第8話(完)

 しおりが燃え尽きてしまうと、今度は太陽が変化を認識できないほどの速さで沈んでいくのを眺めた。空と山はグラデーションに染まり、夕日はまぶしくて視界に紫色の跡が焼き付いてしばらく取れなかった。さっきかいた汗が蒸発して、身体が震えるほど冷え切っていた。

 「このあとの予定って、帰るだけ?」

 「そうだね。駐車場まで戻るだけ。今夜は近くの宿で一泊して明日はほとんど移動だけ」

 「そっか。帰るところがあるっていいことね」

 「僕たちは帰らなければならない」

 「帰らない人もいる」

 「帰らない人がいるからこそ、帰らない人のためにも、僕たちは帰らなければならないんだよ」

 「ふーん。帰らなければならないって、本当にそう思う?」

 彼女は振り向いて、まばたきもせず僕の目を見つめた。彼女の虹彩に囲まれた自分の姿が見えた。彼女の中の僕は、僕が思うよりもずっと小さかった。髪型の違いを除けば、彼女の顔は中学生のときのそれとまったく同じように見えた。唇だけがつやのない黒紫色になっていた。

 僕は彼女に口づけしようか迷ったが、結局しなかった。たぶん最低な思いつきだが、自然に脳裏に浮かんだのだ。それはこの場に不釣り合いのように感じられたし、なにより亡き者への侮辱になりえた。代わりに、僕はずいぶん遅れて、うん、とうなずいた。僕たちは帰らなければならないのだ。もう帰らない者の義務を背負って。

 彼女は体を動かさず瞳だけ僕からそらして、何かを熟慮してから言った。

 「今回は付き合ってくれありがとう」

 彼女の微笑みに合わせて、僕も笑顔を見せた。無理やりな笑顔だった。彼女はどこか憑き物が落ちたようなすがすがしいオーラをまとっていた。

 僕が丘に背を向けて歩き出したとき、背後から彼女の声が聞こえた。

 「ごめんね、さようなら」

 そして振り返ったときには、彼女はもう橋の上にはいなかった。彼女がそこにいたはずの空間にはすっぽりと穴が空いていた。

 太陽が完全に水平線の向こう側に消え入り、淡い橙色だけが名残惜しそうに彼方に残されていた。

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帰る人、帰らない人、帰らなければならない人 白瀬天洋 @Norfolk

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