第37話 あやかし夜市
真緒はいつも通り九十九やでの仕事を終え、夜の6時半に店を出た。桜も盛りを過ぎ、遅れて咲きだす八重桜がぷっくりと膨らみ始めたころ。だんだん日が長くなってきたとはいえ、この時間は闇が勝つ。
店から自宅マンションまで、住宅街を抜けるのだが、古い家の漆喰の塀や板塀が続く小径は街灯が少ない。一応護身用の符は持っているが、できることなら使いたくない。
今日は新月か、と天を仰ぎながら小径に入った真緒は、ぐにゃりと何かを踏んだような感触に襲われた。
ざわざわ。くすくす。さあさあどうだい。
薄暗い小径のはずが、いつの間にか屋台の並ぶ参道のようなところに入っていた。赤い提灯が数珠繋ぎに吊るされ、所狭しと並ぶ屋台に、多くの異形─あやかし─が群がっていた。
まずい。
異界に踏み込んでしまった。真緒は大きく息を吸い、気づかれないように糸のように細く吐きながらゆっくりと前進した。
振り返らない。
声を出さない。
目を合わせない。
並んでいるモノをじっと見ない。
差し出された食べ物を口にしない。
息は静かに吐く。
とにかく前へ進む。
西の師匠が、万が一異界に入り込んだときの脱出方法を教えてくれていた。まさか本当に使うことになるとは思わなかったが、人混みを避けながら、真緒は静かに気配を消して歩き続けた。
「おろしたての胎児だよぅ、新鮮だよぅ」
「目玉いらんかねえ、片目でも売るよ」
「ちぎれた手足! 一本丸ごとでこのお値段!」
耳に入ってくる言葉が恐ろしい。真緒はそちらを見ないように、足元を見て足早に歩く。
「おおん? お前、ヒト臭いな?」
目の前に赤鬼のようなものが立ち塞がった。返り血と肉片らしきものががべっとりと衣のあちこちについている。真緒は視線を合わせず、ふるふると首を横に振り、赤鬼から逃れようと横へずれる。
「待て待て。ヒトだろう。お前」
赤鬼も横へ動く。なんだどうした、と仲間らしい声が赤鬼にかけられる。これはまずい。真緒が懐にある形代にそっと手を伸ばしたそのとき。
「ああ、こんなところにおったんか。探したで」
若い男の声がしたと思ったら、真緒の腕を掴んでぐいと自分の方へ引き寄せた。
「
「なんだよ、ツネの知り合いか。通れ通れ」
「おおきに」
そう言うと、若い男は真緒の腕を掴んだまま、ぐんぐんと進んでいった。道は長いような短いような、あやかしの数が多くてよくわからない。ときおりあやかしにぶつかりながら、おや堪忍な、と男が謝る。どんどんカンカン、と囃子の音も聞こえた。
しばらく歩くと、急に視界が暗くなった。辺りを見回すと、真緒が普段歩いている住宅街の小径に戻っていた。
抜けられた。
真緒は安堵の息を大きく吐いた。若い男はくるりと振り返って真緒を見た。最近知り合った狐のあやかし、
「なして姐さんがあそこにおんねん? あそこは純血のあやかししか入られへん夜市やで?」
今田は血相を変えて詰め寄った。真緒もわからない、とふるふる首を振るだけだ。こちらも血の気がひいた青ざめた顔をしている。
「まぁヒトがうっかり入ることは稀にあるけれど……。アレか。姐さんが日の本の人間で、吸血鬼やからか。鬼繋がりで道が通じたんか?」
今田は大丈夫ですか? とぽんぽんと真緒の肩を叩いた。それでようやく真緒は、
「大丈夫です。ありがとうございました」
と声が出せるようになった。
「旦那はんが紛れ込むのは想定してたんやが、姐さんの方は予想外やった。半妖やからと甘くみとったわ」
したら夜市の出やすい場所教えとったのに、と今田は肩を落とした。
「純血なら西洋のあやかしでも入れるんですか?」
「鬼の中には異人から化生してなったもんもおります。だから旦那はんは入れる条件が近いんです」
「なるほど」
「ともあれ、しばらくはこの小径を通らんでください。夜市は2、3日続くんで、下手したらまた入ってしまうかもしれません」
じゃあ僕は戻りますんで、と今田は片手を上げて、夜の闇へと消えていった。今田はあのおぞましい夜市に、なんの用があるのだろう。真緒はふるりと身震いして、考えることを止めた。とにかく帰ろう。
マンションの前に、レオンがいた。工藤と佐伯もいる。
「真緒」
レオンは大股で真緒に近づくと、ぎゅっと真緒を抱きしめた。レオンはそうしてはあああ、と大きく息を吐く。
「よかったですねボス、真緒さん見つかって」
「大事にならずに済みましたね」
佐伯と工藤も安心した声を上げる。と佐伯がクンと鼻を嗅ぎ、
「真緒さんめっちゃすごい臭いしますけど、この4時間近くどこ行ってたんですか?」
と顔を顰めて真緒を見た。心なしか工藤も離れているような気がする。
「4時間?」
「いま夜の10時半ですよ」
へ? と夫の腕の中で真緒は顔を上に向けた。見上げた先には夫の顔がある。店を出たのは6時半だ。自分はあの夜市に4時間彷徨っていたのか。
「俺が帰っても部屋が真っ暗で、帰った形跡もないから、工藤と佐伯に連絡してずっと探してたんだぞ。電話も繋がらないし」
「すごい臭いって」
「ぶっちゃけ血臭だ。腐った肉の臭いだ」
ああ、真緒はなんとなく納得した。あの夜市の臭いがついたのだ。息を細めていたから、血臭に気づかなかったが、きっとすごい臭いだったのだろう。
「ええと、純血のあやかししか入れない夜市に紛れ込んじゃって、たまたま居合わせたあやかしに助けてもらったの」
夜市と聞いて、工藤の顔が険しくなった。
「どこの小径ですか」
「そこの、駐輪場の脇の小径です」
真緒はいつもの通勤路を指差した。そういえば10年ほど前に殺人事件があったとか聞いていた気がする。清められて綺麗な気配しかなかったので、すっかり忘れていた。
穢れの溜まるところは闇は濃くなり、良くないあやかしも湧きやすい。今日はその事件の起きた日なのだろう。そういう繋がりで道が通じてしまったのかもしれない。
「市の内容はお分かりに?」
「ええと、ヒトは絶対入っちゃダメだなーって思いました。ヒトだと気づかれたらバラバラにされちゃいそうでした」
「その市は人間でいう非合法の闇市のようなものです。本来ならば夏の盆に合わせて年に一度しか開かないはずなのですが……誰かが勝手に開いたな」
神社に知らせて、祓ってもらいましょうと工藤は険しい表情のまま呟いた。工藤の一族はこの地を統べる山神の眷属を最近までしていた。自分たちが山を降りたせいで、あやかしの規律が緩んでいるのだろうか、とブツブツ言っている。
「しばらくは小径に入るときは注意してください。できれば清めの塩を、小径に入る前にかけて、異界への入り口があるかどうか確認してください」
「はい」
レオンは塩か、と不満そうだ。レオンは食事で摂る塩以外は触れると火傷をする。清めの塩然り、ヒーリング系のバスソルト然り。だが愛しい妻が危険に晒されるよりはいい。
「お前ら明日は出社ゆっくりでいいぞ。ありがとな」
「いえいえ、たいしてお役に立てずにすんません」
「お疲れ様でした。社長も真緒さまもゆっくりなさってください」
工藤と佐伯を見送って、2人はマンションへと入っていった。
部屋に戻ると、飾り棚に置いてある付喪神の香炉がガッチャンと蓋を飛び上がらせて大きな音を立てた。何やら喚いている。おそらく、真緒に染み付いた穢れに反応しているのだろう。
「あああ、申し訳ございません、すぐに清めてまいります」
「風呂は沸かしてあるから、すぐに入れるぞ」
「ありがとう」
真緒は籠バッグを自室に投げ入れてすぐに風呂場に直行した。これは着物も帯も穢れがついていると思っていいだろう。ひょっとしたらお焚き上げをした方がいいかもしれない。シャワーを浴びる際、住職と神主から「これを覚えていると便利ですよ」と言われた経の一節と浄めの唱えを交互に呟きながら体を洗った。すると、どこから出てきたのか、血泥がボディスポンジにドロリとついてきた。うわぁ。真緒は内心げんなりしながら、血泥が体から出てこなくなるまで経と唱えを交互に呟きつつ洗い続けた。
ふだんの倍近い時間をかけて、真緒は風呂から出てきた。何かを古いバスタオルで包んでいる。レオンは大丈夫か? と水を差し出してくれた。
「どうしたんだ、その包み」
「今日着てた着物。多分お焚き上げ行きだと思う」
真緒はグラスを受け取り、水をごくごく飲んだ。思ったより喉が乾いていたらしい。
香炉がカチャ、と蓋を動かした。
念のため包んだバスタオルに封印の札を貼って、真緒は大きくため息をついた。お疲れさん、と抱き寄せてキスをするレオンを除けようともしない。
「明日は休むか?」
「んー、顕行さまか伯英さまにお焚き上げの相談したいしな……」
「こういうのは早めの方がいい。神社は工藤が山神に報告するだろうから、寺でもいいんじゃないか?」
「うん、そう、する」
真緒の意識はそこで途切れた。
あかあかと燃えるような提灯が舞い踊る夢を見た。
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