第10話


光の収束と共にフェイは肌に薄い膜を感知した。そして果実の種子が殻を破り芽を出すように、ぐっと押し入るように、世界の層をひとつ越えたのだ。魔術式がその役目を果たすまでは、いつもの薬草研究所と精霊たちの棲処が重なって見えた。チカチカと視界が騒がしい。フェイは知らず知らず詰めていた呼吸に意識を向けた。ゆっくりと息を吐き出して、視認しない対象を決めていった。

精霊たちの暮らす層は、西に向かってまっすぐ歩いていたら東へ至り、西へ戻ろうとすれば同じ場所から動けなくなるようなクセのある世界だ。基礎世界と共通する法則はあれど、法則をまげることもまたここの特徴なのだ。目的を明確にしなければ、当て所なく彷徨うほかない。

基礎世界に根差して生きるものにとって、異なる層で行動するのは望ましい事ではない。下手を打てば、元の世界に戻れなくなってしまう。魔術師でも、精霊と契約するために層を越えたまま帰れなくなるものが毎年出てしまうのだ。

「まずは、クゥのところへ行きたい」

フェイは自分へ言い聞かせるために、言葉にした。


フェイは視界が安定したところで、周囲を見た。研究所の建物と同じ場所であって、同じ層にはない場所。研究所建物の輪郭は消えたのに、なぜか研究所のロビーにラングドンが飾っている花瓶はそのままだったりする、ソファがないのにソファ似合わせたローテーブルはある、ここはそういう場所だ。

「花瓶の花とローテーブルは、精霊が通路にしていたのか、気紛れか……。ひょっとしてクゥ師匠の抜け道?」

精霊の通り路で常用のものだとしたら、自分が気がつかなかったというのは、魔術にそれなりに自信があっただけに、面白くないなぁと顔をしかめた。フェイは脳内で研究所に戻ったらすることリストに、薬草研究所の精霊の通り路の再確認を加えた。

遠くにひらひらと精霊たちの放つ光が飛び交うのが確認できた。厳歌について精霊たちに尋ねようと思い、光の方へ足を向けたとき、目の前をふよふよと何かが横切った。魔力を帯びた植物であった。緑の葉をのばしたその植物は、白い根も顕に空中を漂っていた。目は思考するよりも先に、植物を観察し始めた。

「……これを植物に分類していいのかは、いつも悩むな」

植物を日ごろ扱う者として、また、植物にゆかりのあるものとして毎回疑問に思うことだった。

浮かぶ植物のしなやかにのびた葉の蔭に、薄い墨色の翅が見えたのに気がついた。虫の翅を持つ精霊が、空中に浮かぶ植物に腰かけていたのだ。

『こんにちは、素敵な翅のお嬢さん。この辺りに人間が紛れて来なかったかい?獣型の精霊と一緒だと思うのだけれど』

『こんにちは、魔術師さん。ええ、見たわよ!精霊の長が直々に案内していたのよ』

『へえ!それはすごい』

『そうでしょう!それで今夜は、精霊の長がお客人のために歓迎の宴を催すのよ。誰でも気兼ねなく参加するよいと言っていたわ』

『そうなのかい?僕も行ってみたいなぁ』

『あら、そうなの?じゃあ、連れていってあげるわ。一緒に行きましょうよ。ご馳走も出るのよ』

ふふと精霊が薄い翅を震わせて、軽やかな音をたてた。それは鈴の音にも、秋の夜の虫の声にも似ていた。翅の音は始めは幽けく響いていたが、やがて一つ二つと翅の音が混じり合い大合奏となった。翅の音を奏でていた精霊たちがフェイの周りに集まり出し『魔術師だわ』『人間だわ!』『いや、精霊だ』と好きなようにフェイを品定めしていた。

『今夜は、とても楽しいお祭りになるわ。だって、あのお客人は<来る人>だったもの!』

フェイは愉しそうに飛び交っている精霊たちを見ると『翅の隣人たちよ、宴の会場までご一緒しても?』とお伺いをたてた。

フェイが始めに声をかけた精霊が『もちろんよ!』と腰かけていた植物からフェイの肩へ翔び移った。その様子をみて仲間たちもフェイの衣服の裾を摘まんだり、髪を触ったりして、フェイの同行を許容した。

『光栄だ、ありがとう』

フェイは翅の精霊たちの先導で宴の会場へと向かったのだった。


◇◇◇


翅の精霊たちは、フェイを草原へと導いた。ひらけた草原は丘になっていた。その丘に大きな岩があり、石舞台としてこの宴の主賓がいるという。岩の近くには大きな松があった。丘を中心とした草原に、さまざまな種類の精霊が集まっていた。翅の精霊たちのような小さいものたちが踊り、またあるものは岩ほどの大きな体躯で寝そべり、フェイよりも背の低い人形の精霊がお喋りに興じていた。精霊たちのお喋りには、精霊の公用語である<来る人>の言葉が使われていた。

フェイは翅の精霊たちに礼を伝えて別れると、厳歌がいると思われる石舞台を目指した。

宴の会場では、主宰の饗したもののみならず、酒や果実などを好きに持ち込んでいるようだ。出店を構えるような商魂逞しいものもいるのが見てとれた。

「おや、いらっしゃい。お客様。今日の記念に果実やお酒お茶はいかがです?お得意様には、組紐のご用意がございますよ。お土産にぜひ」

「え?」

フェイは急にヒースラント王国語が聞こえてきたことに驚き、出店の前出足を止めた。

「……なぜ、ここにあなたがいるのです?小間物屋?」

出店の商品である柑橘を1つ手にとってフェイに手を振っていたのは、歓楽街の小間物屋の店主であった。

「ご挨拶ですねぇ。ふふ、次は店にあのお嬢さんと一緒にきてくださいね。花屋の若も気にしてましたよ」

小間物屋の店主は眼を細めて、そっとフェイに耳打ちした。フェイは、小間物屋のからかうような声音を聞いて、苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。

「わたしがここに居るのは、もちろん商売のためですよ。決まっているじゃあないですか」

小間物屋はフェイのしかめ面を見て、くふくふと愉しげに笑った。

「まあ、そんなことよりも。この組紐素敵でしょう?今日のイチオシ、一品限りです。きっと意中のお嬢さんも、喜びますよ」

「いや、結構だ」

フェイは、急いでいるのでこれで失礼する、と立ち去ろうとした。

「そうですね。イツカさん、早くしないと帰れなくなってしまいますものね」

「……は?」

フェイは厳歌の名前が、小間物屋の口から出てきたことに思わず足を止めた。

「おお、恐い恐い」小間物屋はフェイの表情を見て、余り恐い顔をしていると精霊たちに悪戯されますよ、とからかった。

「……ご忠告どうも。それで、何故あなたが彼女の名前を知っているのです?城下への正式発表はされていませんが」

「嫌ですねぇ。正式発表はされていなくても、箝口令が敷かれていたわけでもあるまいし。人の口に戸は立てられぬ、って<来る人>の彼女自身が言うでしょうよ。それに、商売は情報が命ですからね」

「なるほど。では、先程の"帰れなくなる"とは、どういう意味での発言なんだ?」

「それはもちろん、この精霊の塒に留め置かれるという意味でありこの世界に留め置かれるという意味ですよ」

「その根拠は?」

「……この組紐、良いと思いませんか?」

小間物屋は、フェイの問いには答えず手許の組紐を指し示した。

「……」

「ねぇ、魔術師さん。前回の簪、いかがでしたか?」

フェイは、ぐっと押し黙った。

「……幾らだ?」

「まいど」

小間物屋はにっこりと、フェイに組紐を手渡した。

「ああ、これはサービスですが、わたくし店は基礎世界の食べ物を持ってきているんですよ。精霊たちの嗜好品としてね、評判なんです」

どうぞ、とフェイに屋台の柑橘も渡した。

「……わたくしがこの辺りの屋台を見た限りですけれどね、基礎世界の品を扱っているのはうちだけですよ」

小間物屋は声を潜めて、フェイの眼を真っ直ぐに見て伝えた。フェイは、ひゅ、と息をのんだ。

魔術師が元の世界に帰れなくなる理由の1つに、精霊の世界に馴染みすぎたというものがあった。要因としては、長時間の滞在、力のある高位の精霊に囲われた、精霊に帰り道を隠された、精霊の世界の食べ物を口にした等という理由が考えられているが定かではない。精霊の塒から帰れなくなった者に逢って基礎世界に帰ったという記録がないのだ。

「お代はツケにしておきますから、今度支払いに来てくださいね」

小間物屋は、顔を青くしているフェイに、仕方がないですねぇと苦笑すると、石舞台の裏手を目指して歩くと良いですよ、とフェイの背中を押した。

「今後とも、御贔屓に」


◇◇◇◇


フェイは小間物屋の話を聞いて石舞台を目指して歩き出した。丘の勾配に差し掛かる頃には駆け出していた。足許の動く草がフェイの足に絡まって、何度か転びそうになるが、足を止めることはなかった。近くで踊っていた、精霊たちが何事かとフェイを見ては「魔術師よ」と噂した。フェイの視界松の根が見える頃には、宴のざわめきにの中に駆けていく魔術師の話が加わった。精霊たちは噂好きであった。

松の木の根本には、青い龍がゆったりと寝そべっていた。石舞台の上には赤い大きな鳥が留まっていた。青い龍の手のすぐ近くに、卓が置かれていてそこには果実や酒が饗されていた。卓の果実を剥いていたのは厳歌で、果実を剥いては膝に座っている白い獣の口へ運んでいた。

『イツカ……!』

フェイの声に厳歌は、ふと顔を上げた。

『……フェイ、さん?』

驚いたように眼を丸くしていた厳歌は、フェイが自分の目の前に来たところで『ほんとに、フェイさんだ……』と声を震わせ口許を覆った。イツカの膝の上で果実を咀嚼していたクゥの喉が鳴った。

『思っていたよりも、早く来たね。フェイ?』

『クゥさん……?』

イツカは、膝の上の獣を初めて見るもののように見下ろした。クゥさんの言葉の言葉がわかる……、とイツカは小さく呟いた。

『師匠……』

フェイはクゥに物言いたげに口許を動かしたが音にはならず、苦々し気に首を振った。

クゥはイツカの驚きにもフェイの苦い顔にも反応せず、すまし顔であった。

『イツカ、迎えに来ました。帰りましょうか』フェイはイツカに右手を差し出した。

『ありがとう、ございます。わたし……フェイさんに助けてもらってばかりですね』とイツカは俯いて声を震わせた。イツカはぐっと唇を噛むと、決意を固めてフェイの目を見た。イツカはフェイの手を執ろうとした。


『なんで?』


イツカの手がフェイの手と重なる前に、クゥはイツカの袖口に片前脚を軽くのせた。

『っ!』

クゥの重さを感じさせない動作に反して、イツカは上体のバランスを崩した。

『イツカっ』

フェイが慌てて、両手でイツカを抱き止めた。クゥはその様子に鼻をならした。

『師匠!いきなりどうしたのですか』

『どうしたのは、こちらの台詞だよ』

クゥは顎を反らせて、フェイに不満を訴えた。

『フェイ、ボクははじめに伝えたはずたよ。今回こそは精霊が<来る人>を保護したいのだ、ってね』

忘れたのかい?クゥは尻尾をゆらりゆらりと左右に倒した。

『しかし、イツカの後見人はヒースラント王国のルーゼ第一王子ということで合意したはずです』

『フェイ。ボクの要求はあくまで<来る人>であるイツカと共にあること、だよ。勝手に取り違えないでおくれ』

フェイは今更何を……と困惑を隠せず、眉根を寄せた。

『それに本来<来る人>がもとの世界に帰りたいと意思を伝えた時点で、世界はそのように動く。おそくとも10日あればもとの世界に戻っていた。それがイツカに関しては作動していない。これは、何故かフェイも不思議に思っていたのだろ?』

『それは……否定できませんが』

『世界の仕組み作動していない、ということは、仕組みに関与できる存在が妨害している、簡単なことだ』

『それは、つまりあなたがた精霊がイツカをこの世界に留めておくよう働きかけた、と?』

『半分正解』

『……半分?』

『イツカが帰れないのは、半分はボクたち精霊が望んだからさ。でも、残りの半分は人間たちの都合さ。心当たりがあるだろう?』

フェイの脳裏にルーゼ王子の顔が浮かんだ。

イツカはフェイとクゥの問答に驚いた。イツカはぐっと唇を噛み、思わず口をつきそうな言葉を呑み込んだ。唇の隙間から息を長く吐き出して、冷静になれ、と言い聞かせ会話に耳を澄ませた。

『言っておくけど、第一王子だけじゃあない。王国の内政のバランスも大きな理由ではあるけどね』

『それは……』

『フェイ。ボクはキミの師匠だけれどね。キミはボクの誘いを断って人間になると言い張ったのを忘れたのかい?人間の事情を精霊に訊くなんて野暮だよ』

クゥは困った子だね、と首を振った。

『それとも、人間なんて重たいものは止めて、精霊として暮らすかい?今なら、師匠が何とかしてあげるよ。かわいいボクのフェイ。戻っておいでよ』

フェイは言葉が出てこない様に固まってしまった。

『フェイ。イツカと一緒にここでボクらと暮らそうよ』

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