第14話

第一王子の離宮の白壁が夜明けの光に淡く浮かんで見えた。この時期の日の出は、あっという間だ。

『ああ、もう着くね』

薬草研究所からなにかを考え込むように、黙していたイツカが足を止めた。イツカにつられたようにフェイも立ち止まった。

『フェイさん』

イツカはいつもよりもずっとか細い声でフェイの名前を呼んだ。大人しく抱きかかえられていたクゥがイツカの様子を首を伸ばして伺った。

フェイは離宮を背にして、イツカへ向き直った。

宮廷の雑木の隙間から朝日が射し込んで、フェイからはイツカの表情が判別できない。宮廷内に暮らす精霊たちの光が、イツカの周囲を漂っていた。イツカは光の中に居た。

『確認したいことがあります』

フェイは頷いて、話の続きを促した。

イツカはフェイに礼を言うと、静かに細く息を吐き出したあと、言葉を選ぶようにゆっくりと告げた。

『この国の言葉を、聞きたいのです』

お願いします、とイツカはフェイに請うた。その声音が心細く震えているようにフェイには感じられた。

『いいよ』

フェイにはイツカの考えはよくわからないことの方が多かった。今もフェイには、ハッキリしたことは何もわからなかった。それでも、フェイはこのお願いがイツカにとっては意味があるのだろう、と感じられた。それだけだったが、それで充分だった。

「ねぇ、イツカ。朝焼けだよ」

イツカの髪に挿した簪が朝陽を反射して眩しかった。フェイは目を細めて「キレイだね」と言った。

イツカははたはたと涙をこぼしていた。頬を伝う涙が光を含んだ。

『なぜ、泣いているの?』

フェイはイツカが泣いていることに気づくと、涙を拭おうと手を伸ばしたが、イツカに触れる前に止まった。フェイは伸ばした手を空中でおろおろと上下させていたが、やがて引っ込めると自身の懐を探った。しかし、懐に目当ての手巾はなく、イツカに渡していたことを思い出し肩を落とした。

イツカは返事をしようとしてはしゃくりあげてしまうことを繰り返し、言葉を紡ぐことができなかった。

『イツカ……悲しいの?』

イツカは首を横に振った。口を開こうとしては、呻いてしまい、また首を振るを繰り返していた。

『じゃあ、悔しいの?それとも嬉しい、とか』

イツカは首を横に振るばかりであった。フェイは流れるままのイツカの涙に、居たたまれない気持ちになって『……イツカ、涙を拭いてもいい?』と問うた。

イツカは首を横には振らなかった。

フェイはそっとイツカの頬に手を伸ばした。フェイは、植物を採集するときその柔い花びらを散らさぬように、花粉や胞子を散らさぬように、実に傷を付けぬよう触れていることを思い出した。イツカの頬は柔かった。微かに研究所で作っている美容液の残り香がした。フェイの指が雫をそっと掬った。フェイは唐突に自分がしていることが、山野草の貴重な原生を踏み分け乱しているような、酷く罪深いことをしているような心地がした。しかし、それは同時に叫びだしたいような駆け出したいような、狂おしい衝動を胸にもたらした。フェイは自身の中に芽吹いた種子がいつの間にか、葉を繁らし花を開いていることとを自覚した。

『イツカ……』

フェイは赦しを請うようにイツカの名を呼んだ。

日が昇っていった。

イツカの表情が判別出来るほどに、辺りを照らした。精霊たちは塒へと帰っていき、雑木の落と蔭を認識できるようになった。

イツカはふっと、フェイから身を引くとフェイを追い越して離宮へと歩を進め、また立ち止まった。

『ありがとうございました』

それからくるりとフェイを振り返って、にこりと明るい笑みを作って『離宮へ急ぎましょう』と指差した。クゥがするりと、イツカ肩に登って丸まった。

フェイは先程のイツカの様子について問い質したくて、喉元まで競り上がった言葉をぐっと呑み込んだ。そして何も言わず、イツカとともに離宮へと帰ることを選んだ。



◇◇◇◇


それからイツカが突如、所在不明になることはなくなった。


◇◇◇◇


イツカはもとの世界へ帰ることもなかったが、この世界の言葉は相変わらず幼子よりも拙い発音しかできなかった。読み書きも、この世界に残った<来る人>が作ったヒースラント語の辞書や魔術師が使う指南書で、少しずつ勉強していた。

薬草園の研究所で雑務を淡々と誠実にこなしていた。その傍らには常にクゥが寄り添っていた。クゥはヒースラント語を話すことは控えているようだが、イツカとは時々<来る人>の言葉で話をしている様子だった。イツカ以外の人間がいる前では、クゥと鳴くのみであった。近ごろのクゥは独り立ちしたとはいえ弟子であるフェイよりも、イツカの傍に居て離れなくなった。クゥに聞きたいことが幾つもあったが、話をする時間をフェイに割くことはとうとうないまま現在に至っていた。

「イツカの傍に居てくれるのは、ありがたいのだけれど」

フェイは思わずこぼした独り言に頭を振ると、朝の身支度を整えていった。独身寮の朝の賄いを食べて、外に出て土の匂いを感じた。昨晩の雨の名残とこれから降る雨の気配に、薬草園での今日の職員たちの作業予定を思い起こしていた。

「まあ、すぐにやむかな」

フェイは予定を大急ぎで変更することもないか、と風にのって雲がやってくる方向を眺めてから歩きだした。


庇護を受ける第一王子の離宮から、研究所への行き帰りはフェイとゴーシェが付き添っていた。フェイはこの送迎の時間を気に入っていた。

離宮の部屋を訪ねる、リリーネの出迎えを受け、イツカに朝の挨拶をする。イツカは離宮の応接間で、クゥの毛繕いをしてた。イツカは扉の開く音を聞き、フェイの方を見た。ぱちり、とイツカと目があった。

イツカの座っていたソファの近くには、大きな窓があった。その窓から朝の光が入ってきて、イツカの簪で反射して輝いた。イツカの結い上げた髪に自分が贈った髪飾りが挿してあることに、フェイは駆け出したいような衝動が宥められているのを自覚していた。

イツカがその簪を使っている間は、待つことができる。自分の気持ちを確認をしてから、フェイはイツカに朝の挨拶をするのが日課となっていた。

イツカはフェイの出迎えをしたリリーネに礼を言って、出勤時間でした、と反省したように呟くとソファから立ち上がった。慌てて手にしていたブラシをクゥのために置かれているクッションの近くに置いた。

イツカの様子に微笑ましい気持ちを抱きながら、声をかけた。

『おはよう、イツカ』

『おはようございます。フェイさん、ゴーシェさん』

イツカが名前を呼んだので、振り返れば入口からゴーシェが入ってくるところであった。ゴーシェが緩く片手を挙げた。離宮に来る道で見かけなかったということは、先に離宮に来ていて第一王子に報告なりしていたのだろうなとフェイは考えた。 

『おはよ、イツカ』

先に部屋に来ていたフェイを追い越して、ゴーシェはイツカの近くへ足を進めた。いまだにソファで丸まっているクゥを見て、イツカに話し掛けた。ムクリとクゥが身を起こした。イツカが空気に溶けるような笑い声を立てた。ゴーシェとイツカの視線の先のクゥは、朝陽に輝くほど毛並みが整っていた。イツカは小さく誇らしげにゴーシェに言葉を返した。

イツカの警護の命が正式にあってから、ゴーシェはめきめきと<来る人>の言語を習得していき、今やフェイを通すことなく成立させていた。ゴーシェは昔から器用で、文武両道を地で行く性質だったな、とフェイは思い返していた。

『そろそろ、行こうか』

見るからに機嫌の良さそうなイツカと、毛並みがの整った毛並みに澄まし顔のクゥ、そして愉しそうに笑いあっていたゴーシェは、とても収まりのよい関係に思えた。自分がやきもちを妬いているのを他人事のように知覚しながら、フェイは心のなかで「待つことができる」と唱えた。    


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