第336話 心変わり(イルスデン)

 帝都にそびえるイルスデン城。皇帝ロデリックの住まうこの城の上には、帝国の現状を現すかのように黒い雲が立ち込めていた。


「……以上です」


 書類を手にした老人が第六次ガルツ攻防戦の報告を終えた。老人とはいえ背筋は伸び、かつての色男の名残を残している。帝国第一宰相ヴァシロフ・ハッシャー――病床に就く皇帝ロデリックに代わり帝国の指揮を執っている。ローゼス王国時代からの名門貴族であり、ロデリックの最古参の臣下の一人であった。


 部屋の中には他に皇帝の第二子であり帝国第二宰相の座にある”影の皇帝”ユリアンネ、ラーベル教の司教であり皇帝の主治医を務めるベンヤミンがいた。


 そして彼らの前には大きなベッドがあり、その上には部屋の主である老人が横たわっていた。やつれてはいるがその身がまとうオーラはただ事ではない。薄暗い室内の中で、その眼光は魔獣のようにギラギラと輝いて見えた。皇帝ロデリック。大陸最大の版図を持つカザラス帝国の皇帝その人であった。


「あのバカ息子が……」


 ロデリックが呟く。


「アーロフは今回も相手に有効な打撃を与えることができなかったばかりか、自身の元にいた諜報部隊も行方不明となっております。不確定ですが、ヒルデガルドに寝返ったものと思われます」


 ユリアンネが気品漂う美しい声を室内に響かせた。ユリアンネが話している間だけ室内が別世界になったかのように感じられるほどだ。


「これ以上、アーロフの失態を見過ごすことは帝国の威信を落としかねません。アーロフは左遷し、第一征伐軍の指揮は他の者に任せるべきかと」


 ユリアンネは眉をひそめて言った。アーロフは彼女の弟にあたるはずだが、その声に家族の情は感じられない。


「しかし考慮して差し上げるべき事情もあるのではありませんかな?」


 今度はベンヤミンが口を開いた。主治医である彼が口を挟むことは珍しい。彼以外の三人の視線がベンヤミンに集まった。ベンヤミンも緊張しているのか、乾いた口で慌てたようにしゃべりだす。


「こ、今回は”神敵”アデルを討って欲しいと教会から請願書を出しております。生真面目なアーロフ殿下は準備もままならず出陣してしまったとか。それにドラゴンや謎の獣の襲来もあったそうではありませんか。それをひとえにアーロフ殿下の失態としてしまうのはいささか……」


「では教会の責任だと?」


 ユリアンネがベンヤミンの言葉を遮った。


「い、いえ! そう申しているわけでは……」


「それにドラゴンや魔獣の襲来など予見できたこと。勝てるかどうかわからないにもかかわらず出兵した。それがアーロフの失態ではなくて何だとおっしゃるのですか?」


 少し強い口調でユリアンネが言うと、ベンヤミンは気まずそうに俯いて押し黙った。


 室内にしばらく沈黙が訪れる。ヴァシロフたちはロデリックの言葉を待っていたが、ロデリックは考え込んでいた。普段であれば他の者の思考が追い付かぬほどの頭脳の持ち主である。しばしばその先を読み過ぎた言葉で聞くものを困惑させるロデリックが、これだけ黙り込み頭を悩ませるのは珍しいことだった。


「……第一征伐軍の指揮はイェルナーに執らせる」


 ロデリックが苦渋に満ちた表情で口を開いた。


「アーロフは副官として残らせろ。兄弟で力を合わせて武功を立てるのだ」


 ロデリックの言葉にヴァシロフとユリアンネは顔を見合わせた。


「しかし、イェルナー殿下はご経験が……」


「わかっておる。だからアーロフを補佐に残すのだ」


 ヴァシロフの言葉を遮りロデリックが言った。


「ラングール戦線ではヴェルメラの婿が結果を出しつつある。国内ではヒルデガルドが相変わらずの人気だ。アーロフとイェルナーにはさっさと結果を出してもらわねばならん。幸い、人的被害はそれほどでもないのであろう? 攻城兵器を優先的に配備し、その生意気な新興国を滅ぼさせろ」


「はっ」


 ヴァシロフとユリアンネが頭を下げる。しかしその表情は不満げであった。






「やれやれ……簡単におっしゃられますな」


 帝国大本営。帝国の軍事的作戦をつかさどる司令部だ。ロデリックの部屋を後にしたヴァシロフとユリアンネは、大本営の会議室の一つで向かい合わせに座っていた。二人の間のテーブルの上にはお茶が置かれていて湯気を立てている。二人は暗い表情でその湯気を見つめていた。


「皇帝陛下へのご不満であれば、私のいないところでおっしゃってくださいませんか?」


 ユリアンネが凛とした声で言う。ユリアンネは父親であるロデリックに絶対的な忠誠を誓っていた。


「そうはおっしゃいますが……ではどうされるおつもりですか」


 ヴァシロフが心外だといった様子で口を尖らせた。重圧を感じるロデリックから解放され気が緩んでいるのか、やや子供っぽい表情だ。


「攻城兵器はとっくに優先的に第一征伐軍に配備しております。しかしラーゲンハルト殿下の頃からダルフェニア軍には攻城兵器をすべて破壊されてきました。ラングール戦線でもこれから攻城兵器が必要になるというのに、いったいどうしろとおっしゃるのですかな」


 ヴァシロフが愚痴を言う。立場的にはヴァシロフの方がユリアンネより上であるが、ユリアンネは皇女である。そのため二人は互いに敬語を使って話していた。


「それに兵士も兵糧も足りていません。兵士は第一征伐軍に優先的に回しているため、第三征伐軍の再建もままならない。兵糧は元々不足しているのもありますが、ダーヴィッデが今年の収穫分を大々的に買い付けております。集めるには相当な出費を覚悟するか、民から徴収するしかないでしょう」


 ヴァシロフの愚痴は止まらなかった。


 ちなみにヒルデガルド派に身を転じたダーヴィッデは意図して兵糧集めを妨害しているわけではない。アデルたちに兵糧を奪われた第二征伐軍フォルゼナッハに高値で売りつけたことに味を占め、高額で今年の収穫分を買い付けているのだ。戦乱は終わりを見せず、帝国内部でも分裂の様相を見せ始めている。兵糧が高くなることはあっても安くなることはない。そうした商人としての勘が働いたのであった。その結果、帝国内での物価はかつてないほど高騰していた。


「陛下がお決めになったことです。それを実行するのは我々の役目」


 ユリアンネが言うが、その言葉には心なしか力がなかった。


 そんなユリアンネをヴァシロフはしばし見つめ、口を開いた。


「ユリアンネ様……皇帝の座を目指されてはいかがですか?」


「えっ……?」


 ヴァシロフに言われ、ユリアンネは目を丸くした。


 ”影の皇帝”と異名がつくほどユリアンネの実力は高く評価されている。しかし本人は継承争いに興味がなく、忠実な臣下として皇帝に仕えていた。だがそれでも次期第一宰相間違いなしと目されるユリアンネには多くの貴族が取り入ろうとしている。ダーヴィッデもヒルデガルドに寝返る前はユリアンネの取り巻きの一人であった。


 もちろんユリアンネ自身が皇帝陛下になることを望む貴族もおり、ヴァシロフの提案自体は意外なものではない。しかしヴァシロフは「皇帝陛下がお決めになること」とこれまで皇位継承争いに関して中立を貫いており、この問題に関して発言することすら控えていた。そんなヴァシロフからの発言であることがユリアンネには意外であったのだ。


「前から申し上げておりますが、皇位に興味はございません」


 ユリアンネは小さく首を振った。


「しかし帝国の安定を考えれば、そうも言っておられないのではないですかな? アーロフやイェルナーにこの偉大な国を引き継げるとお考えですか?」


 なおも食い下がるヴァシロフの言葉にユリアンネは顔を曇らせた。母親の違うアーロフやイェルナーとユリアンネはもともと仲が悪い。しかし第一皇子ジークムントが亡くなり皇位継承問題が持ち上がると、その溝はさらに深まっていた。


(個人的な感情で帝国内を乱すまいとは思っておりましたが……しかしアーロフたちに国を治める能力がないとなれば話は別……)


 ユリアンネは思いを巡らせる。


「もしユリアンネ様にその気がおありでしたら、私も協力させていただきます。私も帝国に忠誠を誓った身。このまま国が揺れ動くのを黙ってみているのは忍びありません」


「あなたが……?」


 ヴァシロフの力強い言葉に、ユリアンネに瞳に迷いが生じたのだった。

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