第36話 旋律に乗せて

 新年度に入り、田代の長男・和彦は小学1年生になった。校門の前で緊張した面持ちの和彦と、昨年仕立てた訪問着を華やかに着こなしていている美代の写真が送られてきた。

 スクールバスにも慣れて、6年生になった住職の息子、顕星けんせいと仲良く通っているらしい。同級生の友達もでき、田代家は賑やかな日々がさらに賑やかになっているという。


 送られてきたメールを読み返して微笑む真緒に、良く通る声がかけられた。

「お待たせいたしました、真緒さん。『どうぞお入りください』」

 神社の神主、伯英はくえいだ。穏やかな笑みをたたえて真緒を鳥居の内から呼び込んだ。

「お手間をおかけいたします、伯英さま」

 そう言って真緒は鳥居をくぐった。一瞬ぴんと髪の毛を一本引っ張られた感覚があるが、それ以外はするりと神社の結界内に入れた。

「年に2度の市ですからね。掘り出し物が見つかるといいですね」

 玉砂利を踏みながら2人は並んで歩いた。桜の根元に置かれた手水のあたりから人だかりができている。

 この神社では、春と秋に、骨董市を開いているのだ。雑貨屋の店主である真緒も、毎回楽しみにしているイベントである。ひとり二畳ほどのスペースに、所狭しと品物が並んでいる。レコード、コップ、アクセサリー、着物に樽に昔の医療器具に古い絵葉書。人によってはがらくたと一蹴されるようなものたちが、ここでは立派な商品として売られている。

 ではごゆっくり、と伯英は一礼して社務所へ戻った。人混みの中をすいすいと流れるように歩いていく。

 真緒がこの市で買う品はだいたいが器類だ。ぐい呑み、茶碗、湯呑み、伊万里の小皿。アンティークときちんと表示して、店に並べる。こういう市では叩き売りをする店もあり、掘り出し物をもつけることもある。


「九十九やさん」

 声をかけられた方を見ると、川向こうに住む名士の一族の男が店を広げていた。以前、土地を離れるため蔵を開くので見にきませんか、と声をかけてもらっていたのだ。東京に住む娘夫婦が一緒に住もうと誘ってきたのだという。男は妻を亡くし1人で暮らしていたので、娘夫婦を頼ってこの地を離れる決心をした。

 代々続く家を売り払い、蔵の中身も業者に開放した。真緒は川を渡るのに難儀する半吸血鬼なので、所用があるからと丁重に断っていた。

「先日はお声がけいただいたのにお伺いできずに申し訳ございませんでした」

「いいって。それより家の中にあったものを持ってきたんだがどうだい?」

 見ると食器や掛け軸や年代ものの日用品が並んでいる。家の中は業者に見せていないらしい。

 真緒は牡丹が描かれている綺麗な九谷の皿を手にした。普段使いのものだが、丁寧に使われていたのだろう、皿からは満ち足りた感情が流れてきた。これを水盆にして花を飾るのもいいかもしれない。店に飾るにもちょうどいいな。

「    」

 ふと、誰かに呼ばれたような気がして、真緒は周囲を見回した。もう一度おい、と言ったニュアンスで呼ばれた気がして、声のした方を見ると、青磁の香炉があった。蓋に蓮のような花びらの形をした穴が開けられた、三つ足の香炉であった。


「ご主人、この香炉は?」

「ああ、親父が満州から引き上げる時に大事に持って帰ってきた品だよ。確か大陸の南の方で作られたって聞いてるよ」

「箱書きはありますか?」

「あるけど読めないよ」

 男はヒョイと木箱を見せたが、なるほど達筆すぎて読めない。読めても中国語だろう。伯英か顕行なら読めるだろうか。

 真緒はそっと香炉を手にした。香炉は付喪神らしく、ブツブツと何か言っている。が、いかんせん言葉がわからない。つるりとしたフォルムにとろけるような青磁色が美しい。

「綺麗ですね」

 と真緒が感想を述べると、香炉の声がてれてれとした猫なで声になった。こちらの言葉はわかるらしい。見えざるものの声を聞く札を改良すれば、この香炉の言葉もわかるだろうか。

「お客に売るにはもったいないと思うよ。九十九やさんが個人で楽しんでくれるなら俺も死んだ親父も嬉しいね」

 箱付きで4千でどうだい、と言われ真緒は即購入した。戦禍を免れた大陸産の付喪神に出会えたのは、何かの縁だろう。店で非売品として飾るのもいいし、家で香を焚くのもいい。真緒はそれから、蓮華と唐草模様が美しい夫婦茶腕と牡丹の九谷の皿と、伊万里の小皿と桜をかたどった箸置きを買った。買い物用の竹籠は、ずっしり重くなった。


 よいしょと、籠を持ち直して真緒は男に礼を言い、次の店へ回った。

「あら真緒さんいらっしゃい。いいもの入ってますよ」

 こちらはスペースいっぱいに着物を積み上げている。古着を扱う店だが、真緒が着れそうな紬を取り置いてくれているのだ。

「これね、仙台のお屋敷から買い取ったんですけど、いい色でしょう? 真緒さんこういう色お似合いだからいかがかしらって。あとこっちの芍薬の柄の小紋、裏にアクがあるけど羽織に仕立て直したらいい感じになりそうだなって」

 真緒はテントの奥で、藍地に白から灰鼠の水玉模様の入った紬を合わせてみる。うん、お直しせずに着れそうだ。芍薬の小紋は真緒が思った以上に表にもシミがあったので、そちらは買わずに紬だけ買った。

 こうして小1時間、広くはない境内をぐるぐる回り、予備のエコバッグも出動して真緒の半年に一度の買い物は終わった。


 マンションに帰ると、まずは戦利品を新聞紙を敷いた床に並べる。店に出す食器類を増やしたいと思っていたのでいい買い物ができたと思う。店に並べている、地元の若い職人のシンプルな器も質実剛健で良いのだが、洗練され過ぎて味気ないと思うときがある。昔のような粋で華やかな器もあると、客の目も楽しいだろう。ひとつずつ手に取り、泥や汚れを丁寧に濡れ布巾で拭いていく。

 着物を改めてチェックし、着物ハンガーにかけて風を通す。春風に揺られて、着物も心地良さそうだ。


 さて、問題の香炉である。箱から出すと、何やら文句を言っているようだ。暗い箱の中がお気に召さなかったらしい。この場合、真緒は香炉が何かを言っていることは分かるが、内容が分からない。とりあえずこちらの言うことは香炉には分かるようなので、どこか汚れていませんか、お香を焚いてもよろしいですか、と「はい」「いいえ」形式で答えられる質問をしてみた。

 「はい」と「いいえ」は明確に発音が異なっていたので、真緒はそれを頼りにいくつか質問を重ねた。どこか欠けておりませんか(欠けていたら付喪神になれないのでこれは念のための確認だ)、店に飾られる方がよろしいですか、この部屋でときどき香を焚く方がよろしいですか、私たちはあやかしですがヒトと暮らした方がいいですか。

 香炉の答えは、この部屋で時折香を焚いてもらいたいらしい。真緒たちがあやかしでも構わないようだ。飾るにふさわしい年月を経てはいるが、道具として使われる方が良いようだ。

 そうと決まれば、汚れを落とし、香を焚こう。濡れ布巾で全体を拭うと、うっすら汚れがついてきた。灰の溜まる中を拭くのは、香炉が嫌がったので、そのままにしておいた。そういえば一昨年、呉服屋のいしいやから譲ってもらった冬のディスプレイ用の江戸末期の火鉢も、炭入れに触れるのを嫌がったので、火を扱う道具の共通の弱点なのだろうなと思った。

 真緒は朱塗りの盆を取り出してきて、香炉をその上に乗せた。ベッドサイドに持ってきて、キリムの絨毯の上に置く。

 香は白檀を選んだ。真緒には複雑な気持ちを抱かせる香だが、香りに罪はない。いつも火をつけるのが100円ライターなのはいかがなものかと思いながら、ピンセットで香炉の中へと入れる。昔はずっとかまどに火があったし、冬は火鉢の炭があった。だからといってコンロで火をつけるのも何か違う気がする。情緒の問題なのだが、マッチの方がいい気がしてきた。今度どこかで探してこよう。最近は喫茶店のオリジナルのマッチも減ってきている。レトロがどんどん遠ざかっていく気がした。

 しばらくすると、ほのかな香りが部屋中に漂ってきた。蓮の花弁を模した穴からゆらゆらと煙が立ち上る。真緒はベッドに腰掛けながら、その煙の後を目で追う。


 ふと歌が聞こえた。香炉が鼻歌のように静かに歌っている。蘇州夜曲だ。


 真緒は香炉の邪魔にならないように、小さな声でメロディを紡いだ。

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