色相環の原理

柏木祥子

色相環の原理

Chapter1

 日なたから日かげへ目をやる感覚は、えもいえない。別の世界を見るかのようだ。僕は誘蛾灯と、冷たさ、怜悧に温かさ、概念なく、見合い、出会う。

「こんにちは」

「日柄もよく」

「最近よくここに来る?」

「マア、そういう向き、かもね」

 誘蛾灯はずっと前にこのあたりで殺されたのだという。犯人を知っているが、だれにも伝えられなかったと。僕は今から警察に行こうか、と提案してやるが、誘蛾灯は首をふる。「今さらジローよ。かなりマエだもの」誘蛾灯は古いのが好きだった。音楽なら竹内まりや、大貫妙子。映画は探偵物語がお気に入りだった。「翼の折れたエンジェルも好き」「MajiでKoiする五秒前は?」「何それ?」趣味はあんまりあわなかったが僕と誘蛾灯は友人になった。

 誘蛾灯は触ることも、触られることもできない。日かげから出ることができないので、僕の方から会いに行く。

誘蛾灯は幽霊で、僕は人間だが、他愛のない話しかしない。

「なんだってこんなとこにいるんだ?」

「校舎裏に?」

「好きなんだ…一人になれるから」

「一人になりたいんだ」

「いつの間にか一人になってる」

「アローン・アゲイン、だね」

 こんなになにかについて誰かと話せるのははじめてのことだ。僕と話す人は僕の好きな話はしない。1リットルの涙も、14才の母も興味がない。僕はマイ・ボス・マイ・ヒーローや特命係長只野仁の話がしたいのだ。

 いやまあ、彼女もそんなのは見てないんだけども。

 なのでそういう話もできないんだけども。

 僕が遠回しに言ってみると、

「いやまあ、見たいっちゃ見たいんだけど。私は日かげから出れないからねえ。ここ最近の文化とかは詳しくないんだよねえ。ここ最近けっこうあるけど」

 僕は彼女にテレビを見せてやりたいと思う。

 彼女と共有したい。

Chapter2

テレビを盗むに行く。祖母がかじりついているテレビは、16インチ、薄型の、決して持ち運べない大きさではない。父も母もテレビを見る習慣がないので、祖母がよく散歩する番組を見ている。僕はあれが嫌いである。祖母は77だ。抵抗されたってぶんどるのは難しくないだろう。ガラス戸を通って居間に入る。「ただいま」「おかえり」

 母の声だった。僕の気分は萎えた。「あんたいつも何やってんの? 遊ぶような友達がいるわけでもないのに随分遅くない?」

「ひどい」

「ひどいこと言わせてるんでしょう」

 今日は祖母の代わりに母が座っている。ニュース番組を遠い目で見ている。

「見なよこれ。アンタは知らないのかもしれないけど、最近は世の中物騒なのよ。ほら連続殺人犯。最近また出たって」

 見るとそこでは50過ぎのキャスターが神妙な顔をして、何年も前の事件と、つい一週間前に起きた事件の類似点について話している。ハンマーヘッドキラーと呼ばれたこの殺人鬼は、名前の通りハンマーを使って殺す。顔がわからなくなるまで叩き潰す。

 僕は気分が悪くなった。誘蛾灯の、痩せているけれど、不健康とまではいかない頬や、広くて平たい額、つんと前に突き出した唇が、すれたハンマーで叩き潰されるところを想像してしまったのだ。

「世の中なんていつも物騒だよ」

「いったいどこが物騒だったっての」

「…グルジアとか」

 すると母はけげんな顔。

「グルジア?」

「ほら、なんか紛争してるじゃない」

「紛争は違うんじゃない…。なんていうか、思想があるならいいのよ。なんとなく。思想があるなら、物騒とは違うんじゃない…。ここ座る?」

 僕は母の正面に座って、茶菓子の包装を開いた。母は立って僕のぶんのお茶を淹れに行った。

Chapter3

 僕は誘蛾灯を殺した犯人を捕まえたいと思う。

 この世で殺人ぐらい理不尽で自己中なものもない、なんて、今まで思ったこともないような考えが頭の中を支配する。そうかもしれないし、これを殊更否定する理由はない。

 誘蛾灯に殺人について訊く。

「殺人犯って、どんな奴だった?」

「クソ野郎だったよ。それがどうした」

「どんな奴だったかって」

「だからクソ野郎さ。年端もいかない女の子を犯して殺して悦に浸ってる短小包茎クソデブで、殺さないとタたないんだ」

「そういうやつ?」

「さあ。でも殺人犯って概ねそんな感じだろ」

 そうかも。

「なあ、なんだってそんなこと気にする? 私がトラウマになってるとは思わないのか? 頭を叩き潰されて死んだんだぞ? 頭を、叩き、潰されたんだ。知ってるか? 頭蓋骨って鉄よりヤワなんだぞ」誘蛾灯はかぶりを振った。「違う。違う。責めてるわけじゃない。私は別にトラウマにはなってない。でもアンタはそういうの気にする奴じゃん。なんでわざわざ訊く」

 僕は仕方なしにまだハンマーヘッドキラーがこの辺りをうろついているのだと話す。今も少女の顔を狙って深夜の街を徘徊している。

 誘蛾灯は「あぁ」と呟く。「そんなことか。バカなやつだな。私はあいつが嫌いだけど、柚原にどうこうしてほしいとは思ってない。危ないだろそんなの。危ないことをしてほしいなんて思っちゃいない」

 思いのほか冷静な対応に参ってしまう。

 誘蛾灯は悲しそうに目を伏せる。

「死人になった今、私が望まないのは、私のせいで誰かが死ぬことさ。そんなのバカげてるだろ…。普通に話し相手になってくれるのが一番いい」

 でもそれでも、僕は殺人犯を探したくて、危ないことはしない、とだけ約束して、少しずつ調べ始める。

Chapter4

 とはいっても、僕にはそんな力はない。

 サイコメトリーも、卓越した観察力も、それを支える経験もない。

 ハンマーヘッドキラーは十何年の間に8人の少女を惨殺する。手口は変わらず。ハンマーで顔を潰す。そのせいで一目では彼女が誰だったかわからなくなってしまう。

 彼女たちは決まってプールサイドで発見されるというのも…これはテレビに出ていた犯罪心理学者の意見で、ハンマーヘッドキラーにとってプールサイドは自尊心とかと関わる重要なものだったからだ、そう。

 その心理学者は彼が30代で定職についていない実家暮らしの男だとプロファイリングもしていたけれど、それが間違いかどうかは今のところ分からない。

 でも心理学的見地…なんて情報を集めてみても、はっきり言って無駄だ。だって材料があっても、僕にはそれがどんな意味を持つのかわからない。

 ジャガイモと人参と玉ねぎを買ってきて、さてなにを作ろうと思うようなもの。

 みんな肉じゃがだカレーだスープだと言うだろうけど、この3つだけじゃなんにも作れない。

Chapter5

「やりたいものはやりたい。まだやらない気にはなっていない」

 そう言った。そう思ったからだ。

 僕はやれることもやることもわからないから、8人の少女が死んだところを回ってみる。てんでばらばらだった。同じ町で起こったこと以外はなにも繋がりがない。

 ずっと前、ってことになると、現場には何も残っていないし、そもそも人がたくさんいる。

 8つのプールサイド。

 最後から3番目のところには誘蛾灯がいる。

 ここで見つかる。

「泳がないの?」

 これは別の人。

「せっかくのプールなのに」

 プールサイドに腕でつかまって、その上に顎を載せていた。

 (僕は)屈んだ。

「水泳部じゃないし」

 その子は後ろのほうでバシャバシャやってる子たちを振り返った。

「あっちの子たちも水泳部じゃないよ」

「いいの?入っちゃってるけど」

 その子は首を傾げた。 

「ダメだと思うけど、まあ、部長がいいって言っちゃったし」

 それに、と呟く。

「別に強くないしね。うち」

「そっか」

 ざばーっと音を立てて(その子が)プールサイドに腰かけた。

 首を回してこちらを向いて、目にかかった、固まった一房の髪を、指ではらった。

「ここら辺、ずっと前に人が殺されたんだって」

 そう言ってみた。

「知ってる。顧問の先生がたまにその話するから」

 その子は胡乱な目をしたけれど、話に応じた。

「変な感じする? なんかいるとか」

「そこらへんだよ。確か」その子がベンチの近くを指さした。「見つかったの。掃除の用務員さんが見つけたんだって。だからその辺を避けて通る子もいるね」

「君は?」

「言うほど」

 またざばーっと音を立ててその子がプールに戻った。

「つってもまあ、たまにゾクッとするときはあるよ。人が死んだとか、マジかって。論理的にいけば、もうここに来ることはないってわかってるんだけど、またやったし。ハンマーヘッド」

 そうなんだろうか。

 確かにそうかもしれない。ハンマーヘッドキラーは8つの場所で殺しているから、忘れてでもしない限り、同じところでは殺さないのかも。

 じゃあ忘れてたら来るの?

 あれ?

 なんか違くない?

Chapter6

 やきもきして仕方がなかった。

 8人も人が殺されたっていうのに、それが一人の人間が成したことだっていうのに、まだ捕まっていないし、その気配もない。警察はほんとうに仕事をしているんだろうか。

 この街にはいるはずなんだ。どれだけ手掛かりがなんだと言ってみても、この街にはいるはずなんだ。だって最近また殺したばかりだし、ハンマーヘッドキラーはこの街以外で殺人をやったことはない。

 4766世帯ある城南のどこかにいる。

 ふと思った。

 4766だったらなんとかならないこともない。

 1から4766を数えるのは、めんどうだけど、できないことはない。

 見つかるんじゃないか?

 それなら。

 ローラー作戦だ。選択肢総当たりだ。 

 そう。

 数学で”場合の数”をやるとき、可能性の全部を計算してみる感じ。

 そこで僕は電話ボックスから電話帳をひっぺがして開いてみる。一番はじめは相生アイ子。次が相生蒼。その次が赤川さん。

 気が遠くなるほどの数だけど、終わりはある。この本は1077ページだから、500回ぐらい捲れば終わる。

 僕は暫く家に引きこもって電話帳とにらめっこをした。つまり、電話番号と住所をメモして、自宅から近い順に並べた。一週間かかった。その間、母には心配されたし、学校から電話がかかってくるたびに仮病を使ったし(たぶん通じていない)、誘蛾灯のことはほったらかしだ…実はこれが一番つらい。

 誘蛾灯は僕以外に話す人はいないのに、僕は会いに行かない。一週間ずっとあの日かげでひとりぼっちなんだ。

 あとから考えたら別に学校に行きながら作業したって良かった。全部並べてからじゃなくても並べて、並べた先から、並べた先に行けばよかったのだ。

 今更それを言ったところでどうだって言うんだろう。

 それに、ここで悩んだことなんて全部意味がなかった。意味がなくなってから意味がなかったことに気づいて、その意味がなかったことの中にも意味がないことが混じっていたのだ。なにせ一軒目で通報されちゃったんだから。

 ひどい目にあう。相生さんの長男に腕を極められるし、警察には悪ふざけするなと叱られるし、母親にも怒鳴られた。悪ふざけでも何でもない。全部友達のためにやったのに誰もわかってくれない。でも誰に怒られたのよりも、誘蛾灯に怒られたのがショックだった。

Chapter7

「健康的じゃないね」

「うん」

「まったくもって健康的じゃないよ」

「うん」

 そこで誘蛾灯は顔の下半分を右手で覆って、明後日のほうを見た。

「言ったよね」

「…」

「…」

 誘蛾灯の顔は珍しく固い。

 怒っているみたいだ。

「言ったよねって…(言っただろ)」だからさ。「そんなことして欲しくないって言った…言ったよね? 言ってなかったかね。でも頼んでなかったのも確かだと思うんだけど」

 気持ちは…と誘蛾灯はつづけた。「気持ちは…嬉しくない、とは言わない。それ自体は受け取る。でも望んでないって言っただろ…なぜやる?」

 そうして、(誘蛾灯は)首をあげたり下げたりして苦悩を示した。

「でも…捕まってほしいだろ?」

 さあ、どうだろうね、と誘蛾灯が言った。

 彼女が何を考えているかはわからなかった。

「今更ジローよ。あれが捕まっても私は生き返らないんだし」

「でも、嬉しいか嬉しくないかで言えば、嬉しいでしょう」

「その訊きかたは卑怯よ」と誘蛾灯。「やりたくてやったんでしょう。それならそうと言えばいいだけなのに。なぜ私を巻き込むの」

「そんな…」僕はかぶりを振った。「そんな…そりゃ、僕がやりたいっていうのもあるだろうけど、それを否定はしないけど、それだけじゃないよ。それだけでやったんじゃ…僕は誘蛾灯のためにやりたくて…」

「あのね。やるなって言っただろ。やるなって言ってやったのになんで私がやられたかったような感じを出そうとするのよ」

「わかんないだろ。それだって卑怯だよ。思い込んでいるんだろって言っちゃったらどうやって否定すればいいんだよ」

「私は否定して欲しいなんて思っていない」

「そんなのってない。僕ら友達だろ? ならせめてこんな時でも一方的に相手の意見を封殺したりすることないじゃないか」

 やりたくもないのに激しさを増すこの口論を打ち切ったのは、スピードのボディ&ソウルだった。僕の携帯からだった。

 誘蛾灯がなにかを言いかけて、やめた。僕は出る気なかったけど、誘蛾灯がそう促したので、結局出た。

「はい。え、今から? 絶対?」

Chapter8

 母親に連れられてファミレスに行ってみると、奥のほうに、薄い眉で、疲れた顔をした、気の弱そうな男性が座っていた。うちの父親だった。

「お父さん」と僕は言った。

「おう」と父が手を挙げて、ちょっと、と母が窘めた。

「厳しくいかないと」

「そうだった」

 僕は両親の前に座った…どうしてこんなに仰々しいことをやられるのかは、わかっていた。

 気持ちが沈む。

 さっき友達と喧嘩してきたところなんだ。

 ここでもまた僕は嫌味を言われるんだ。

「私は、頭ごなしに否定したりする気はないの」母が切り出した。父はスプライトを飲んでいた。「だってそれじゃ意味ないでしょ…意味ないじゃない? 私はアナタじゃないし、私が想像すると、その、悪い考えばかりになってしまうから」

「実際、どうなんだかはわからないが」父が続く。「お前が話した方がいいというところは、お母さんに賛成だ」

 僕はむっつり黙り込んで、どうやったら今回のこれを、誰かにわかってもらえるよう話せるか考えた。

「お父さんわざわざシゴト休んで来てくれたのよ」

「それは今関係ないだろう」

 僕は誘蛾灯に会う。僕と誘蛾灯は友人になって、僕は彼女のためにハンマーヘッドキラーを捕まえたいと思う。

 …初めからしてダメだ。僕以外に誘蛾灯が見える人はいないんだから。両親にとってみれば、完全におかしい人だ。既にそんな目で見られている節があるのに。

 それで僕は、頭の中で説得力のある物語を考えようとした。でも上手くいかなかった。僕はもともと、想像力のある方じゃない。

「それじゃまず、なんで相生さんのお宅へ行ったの?」と母。

 父はポテトをつまむ。

「それは…」ええと…。「一番初めの名前だったからで…」

 父がちらりとこちらを見た。

「は?」

「見つけたかったんだ…殺人犯を…」

「ハンマーヘッドキラーを? なぜ?」

「人が死んだから」

 それでも母の目は緩まない。父はよくわかっていない。

「だから、なんでそこでアンタが探すことになるの」

 だんだんイライラしてきた。

 ハンマーヘッドキラーっていうのは殺人犯なんだ。それを探すことの何がいけないんだ。だって、そうだろう。誘蛾灯はハンマーヘッドキラーに無残に殺されてしまった。

 ハンマーヘッドキラーは探されて然るべきなんだ。それを誰がやるとかそんなのはどうでもいいことのはずで、やつが捕まるのは間違いなくいいことじゃないか。

 でもそれを誰もわかってくれない。父も母も、愛生も、警察も、誘蛾灯でさえも。

 …こういうとき、誘蛾灯を恨むことができたのが、自分でも少し驚いた。

 なにがあっても誘蛾灯とは気が合うのだと思っていたから。

「誰かは、無残にも、理不尽にも殺されたんだ。謂れもないのに。あれは工具のハンマーを、そんな使い方をすべきでない、そんな方法で、少女を八人も殺したんだ。(その中には僕の友人も含まれているんだ)」だからそれは…と口に出した母を制止して、僕は続けた。「僕の知る…僕の、知っている話では、ハンマーヘッドキラーは少女の下腹部に馬乗りになって、動けないようにする。動けないっていえば、本当に動けない。肩をどんなに揺らしても、腕をどんなに振り回しても、あまりに体格の差があるからどうしようもないんだ。それだけだって十分怖い。それで解放されたって、十分心に傷が残ると思う。だけどそこで終わりじゃない。

 ハンマーヘッドキラーはハンマーで少女の顔をたたく。一発じゃ死なない。意識だって失わない。とても痛いだけ。殴られて骨が折れなければ、まだ大したことはないし、それ自体は運がいいって言えるけど、ダメだ。結局そのあと何度も何度も殴られて顔に穴が空く。文字通りの穴だよ。顔を構成している部分が全部潰れて、まるでザクロを入れたボウルみたいになるんだ。ハンマーヘッドキラーはそれぐらいのことをやったんだよ。ひどいと思わない。それで…」

 父親がなにか言いかけて、後ろに視線を泳がせた。立ち上がって体を引いた。僕は気づいていなかったが、僕の後ろで妙な男がうろうろしていた。

 僕が誰か、誘蛾灯以外の誰かの鼻骨が、ハンマーの頭に押されて、骨片と顔の肉が、脳へ近づくさまを話しているとき、後ろを行ったり来たりしていたその男が腕を振り上げて、振り下ろした。

 後で知ったことだが、僕を灰皿でぶん殴ったこの男こそ、巷を騒がせるハンマーヘッドキラーその人なのだった。ハンマーヘッドキラーは、僕の、後頭部、つむじから少し後ろのあたりを狙って、灰皿の角を振り下ろした。パッと頭に花が咲いたみたいだった。目の前がちかちかして、上半身が浮かびあがると、それに合わせて足元も千鳥足になって、そのまま天井を突き抜けて空を飛んでしまいそうだった。実際はただ崩れ落ちただけだ。「もういい!もういいんだ!もうわかったんだ!」

 ハンマーヘッドキラーは僕を床にたたきつけたあと、なおも激しく僕の体を揺らし続けた。全身がむちうちみたいにマヒしながら、僕はハンマーヘッドキラーの怒りと混乱に満ちた顔をなにも考えてない頭で見ていた。

「お前らがなにも言わなくたって俺はわかっているんだ!俺がやっていることを!俺のハンマーを、俺のイチモツの代わりに見てもいい。俺をみじめな社会不適合者だと罵るのもいい。だけど俺がやったことをいちいち繰り返すな!そんなバカじゃない!」

 もったいないことしたな。

 こいつの話せるのはこの時だけだったんだ。うまくやれば誘蛾灯に謝らせることだってできたんだ。

 ハンマーヘッドキラーが僕の前から消える。

 周りの人間に引きはがされて押さえつけられている。まだ彼がハンマーヘッドキラーだって誰も気づいていない。僕はそれが少し不思議だった…だって彼の言ったことを鑑みれば、察しが付くなんて、自分を誇示するような言葉を使わなくたって、わかるはずだ。

Chapter9

 誘蛾灯はケラケラ笑った。

 もちろん最初から普通に話せたわけじゃない。僕と誘蛾灯は、その…少し気まずい仲だったし、僕が怪我をしてるって言っても、それだけで全部を水に流せるほど、僕たちは自分な意見に無責任じゃない。誘蛾灯は包帯を巻いた僕の頭を見て「問題ないか」と言った。

 変な言いかた。それで、僕はまだなにも応えず、誘蛾灯は、口の端に少し、笑みを浮かべて、問題なさそうだな、と言った。

「ひどい目にあったな」

「ひどい目にあったよ」僕は包帯を柔らかく抑えた。まだ脳の奥がきしんだ音を立てるみたいだった。

「碌なもんじゃなかっただろう。殺人犯なんて。お前は運がいいぜ」

「うん」僕は素直にそう返した。

それが最も正しい手順で、彼女と仲直りをする方法だった。

僕は依然として後悔はしていなかった。ただ、ハンマーヘッドキラーをこの手で見つけることができなかったのが、心の端っこに引っかかっていた。

僕と誘蛾灯は和解して、再び他愛もないことを話し出す。ちょうど、唐沢寿明のドラマが再放送していたので、その話をする。誘蛾灯はそのドラマを見たことがなかったが、原作を読んだことはあった。パラパラと古本屋で買ってきた原作を誘蛾灯と見比べながら、どちらもの違いを、滔々と、樫の木の根元でくつろぎながら話し合った。なんの生産性もない。ドラマと原作どっちがよかったか、なんてことさえ答えは出さない。

「柚原」

 と正面から声がした。

 同級生のものだ。顔を見たら名前も思い出した。

「ちょっといいか」

Chapter10

 誘蛾灯と、僕と、高柳。それだけの空間で、僕と高柳が向かい合っていた。高柳は僕しか見ていない。仮に誘蛾灯の姿を見ることができたとしても、彼は僕しか見ていないんじゃないか。

 僕と高柳は、もともとそう親しいわけじゃない。僕は誘蛾灯以外に親しい――そう表現していい人はいないから…それは、僕の方の問題というんでなく、こっちが勝手にそういってしまっていいものかという問題だ。

 高柳は僕を見ていた。そして僕を見る以上に、頭の包帯を見ていた。

「その頭のケガ…殺人鬼にやられたんだろ」

「うん。そう」

「守りたかった」

 僕は吃驚して、思わず高柳の顔を覗き込んだ。いたって真面目な風で、どこにも冗談やおふざけは感じられなかった。

 ひゅうと誘蛾灯が口笛を鳴らした。

Chapter11

「なぜ男の振りなんかしているの?」

「振りなんかじゃない。昔は男だったんだ。いつの間にかこうなっていたんだ」

 誘蛾灯はしばらく考えるそぶりをしていたが、ふっと意地の悪い笑みを浮かべて、

「あぁ、そうゆうことかぁ」

 と言った。

 僕にはなぜ彼女がそんなことを言うのかわからなかった。

「なかなか詩的じゃないか。悪くない。悪くないぞ」

「そんなつもりはないけど」

「そうなのか? じゃあだから詩的なんだろうな」

「なにそれ」

「そういうこと」

 どういうこと?

「じゃあ、どうして女のふりなんかしてるんだ?」

「だってみんなそう思ってる。僕がどう思ってるかとかそう関係なく。僕が女であってほしいと望んでる」

「望まれてるからアイツと付き合った?」

「いやそれは…彼は言葉が率直で真摯だったから…ほんとに僕のこと好きだったんだと思うし…いいやつなのは知ってたしいいやつに好かれるのは嬉しいし…あと顔とか…」

Chapter12

  高柳はそれなりに優しい。ガサツで、時間に遅れたり、僕に車道のほうを歩かせたりもするけれど、優しくしようとしてくれている。そういう人は、優しい。

「好みだったのかなって、お前のこと」

 と、下校中に高柳が言う。

「なにが?」

「犯人。だって人が衆人環視でお前のことぶん殴ったんだぜ。よっぽど好みじゃなきゃやんないだろ」そして高柳が僕の髪に触れる。思わず体を引く。「悪い。まだ痛むか?」

 そうじゃない。髪に触れられたから驚いたのだ。

「それで、なんていうかヤバいなって思ったんだよ。このままじゃ誰かがお前のこと好きになるんじゃないかって…別に殺人鬼じゃなくてもさ」

 高柳は僕がむっつり黙り込んだので、怒ったんだと思った。でも違った。またしても。僕は照れくさくて黙ってしまったのだった。

Chapter13

 そうやって殺人やなんやかんやを忘れてもいい生活が続くけれど、ずっと嫌な思いをしないでいられるわけじゃない。

 電話がかかってくる。知らない番号からだったけれど、僕は取る。

 休日で、誘蛾灯のところに行くところだった。影がくっきりと地面に焼き付く日でもあった。

「お宅、柚原さん?」

「そうですけど」

「…」

「あの…」

「“あなたは”と訊くのを待っていたんだけど」

 高い声だった。変なことを言うやつだと僕は思った。

「私は頭探偵というものです。あなた、柚原さんでいいんですよね。柚原楓さん」

「はい」

「植物の“柚”に植物の“楓”?」

「そうです」

「その柚原さんだ。あの、今から会えませんか」

 僕は少し考えるふりをした。

「いや、いきなり言われても…ちょっと用事もあるので」

「それは大丈夫です」

 声が肉声と一緒に聞こえた。

 ふと続く先のカーブミラーにこちらへ手を振る、なにやら鉄球のようなものを被った人物がいた。

「歩きながらでもいいので」

 頭探偵なる人物が私の隣に並び立った。

「アナタ最近ヘンなものと話しているでしょう」

(つい頭探偵を凝視してしまっても、それは致し方ないことだと思う)

(だが、反応しない僕に頭探偵がぽつぽつと、断片的な情報を重ねていってくれて、ようやくそれが誘蛾灯の話だと気づいた)

「あのね、あの人、西村秀子じゃないよ」

「じゃない?」

Chapter14

 西村秀子っていうのは、誘蛾灯の本名で、数年前に顔を潰されて殺された女の子の名前だ。僕はなるべくその名前を呼ばないようにしていた。

 それってどういうこと?

「本人から頼まれたんだよ。私そっくりのなにかが母校にいて、誰かがソイツと話してる。キモイからやめさせろって」

「キモイって本人から?」

 頭探偵はまごついた。

「本人っていうのが、どういう意味だか…とにかくね、こっちが言ってるのはだいぶ前にこないだ逮捕されたハンマーヘッドキラーに顔を潰された可哀そうな西村秀子。そっちは?」

「こっちも、同じだと、思うけど」

「思うって」頭探偵がちょっと意外そうに言う。「自分が話してる相手が誰なのかすらよくわかっていないのか?ちょっと自己中すぎやしないかな、それは」そして参ったなとでも言いたげに首を振り、実際に参ったなと言った。

「イヤ、トイウノモ、こっちはそっちを説得したいわけだけども、それには(こっちの)正当性を伝えなきゃいけないだろう。だから(こっちは)お宅が話してるのは大西妙子じゃないと言って、本物の大西妙子が迷惑してると話した。それなのにそちらときたら向こうが大西妙子かもわからないときてる。(まったくお手上げだよ)」

 頭探偵はぐちぐち文句を言った後、僕を待たせてなにやら電話で話し出した。相手は本物の大西妙子、というやつなのか?

 学校がすぐ近くにまでなった。頭探偵もそれに気づいていた。

 僕と向かい合うと(頭が鉄球なのでどこが前やらよくわからなかったが、体は正面だった)携帯で二言三言交わし、ようやくこっちに集中してくれた。「とりあえず…とりあえずまあ、訊いておくよ。今のところ止める気はないんだな? その西村秀子じゃないやつと話すのは」

「じゃないっていうのは、よくわかりませんけど…」

「それは質問?」

「だって、その、どうやったら本物だなんて判断がつきますか?」

 ああ、と頭探偵。

「魂には色相があるから。僕はそれを見てる」

「見てるって…」「見えるものは見えるんだよ。だけど君の言う西村秀子、あっちは見えなかった。見えないっていうことは、いないっていうことだ。ああ、いや、残留思念ということもある」

「残留思念?」

「人が死んだとき、強い感情がそこに残ることがある…よくある話だろ? それと話してる。じゃあ大丈夫だ。もう少ししたら消えるから」

「でもそれだって疑わしいんじゃ? だって、間違ってても(やっぱり判断がつかない)。アナタが思っているのは実は魂じゃなくて、僕が話しているのが魂かもしれない。アナタの判断基準は全部間違っているのかも」

「そんなの言い出したら終わりだろう」

「話すこと自体おかしいんだ。僕は僕の信じたとおりにしかものを見ることはできないし、アナタはアナタの信じたとおりにしか見えないのに、なにを話すことがあるんだ。彼女は消えない。ずっと僕の友達でいてくれる」

Chapter15

 でも考える。

 考えてしまう。

 彼女はあんまりにも都合がよすぎやしないかと。

 僕にとってあまりに、都合のいい存在すぎやしないかと。

 考えてみたら変なんだ。なぜ誘蛾灯なんて名前を名乗る?それは名前じゃない。虫を集めて殺すためのライトじゃないか。

 僕には友達がいなかった。ただの一人も。自分をさらけ出せる相手がいなかった。そしたら突然、校舎裏で誘蛾灯に出会った。

 もしかしてそれは気のせいなのでは? いや、気のせい、というのは、つまりその…彼女は実在しないんじゃないだろうか。

 幽霊とか残留思念とかプラズマとかそういうんじゃなくて、僕のイマジナリーフレンドなのでは?

 変じゃないか。変なんだ。名前も、話が合うってことも、タイミングもあまりにご都合主義すぎて嘘くさい。なぜ気づかなかったんだろう。

 僕は逃げていたんだろうか。彼女が僕といてくれなくなるかもしれないと思って。僕が自分と話すようなみじめったらしいやつだってことから。なにもかも嫌なことからすべて。

Chapter16

「ねえ、誘蛾灯は僕なの?」

「なに言ってんだ?哲学か? 私は私だよ。これは哲学じゃないぞ」

「それじゃあ、西村秀子?」

「誰?」

「えっ?」

 よくわからない。

 よくわからない。

 最近になってよくわからないことが増えた。

 母親にそう伝えると、それはよいことだと言った。それもよくわからなかった。誘蛾灯は日かげにいる。西村秀子はどこかにいる。頭探偵の電話番号はまだ着信履歴に残っている。電話したら出た。僕はまだ高柳とちゃんとしたデートのひとつもしていないでいる。みんな地球のどっかにはいる。

 マジで?

 〇〇は何々してどうにかこうにかなってどこかに着地して、あるいは……になって結局のところ◆◆で○○は××するしかない。

 そんなようなまどろっこしさを胸になんとか、日なたと日かげを渡り歩いている。

 ああ、とても楽しい。

Chapter17

 僕と誘蛾灯は今日も校舎裏で二人でいる。校舎裏の、最初に彼女を見たイチョウの下に座って話す。

「馬鹿が感染った感じだ」

 誘蛾灯が言う。

「昔はもっと疑り深かったはずなんだけどな…」

 (誘蛾灯が言う)

「最近は全然だ」

「いいことじゃないの?」

「見ようによってはそうだが。私はそんな見方はしたくないなあ」

「どうして」

「私はもっと疑り深いんだと思っていたからさ」

「それって、つまり?」

「私は私を疑り深いんだと思ってたけど、そうでもなかったんだ。私は私を見誤ってたんだ。でもおかしいだろ。なんで自分を見誤る? 自分のことなのに」

「変わったってこと?」

「その通り。それで思うに…それは君のせいだ。君のせいであんまり疑わなくなったんだ。どうでもいい気がして」

「それでいいんじゃないの?」

「そら、まただ。私までそんな気分になってきた」

 そんなはずないんだけどな、と誘蛾灯は首をひねった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

色相環の原理 柏木祥子 @shoko_kashiwagi_penname

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ