立ち上がろうとすると
涼先生が「姫、少々お待ちください」と言い、立ち上がろうとする姫を制した。
頭の上に?が浮かぶ、そんな表情を見せる姫を横目に、ニコニコしながら手を振って退出する母に続いて、道場に一礼して僕も退出した。
(涼先生はなぜ姫を制止したのだろう)
姫と同じように疑問を表情に浮かべていたのだろう。そんな僕の顔を見て母が笑顔で言う。
「たぶんあの洗礼を受けるんじゃないかな。」
―
残された室内で涼が姫に促す「どうぞお立ち上がり下さい」
『こういう場合は玄関で見送るものなのではないのか?』
そう言って立ち上がろうとした姫が、バランスを崩して倒れそうになる。
床に激突寸前で、涼が姫の身体を支える。
姫『て、敵襲だ!術か?足の自由を奪われた!!』
涼「慣れていない者が長時間正座を行うと、そのように足がしびれてしまうのです。人体とはそういう構造だと覚えておいて下さい。さらにその状況で足を触られると…」
江蓮邸敷地内に姫の絶叫が響き渡った。
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