第40話 となりの市村さん
となり(と言っても農道を挟んでとなりなのだが)の古民家に住む市村さんの朝は早い。僕たちが田んぼの見回りをしている頃には、すでに裏の雨戸が開けられ、換気のための網戸になっている。そこで、市村夫人の方をよく見かける。真っ白な髪を後ろでお団子に丸め、着物姿で稲の様子をニコニコと眺めている。僕と妻が、おはようございます、と市村さんちの裏にある田んぼで声をかけると、おはよう、今日も元気ねぇ、と優しい声が返ってくる。
「そろそろオタマジャクシがカエルになる頃ですんで、カエルの侵入に注意してくださいね」
アオガエルは親指サイズの小さなカエルだ。ちょっとした隙間から、家や風呂場に侵入したりする。農家一年目の去年、うっかり納戸の網戸を引き忘れてリビングの灯りに釣られたアオガエルが大量に侵入して、妻と共にてんやわんやの大騒ぎになった。
「はいはい。私は平気なんだけど、主人がカエルが苦手だから。戸締まりはしっかりしますよ」
市村さんはくすくすと子どものように笑った。おぅい、メシだぞぉ、とご主人の声が聞こえた。はぁい、と可愛い声が返事をする。
市村さんは、住んでいたマンションが老朽化で建て直しをするため、街からちょっと離れたこの家を買い取って移り住んだそうだ。お年寄りだから街から近いほうがいいんじゃないかと思ったが、緑の見える場所がいいと、夫人の希望と、天井の高い一軒家のほうがいいという長身のご主人の意見の一致でここになったらしい。
ちなみに、僕らが耕している田んぼと畑は、市村さんの土地だ。農業をしたいと脱サラしてやってきた僕らに、格安のこの家を紹介してくれて、無償で田畑の土地を貸してくれて、ついでに農耕機を貸してくれる農家の師匠まで紹介してくれた大恩人である。
流石にタダで田畑を借りるわけにはいかないと言うと、じゃあ現物支給で、とにっこり返されてしまった。なので僕らはこの夫婦がいつまでも長生きできるように美味しいお米と野菜を届けようと、今日もせっせと農作業に精を出しているのである。
見回りが済んで、農道でおにぎりの朝食兼一休みをしていると、表で車の入ってくる音がした。玄関に面している道路は幅4メートルの狭い道路だが、農道とは違ってきちんと舗装されている。おはようございまぁす、と中年くらいの男の声が聞こえると、市村夫婦が揃って家から出てきた。
市村のご主人の方は不動産屋の相談役で、夫人の方は商店街で和雑貨屋を営んでいる。2人とも80は超えている歳らしいのに、ぴんと背筋が伸びて、颯爽と歩く。(まぁ街までは若い僕でもちょっと距離があると感じているので)2人は不動産屋の会社から迎えの車を寄越してもらい、毎朝8時半には家を出る。
「じゃあ、行ってきますねぇ」
農道で腰掛けている僕らに夫人は頭を下げて、車に乗り込んだ。ご主人がドアを閉め、んじゃ行ってくらぁ、と反対側に回り込んで自分も乗り込む。運転手はそれを見て、ゆっくりと車を発進させる。バックで入ってきているので、そのまま車は街へと向かっていった。
「市村さん、今日もお元気ね」
妻が梅干入りのおにぎりを頬張りながらいつもの感想を言う。
「僕らもあれくらい元気で長生きしたいなぁ」
僕は鮭のほぐし身が入ったおにぎりを頬張りながら、いつもの感想を言った。
車の中で真緒は、うつらうつらを船を漕いでいた。最近、待ち時間があるとすぐに居眠りをする。
「そろそろ『冬眠』の時期かもな」
レオンは真緒の額を優しく撫でる。短く切った黒い前髪が、さらりと流れた。
「冬眠って、結婚するときに言ってたやつ? 本当にあるの?」
「いま現在お前さんが船を漕いでるのがその証拠だ」
俺もちょっと眠たいしな、と小さく欠伸をする。
「ボスも真緒さんも同時に長期睡眠に入るんですか?」
運転手の中年男性、佐伯がバックミラー越しに2人を見ようとした。しかし2人は吸血鬼なので鏡越しには誰もいない後部座席が映っているだけだ。
「基本、眷属は主人の生命反応の影響を受ける。俺が冬眠の時期に入ると、もれなく真緒も冬眠に入る。離れていてもお互いがどこにいるか、なんとなくわかるのはそのせいだ」
「ふぅん」
「ちょうどいい。冬眠ついでに『リセット』しよう」
「リセット?」
真緒と佐伯は同時に首を傾げた。
「俺とお前さんは今、普通の人間には90と80のじーさんばーさんに見えている。そういう『人間と同じように歳を取る』幻術をかけているからな。で、それを魔術で元の40代と30代の新参夫婦です、と設定し直すんだ」
「大がかりな魔術っすねぇ」
信号待ちをしている佐伯が振り向いてこちらを見た。運転は丁寧なのだが、注意力が若干散漫なのはどうにかしてほしい。
「まぁな。手順が面倒だから、俺はある程度歳を取るとその街から離れるんだが。ここはまぁいい感じに馴染んでるからな。あと200年ばかしは居続けたいと思っている」
「それ、白狼さまに言わなくていいの?」
「流石に言わないとまずいだろうなー。街全体に術を施すからなー」
「じゃあ、今日の帰りにでも報告に行きますか?」
「そうしてくれ」
「かしこまりました。神社の方にも話をつけておきますんで」
山神を祀る神社に縁のある佐伯は、にこやかに言った。
「ねぇ、レオン。その術、みんなにかかるの? 佐伯さんたちにも?」
「いや、人外と見える連中は例外だ。そもそも人外にも見える連中にも、この幻術自体が効いてないんだ」
あやかしが見えない人間限定でしか術組んでないからな、とレオンは大きく伸びをした。車体の天井に手がぶつかる。
「ボスってすごい人だったんですね」
「伊達に600年近く生きてるわけじゃねーんだよ。見直したか?」
「ハイ」
今年70歳になる人狼は姿勢を正した。
夜。家の前の道路に魔法陣の描かれたこの地域一帯の地図を広げ、レオンは久しぶりだからなぁ、と肩を回していた。
「やってる最中に車とか入ってこないといいんだけど」
「お前さんな、言霊ってあるだろ? お前さんの方が実体験あるだろ? 今それ言うか?」
「大丈夫よ、確かにこの道路は大通りの近道だけど、道路狭いし、カエル多いし、この時期はあんまり通らないよ」
この時期の田んぼに面する道路は、昼間でも阿鼻叫喚の景色である。
地図の上に乗ってきたカエルを摘んで水田に投げ入れた真緒は、夜空を見上げた。
「月とか星の位置とかは関係ないんだ?」
「おう。術者の力量のみだ。だからいつでもできる。まぁ魔力が枯渇してなければな」
「後で私の血、飲む?」
「そうしてくれるとありがたい」
んじゃあ、そろそろ始めるぞ、とレオンは広げた地図の前に立った。真緒の聞き慣れない言葉で、呪文らしきものを紡ぐ。
と、地図上に紫の光が走った。
同時に、地図と同じ方角からも、紫の光が走る。
光は地図の境界線をなぞって走り、この地域一帯を一周するとドームのように全体を光で包んだ。真緒が見ている空にも、同じ色の光が包み込む。
淡い光が街を覆い、すぐに暗闇へと戻っていった。
「これで明日から俺たちは、元の俺たちに戻る。まぁ違和感を感じる勘のいい奴らもいるから、馴染むまでその間は眠っちまおうぜ」
「うん」
少し寂しげな顔をした真緒を、レオンはそっと抱き寄せた。
「白狼や佐伯や工藤や田代のガキたちは俺たちのことをちゃあんと覚えているから、な?」
50年経って、何人もの友人知人を見送ってきたが、その寂しさとはまた違った、戸惑いと悲しみの混ざったような感覚だった。
真緒はレオンの胸に、そっと額を当てた。
となり(と言っても農道を挟んでとなりなのだが)の古民家に住む市村さんの朝は早い。僕たちが田んぼの見回りをしている頃には、すでに裏の雨戸が開けられ、換気のための網戸になっている。そこで、市村夫人の方をよく見かける。潔く切った前髪にショートヘア。黒髪に白っぽい着物が映える。稲の生育をニコニコと眺めていた。僕と妻が、おはようございます、と市村さんちの裏にある田んぼで声をかけると、おはよう、今日も元気ねぇ、と優しい声が返ってきた。
「明日、ちょっと薬を撒くんで、洗濯物は念のため中に干してください。人体には影響無い薬なんですけど、家に近いし、心配でしょう?」
今朝の見回りで稲の一部に、白い斑点がついてるものがいくつか見えた。うどんこ病か、いもち病か。どちらにせよ早めに対策を取らねばならない。
「あら、いもち病、でしたっけ? 広がらないといいですね」
市村さんは心配そうに僕らと稲を見た。おぅい、メシだぞぉ、とご主人の声が聞こえた。はぁい、と可愛い声が返事をする。
市村さんは、僕らよりちょっと前に東京からやってきて、この家を買い取って移り住んだそうだ。緑の見える場所がいいと、夫人の希望と、天井の高い一軒家のほうがいいという長身のご主人の意見の一致でここになったらしい。
ちなみに、僕らが耕している田んぼと畑は、市村さんの土地だ。農業をしたいと脱サラしてやってきた僕らに、不動産屋であるご主人が格安のこの家を紹介してくれて、無償で田畑の土地を貸してくれて、ついでに農耕機を貸してくれる農家の師匠まで紹介してくれた大恩人である。
流石にタダで田畑を借りるわけにはいかないと言うと、じゃあ現物支給で、とにっこり返されてしまった。なので僕らはこの夫婦がいつまでも健康でいられるように美味しいお米と野菜を届けようと、今日もせっせと農作業に精を出しているのである。
見回りが済んで、農道でおにぎりの朝食兼一休みをしていると、表で車のエンジンのかかる音がした。玄関に面している道路は幅4メートルの狭い道路だが、農道とは違ってきちんと舗装されている。市村さんのご主人がエンジンを起動している間に、市村夫人が家から出てきた。
市村のご主人の方は不動産屋の社長で、夫人の方は商店街で和雑貨屋を営んでいる。2人とも凛として、ぴんと背筋が伸びて、颯爽と歩く。ご主人の運転する車で毎朝8時半には家を出る。
「じゃあ、行ってきますねぇ」
農道で腰掛けている僕らに夫人は頭を下げて、助手席に乗り込んだ。ご主人が助手席のドアを閉め、んじゃ行ってくらぁ、と運転席に回り込んで自分も乗り込む。僕らをミラー越しに見ながら、ゆっくりと車を発進させる。そのまま車は街へと向かっていった。
「市村さん、今日も仲良しね」
妻が梅干入りのおにぎりを頬張りながらいつもの感想を言う。
「僕らもあれくらい、いい夫婦でいたいなぁ」
僕は鮭のほぐし身が入ったおにぎりを頬張りながら、いつもの感想を言った。
さやさやと、稲が風に揺られている。
吸血鬼と永遠(とわ)の処女(おとめ) 東 友紀 @azumayuki
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