第16話
かさりと足許で落ち葉の音がした。一日の仕事が終わり、ゴーシェとともに離宮へとイツカを送るフェイはイツカの呟きを拾って足を止めた。
『……落葉の、季節になってしまいましたか』
「イツカ?」
イツカはフェイになんでもありません、と首を振った。
『こちらの落葉はあっという間なのだと思いました』
あたりは日が落ちて薄暗く、ゴーシェの持つ灯りがまぶしく感じられた。
ゴーシェは足許に寄ってきたクゥの大きな目に灯りが直接入らないよう、持ち手を変えた。
灯りが移動したことでフェイからは、イツカの表情がわからなくなった。フェイはイツカの方を見ても表情が伺えないことに、急に不安がこみ上げてきた。
あたりからはチロチロと軽やかな虫の声がして、季節が変わったことを知らせてきた。
『フェイさん、わたくしお話ししたいことがあります。近々、お時間を戴けるとうれしいです』
『それは、今じゃだめな話なの?』
『……義理は通そうかと、思いまして』
イツカはいつになくかたい声だった。
『わかった。式典の後は、決済事項が増えると思うから……式典が終わる前までで予定しておくよ。それでいい?』
フェイは立太子の儀のあとにしか申請が通らない書類たちを頭の中で思い返しながら、承諾した。
『ええ、お願いいたします』
イツカの声音がすこしゆるんだように感じられ、フェイはそっと安堵の息をついた。
水をさすようで悪いんだけど、とそれまで黙していたゴーシェがふたりに話しかけた。
『式典の前は支度があんだろ。そしたら……式典の前日か、式典が終わった直後とかにならないか?どちらにせよ、まとまった時間はとれないと思う』
『え、そういうものですか?』
『まあ、立太子の儀なんだから主役は殿下だが……とはいえその殿下が後見人なんだから、式典も晩餐会もイツカの席がある。つまり、拘束時間がイツカの想定より長い。殿下と御茶会をしたり視察に同行するよりも、さらに離宮ではりきって身仕度することになるだろうな』
イツカが、ひっ、と息をのんだのが聞こえた。
『席次は末席になってる。作法は教えるし、当日も隣から指示が出るから』
フェイはイツカの顔が見えないのに、彼女が今青ざめて目を泳がせている様がありありと浮かんだ。
『御茶会でも貴族のサロンでも城下の視察に同行したときでも、大丈夫だったよ』
何が問題?とフェイは問うた。
『……全く、欠片も、大丈夫くないです』
イツカはお腹が痛いですと小声で唸った。
『……鋭意努力します』イツカはひっそりと声を出した。
そこから離宮までは、薬草園の花壇の花が離宮に飾られていたこと、イツカがタミアとラングドンと作ったお菓子が美味しかったこと、イータとダンカの他愛ない喧嘩の話をした。
離宮の灯りがほうと木々の向こうから、フェイの目に飛び込んできた。離宮は来週の立太子の儀に向けて、離宮では遅くまで人が忙しく立ち回っているようだった。
イツカがゴーシェとフェイの名前を呼んだ。
イツカはふぅと息を吐くと、ひたりとフェイを見てそしてゴーシェを見詰めた。
『ルーゼ殿下にお伝えして欲しいことがあります』
◇◇◇◇
規則正しい叩扉音から一拍おいて静かに開いた。
「失礼します」
ダンカは手にした報告書の束をフェイに示して、幾つかの業務連絡をした後、懐から書類を一枚取り出した。ダンカは休暇の申請書です、と前置きをした。
「所長、俺も明日から実家に戻ります。よろしくお願いします。戻るのは3日後です」
「はい、確かに」
フェイは書類に不備がないのを確認して受領した。
「今日はこれで上がります」とダンカはフェイに声をかけた。そういえば…と、ダンカは思い出したことを口にした。
「この研究所は立太子の儀の時は立ち入り制限区域だから、出勤するのに許可がいるんですよね」
「そうだね」
「所長は当日はどうされるのですか?」
「これでもルーゼ殿下に招かれてここの所長をしている身だからね。式典も夜会も招待されてるから出席する予定」
イツカの通訳もルーゼ殿下きら任命されていることの1つだからね、とフェイは付け加えた。
「ダンカは?ササラは4日前から家に戻るって休んでるけど……間に合う?」
「大丈夫です。俺はササラとは違って家を継ぐわけではないですから、気楽なものですよ。それにササラは今イツカの先生をしてる、って伺いましたよ」
「あぁ、……うん」
フェイが目をそっと伏せた。
「所長?」
「……いや。立太子の儀が終わるまで、離宮への立ち入り禁止を言い渡されてね。ササラからルーゼ殿下に奏上したらしくて」
えっと……と、反応に困るといった風にダンカは眉を下げた。たしか、とササラから聞いた情報を思い返す。
「ササラは宮廷作法をイツカに教えてるんですよね?」
「うん。イツカから願い出るのは珍しいって、殿下も喜んでいたよ」
ダンカはフェイに執務室の椅子を勧められて、浅く腰かけた。
「ゴーシェによると、休憩のときに顔を出してはおやつを置いていくらしい」
「へぇ……」
「それがまた美味しいから、とイツカはその場のみんなに配ってお茶会をしてしまうらしい。ゴーシェなんかイツカの淹れた煎茶は渋くない、とか報告してくるんだ。離宮に勤めている人達にもすっかり可愛がられているらしくて……」
フェイは事務机に行儀悪く肘をつき、顎を載せた。
「様子見に行ったら追い返されてしまったんだ」
「殿下が受理している立ち入り禁止令なら」
当然でしょう、という言葉をダンカはフェイのまるで水不足で萎れた葉っぱのような顔を見て、呑み込んだ。代わりに「当日になればイツカに逢えますよ」とコメントした。
◇◇◇◇
立太子の儀式が行われる日は、空の澄んだ日となった。暑くもなく、寒くもなく、風が涼やかで庭園で待っていてもそれなりに快適である。朝方に顔を見たササラは、日焼け対策を万全に!とイツカに念入りに指導していたなあ、と庭園の着飾った女性たちを見てフェイは思い返していた。日暮れまで、宮廷の庭園を解放して軽食を振る舞っているのだ。今日はおめでたい日ということで、王都の人々も庭園に入ることができる。
イツカは<来る人>がハレの日に着るという振袖姿であった。なんでもササラが<来る人>の互助会に問い合わせて、着物や着付けができる人を手配したそうだ。袖がすとんと下に落ちていて、フェイの父がたまに着ていた浴衣とは違うもののようだった。
イツカはいつになく饒舌だった。頬をうっすらと朱色に染めて、ルーゼ皇太子殿下が綺麗でカッコよかったとか式典参列者たちの衣装の美しさ儀式の荘厳さについて、小声ながらも語らずにはいられないというように、素晴らしかったと感想を述べていた。
クゥは素知らぬ顔でイツカの肩で襟巻きのように寝息を立てている。イツカに重くはないのかと問えば、風が涼しいので温かくて良いですよ、と少しズレた解答をされた。ちょっと重たいとは思っていた様で、イツカの発言を聞いたクゥがこっそり自分に軽量化の魔法を使っているのを見た。
イツカは庭園の花を愛でながら、足の指先に引っかけて履くはきものですいすいと移動していく。
『それ、転んだりしない?』
イツカはフェイの声に足を止めて、くるりと振り返った。
『それ?……あぁ、下駄のことですか?下駄というのはこの履物のことですが、これのお話ですよね?』
イツカはフェイの視線の先を辿って確認した。フェイが頷いたのを確認すると、イツカは『そうですね……』どう説明しようかと頭を捻った。
『わたくしは歩きやすいと思います。足袋が……この白い靴下……足を覆っている布が丈夫なのですよ』
最後は訓練ですけれどね。筋トレと同じですよ、とイツカは空気を軽くするように笑った。
『訓練、ってことはイツカはそういう衣装を元の世界でも着ていたの?』
『そうですね……』
イツカは首を傾げ、どう説明しましょうか、と困った顔をした。イツカは小さな声で恐らく問題は無いのでしょうけれど……と口にしたが、フェイにはその言葉を聞き取ることが出来なかった。
外廷の表の庭園に集まる人々の声が、庭園の端まで響いていた。
強い風が吹いて、甘い花の香りを運んできた。
庭園の中央の人々からは死角になっている木の下で、小さな風の精霊達が旋風をつくって遊んでいた。
イツカは、不意に木立を見遣って口許を緩めたフェイを見て、コロコロと笑いだすと質問に答える代わりに別の提案をした。
『ルーゼ殿下に伺ったのですが、離宮の奥庭の東屋の花が見頃でオススメなのだそうです。行ってみませんか』
あと3時間は自由時間ですし……いかがでしょうか?
◇◇◇◇
道中のイツカは口数が少なく、離宮が近くに連れ表情が強ばって見えた。イツカの歩みに合わせて小さく揺れる袖が、実際の動きよりも視界でちらついて気にかかった。それを宥めるように、イツカに贈った簪が木漏れ日を反射していた。
風にのって届く甘い香りが強くなった。
まだ緑色をしている皐月の植込みの角を曲がると、イツカが感嘆と共に歩みを止めた。
『金色の絨毯ですね』
金木犀が花がほとほとと花を落としていた。
白で構成された東屋のすぐ隣に大きな金木犀が植えられていて、東屋の内にも金色の花を散らしていた。白い大理石に花が降り積もる様は確かに絨毯と言えた。
『離宮に木があるのだろうとは思っていたのです。……先日お茶の際に話題にしたところ今日が見頃だろうから自由時間に見に行くとよいと殿下にお許しいただいたのです』
イツカは楽しそうに、金木犀の花の散っている際へと近寄った。どうやら東屋に立ち入って、散っているとはいえ金木犀の花を踏むのは躊躇われるらしい。
離宮にも幾つか庭があるがこの金木犀の東屋はルーゼ皇太子の執務室に近く、イツカの生活区画からは離れた位置取りだった。
『見ることができて、嬉しいです。お付き合いくださって、ありがとうございます』
イツカは大きな木ごく小さな花を順に目で追っていった。
フェイがイツカの隣へ歩を進めると、イツカは嬉しそうに東屋を挟んで反対側のやや小ぶりの木を示した。
『この東屋を設計した人とは、趣味が合いそうな気がします』
銀木犀ですよ、とイツカは楽しそうだった。
『楽しそうだね』
『ええ、楽しいですよ』
イツカはにっこりと笑ったあと、すっと表情を消して『やっと……わたくしの腹も決まりましたし、ルーゼ殿下にも許可をいただけましたから』とフェイの目を見て、お待たせしてしまって申し訳ありませんでした、と伝えた。
『イツカ……』
『フェイさん、この簪の返礼をさせてください』
イツカは髪をまとめている簪に手を添えた。イツカは、後ろ手に回すと華やかな結び目から、小さな薄い包みを取り出した。
『タイです、もらって戴けると嬉しいです』
タイは瞳と同色の萌え出づる若芽の色をしていた。
フェイは緊張から唾液を嚥下しようとして、自分が酷く渇いていたことに気がついた。震えた声で問い返す。
『それは……返事は、是、と受け取ってよいの?』
『はい』
イツカは一呼吸おいてから『あなたと共に在ろうと、思います』と言い切った。
『ずっと一緒に居てくれるということ?』
『はい』
『もとの世界に、帰れないんだよ』
『そうですね』
『ほんとにいいの?』
『……はい』
フェイはそっとタイをイツカの手の上の包みから取り上げると『ありがとう……大事にする』と言った。
イツカは急に照れたように、耳を染め視線を反らして頷いた。今までイツカが掲げ持っていた手巾が、ぎゅうぎゅうと握り籠められていた。
フェイはイツカの様子を見て『イツカ……触れても、いい?』とお伺いを立てた。
『……どうぞ』
イツカはこくんと首肯した。
フェイはイツカの手に触れて、そっと指先を解くと指先に唇を寄せた。
『イツカ、結婚しよう』
イツカは『はい』と小さな声で応えた。
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