朝が来た。


 黄色い暖かな光を湛えたカーテンを開けると、清々しい青空と斜向かいの小汚いアパートが目に映る。開いた窓から、それなりに澄んだ空気が流れ込む。ピーチクだのパーチクだのと雀が鳴いている。


 仕度だ。


 シャツに腕を通すと溜め息が漏れる。歯を磨いていると泡がはみ出る。鏡にはだらしない痩せぎすの男が映る。タイの締め方はいまだによく分からない。カレンダーが目に入る。



「……あれ」



 ノートパソコンの電源を入れた。

 なぜだっけ。


 私はこれから市役所に行くのだ。臨時職員として勤めているのだ。だから、これから鞄を持って仕事に向かうのだ。向かうのだ。そのはずなのだ。



「期限は一ヶ月間」



 えっ。


 声が漏れたのは、きっと恐怖だ。

 その少女はあぐらをかいていた。背後に。逆さまに。真っ黒なモニター越しに。彼女は、天井に座っていた。



「夢じゃなかった」


「夢だけど、夢じゃなかった」



 眉間に皺が寄るのを感じる。

 まるで、軽文学だ。アニメや漫画を引用した節操のない模倣につまらないオマージュ、ネットのスラング、若者言葉、身内ネタ、一過性の情報ばかりで普遍性に欠けた描写力。私の敬愛する、かの有名な掌編作家は……――


 軽文学。


 ライトノベル。



「……契約したのだったか」


「うん」


「書かないといけないのか」


「うん」


「軽文学を」


「ライトノベルを」



 頭を抱えた。

 便器に顔を突っ込まんばかりの勢いで、内蔵にあるものすべてを吐き出した。



「命の延長には対価が求められる。対価とは、延命する価値のある人物であることを示すということ。それを判じるため、死神によって対象の特性を加味した課題が与えられる。私があなたに与えた課題は『軽文学を執筆し、成果を出すこと』。条件は伝えた」


「この素っ頓狂な事態は、もういっそ飲み込もう。受け入れておこう。その上で、小説というのは如何に名作であろうと一ヶ月やそこらで結果が出るものではないのだ。だから、もう、無理なのだ」


「え、そうなの」


「は――」


「待って。じゃあ、ええと………三日で短編のファンタジーライトノベルを書くこと。三日後に出版社の短編募集が締め切られるから、それに応募せよ。結果が出るまでは…三ヶ月………これならギリギリ……うん、じゃあ、それまであなたの命は保留。死んでも死なない。でも、賞にかすりもしなかったら本当の死亡。よし、これで」


「滅茶苦茶だ」



 この状況も、彼女が言っていることも、意味がわからない。発言があやふやでは信用もならない。何より創作上自由に性格を描ける死神と呼ばれてきた存在がこれでは、今後の執筆活動にすら支障を及ぼしそうだった。


 ――創作活動か。


 推理作家になりたかった。

 SF作家になりたかった。

 ファンタジーは……幻想小説は、苦手だ。


 何でもありじゃないか。理屈がないじゃないか。目の前であぐらをかいていた少女は傾ぎ、そのまま天井からすら離れ、ふよふよと宙に浮きはじめる。今、まさにだ。ここで宇宙空間に揺蕩うみたいな顔をしてバク転宙返りをしているこの少女のように、ファンタジーはとりとめがない。



「だが、書かなければならないのだな」


「うん」



 市役所に電話する。はい、石田です。体調が優れなくて。すみません、はい。有休で。ご迷惑をおかけします。あ、柏木さん。いえ、お気になさらずに。大丈夫ですから。はは……。はい、ありがとうございます。お疲れ様です。


 ワードプロセッサーソフトを立ち上げる。



『そんな生活は辞めて、早いところ定職に就きなさい。母より』



 思わず目の端に入った新着メールをさっと閉じる。


 キーボードに指を滑らせた。

 限られた時間内に、短編のプロットを練り上げなくてはならない。一日は推敲に使う時間が欲しい。欲を言えば二日だ。誤字は極力減らしたい。だから、今の私に求められるものは――



「できた」


「え」



 完成した原稿を死神女に差し出した。

 陽はまだ高く昇っていない。それもそうだ、一時間で書き上げたのだから。読者の感想を求め、修正する余裕すらあるとは我ながら才気が恐ろしい。



「…………」



 しかし、彼女の反応は芳しくなかった。



「なんだ、その目は」


「…………………」


「何か言いたまえ」


「……………」


「おい」


「………」



 これはダメ。

 そう言って突っぱねられる。


 何が悪かった。これは一番の自信作だ。二年前に書いた私の短編に手を加えただけだが、十分面白いじゃないか。人を笑顔にできない男の笑わせ奮闘記。哀れでハッピーな物語。ライトノベルとは……確かに、言い難いけれど。


 そういうことかと振り返ったが、彼女はニコリともしなかった。


 自身の書いた過去作を短編用に校正しては披露する。効率を考えればベストな判断だ。だが、そのたび、死神女は首を横に振った。何を書いても。何を見せてもだ。返答が早すぎて、ちゃんと読んでいるのかすら危うかった。陽が沈み始めた頃、私は気が触れたようにキーボードを打ち込んだ挙げ句、印刷した原稿を彼女に突き出した。



「こういうのなら満足か、貴様は」



 完全な新作だった。


 異世界に転生した高校生が、剣と魔法でモンスターをやっつける。ヒロインが死ぬ衝撃の展開に、語尾のおかしな獣人間。お色気につまらないギャグ。個性的な美男美女に囲まれ、楽しい宴を開いて万々歳の皆の衆、そして……



「なに、このオチ」


「不思議な魔法でみんな蘇ったのだ。何もおかしい点などあるまい。伏線も張っていたし、呪文詠唱は文字を大きくしたから随分インパクトのある画作りであったことだろう。この物語の包含するメッセージ性は、そうだな……作家性の堕落と創造性の終焉といったところか」



「応募候補そのいち」



 はあっ。

 私は白目を剥いてバク転宙返りした。

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