煌々と光っている炎が眩しい。


 この場合、弁償は誰持ちになるのだったか。住人か。ならば、一室分は私がツケを払うのか。焼失の損害をか。いや、たしか払うのは大家だ。火元に関わらず、火災が故意でなければ、だが。かわいそうに。いや。いや。そういうことではない。



「データが――」



 ぽつねんと。


 野次馬を尻目に立ち尽くしていた。そう思っていた。


 どけ。


 どけ。


 声に出すこともなく大粒の汗を流しながら、駐車場の野次馬共を掻き分ける。掴んでくる腕を払いのける。振り返ると、腕の三本ある男が私を見ていた。やめてくれ、関わっている暇などない。


 たのむ。


 たのむ。


 私の大事な小説のデータがまだ中に残っているんです。

 そんな言葉をあげるのがことここに至って恥ずかしくなり、「あっ」という消防隊の制止を振り切ってアパートに駆け込んだ。やめろ。とめるな。どうせ、誰にも私の崇高な世界観なぞ理解しえぬのだ。

 作り話と命、どちらが大事なのかなどと表面的な言葉で足を引っ張るだけなのだ。



「げえっ、げえっ」



 愚かな男は煙を吸う。

 ハンカチ、ちゃんと濡らしたというのに。

 鍵はどこだ。鞄の右ポケットだ。あった。熱い。熱い。

 部屋は二階だ。知ってる。当たり前だ。あそこだ。

 熱い。 

 行け。行け。熱い。行け。

 突入だ。



「――――あ」



 違和感があった。

 部屋に向かうほど、轟々とうねる炎が勢いを増していく。まるで、人を食らう怪物の大口のように。いいや、そんな比喩などするまでもない。

 これは、そうか。


 ――火元は、私の部屋なのか。


 どうして。そんな言葉よりも先に玄関へ転がり込んだ。火元がここだというのであれば、一層危ない。データが。原稿が。私のすべてが。

 どうか壊れていてくれ、スプリンクラー。

 今まさに失われようとしている努力たちに邂逅しようとしたときだった。



「…あなたはここで死ぬ」



 そこに、彼女はいた。

 四畳半に置かれた卓袱台の上でちょこんと膝を抱えている。少女とも言うべき幼い体躯であったが、どこか暗澹たる憂いをその目に湛えていた。そして、身動ぎひとつもせずに私を出迎えたのだ。燃え盛る赤い渦などものともしないかのように。



「あなた、ここで何をしているのです」


「待っていた」 


「誰を」


「あなたを」


「はやく……逃げなさい。火が、とても強いから……」


「…死因は一酸化炭素中毒」



 その少女には、妙な気持ち悪さがあった。



「死の間際、人は死神を視る」



 逃げる気がないのなら構っている暇はない。原稿だ。それとUSB。幸い水浸しではない。机の引き出しをひっくり返すと、すぐにそれらは見つかった。



「小説」


「ええ、そうですが……」


「………」


「中身、見たのですか」


「いいや」


「……それじゃあ、僕はもう行きますから」



 心苦しくも、部屋から逃げるようにまろび出た。

 それから、すぐに引き返した。 



「来なさい。ここにいては危ないっ」


「あなたはもう助からない」


「話はあとで聞くからっ」


「助からない」


「ならば、君は助かりなさいっ」


「ここで息絶えるか。それとも、軽文学を書くか」


「何を……言っ……て……――」



 あれ。


 足がもつれる。


 体がうまく動かない。


 揺れる天井の下でふらふらと蹌踉めきながら考える。軽文学。ライトノベル。ふざけた文句だ。くだらない要求だ。そうやって意外性を切り貼りしただけの支離滅裂な物語を……ええと、なんだっけ……過失が……火室……そうだ、随分、熱いではないか……熱すぎて、逆に、寒いみたいな……ああ、朦朧とするのはなんだ……なんだこれは……三点リーダーを、奇数回……使うんじゃ……あ……――



「あなたには、ふたつの道が開かれる。ここで息絶えるか。それとも―――」



 最後に、そんな言葉を聞いた気がする。

 私は何か言った。けれど、なんと応えたのだろうか。覚えていない。薄れゆく意識のなか覚えているのは、酷く不都合な契約を結ばされたという事実だけだった。 

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