第38話 文殊の知恵とお焚き上げ

 本堂の板の間にそっと荷物を置いた真緒は、小さく息を吐いた。住職の顕行けんぎょうがすかさず荷物の周囲を長い数珠で囲う。パチリ、と何かが爆ぜるような音がした。

 置いた荷物を中心に、真緒と反対側に、4人の僧侶がいた。この山寺の住職である顕行、副住職の50代の僧、修行中の40代、20代の僧たちだ。顕行と副住職は法衣を纏って真緒の置いた荷物を凝視している。

「真緒さんのお札を剥がします。皆々、注意してください」

 顕行がそっと数珠で作られた結界の中に手を入れ、真緒が貼ってきた札を剥がす。


 ふわり、と古いバスタオルの包みが勝手に解けた。


「おお」

「これは」

「なんと禍々しい」


 3人の僧は目を見開き、袖で口元を覆った。真緒には別段、変わったことは見受けられなかった。昨日真緒が着ていた、生成色に水色の格子が入った紬と、浅葱色の半幅帯である。

「……はて、何をそんなに驚くことがありますか?」

 顕行も不思議そうに3人を見やる。

「このおぞましいものを見ても何も感じませんか?」

 副住職が首を傾げている2人を交互に見た。

「おぞましい……?」

「この鮮血、この肉片、この異臭。わからないとでも?」

「鮮血……異臭?」

 真緒と顕行は顔を見合わせた。普通の、着物と帯がそこにあるように見える。

「もしや御二方には、違うものが見えていらっしゃるのではないでしょうか?」

 一番若い修行僧が、指を顎に当てた。まだ幼さの残る顔立ちは、親しみやすさと愛嬌がある。

「拙僧ら3名は、あやかしなどを見る『目』を持ちません。住職とご婦人が見えていないモノが見えているのではないでしょうか?」

 顕行が軽く眉間に皺を寄せた。

「なるほど」

 見える者には見えないモノ─通常のヒトが見えないモノを普段見ている真緒たちには見えず、通常のヒトでしか見れないモノがあってもおかしくはない。

「どうすれば、私たちにも見えるでしょうか?」

「いや、無理してご覧にならなくとも、お焚き上げはできましょう」

「それでは私が困ります。どの程度念を込めればいいか、加減が変わりますから」

「そうでした」

 うーん、と5人は頭を悩ませた。


 あやかしの世界に足を踏み入れた真緒は、倒れるように眠ったあと、朝一番に顕行に連絡を入れた。異界に入り込んでしまって着物が穢れていると思うのでお焚き上げをお願いしたいと、素直に伝えた。顕行は今日の予定を全て取り消し、真緒の着物のお焚き上げに費やすと応じてくてた。

 ついでに彼らにもこの様子を見てもらいましょう。

 顕行が副住職と修行僧の同席を求めたので、真緒は快諾した。修行中の身とは言え僧侶は僧侶。心強い味方ができたと思ったのだが。


「見える者が見えなくて、見えない者が見えている……。まるで禅問答ですね」

 40代の整った顔立ちの修行僧が呟いた。

「見えないモノを見る……。見る、見る。あ」

 50代の厳つい副住職が声を上げた。

「御二方が『狐の窓』を行ったら、どうなりましょうや?」

「狐の窓?」

 年若い修行僧が首を傾げた。40代の修行僧はああ、と膝を打つ。

「我らのような、通常の目を持つ者が、見えざるモノを見るまじないのようなものです。そういえば昔、ひと流行りしましたね」

「狐の窓って、組んだ両手の指の隙間から覗くあれですよね?」

 江戸時代の錦絵に、その方法が描かれている資料を、真緒はいつだったか目にしていた。確か呪文もあったはずだ。印を結ぶような手順、とまでは覚えていたが、肝心のところはすっかり忘れている。

「見えないモノが見える方が行えば、普通の者が見ている景色になるやもしれません」

「なるほど、やってみる価値はありますね」

 真緒と顕行は年上の僧2人を中心に、印と呪文を教えてもらう。若い修行僧も真剣に話を聞いていた。


「では、見てみましょうか」

 こん、と親指と中指薬指を合わせて、狐の型を作る。そうして印を結び、呪文を唱える。

「うわぁ」

「これはこれは」

 真緒と顕行は声を上げた。異臭まではわからないが、真緒が持ってきた着物にべったりと血と何かの肉片がこれでもかとこびりついていた。生成色の着物と浅葱色の帯は、どす黒く変色している。これはおぞましいと言っても過言ではないだろう。自分はこんな格好で夜道を歩いていたのか。誰にも会わなくてよかった。

「レオンも佐伯さんたちも、血臭はわかったんですが、この状態は見えていなかったみたいです」

「種族によって、若干違いがあるのかもしれませんね。まあ今回そこは置いておいて」


 これをお焚き上げします。


 顕行がきっぱりと宣言すると、3人の僧はスッと立ち上がり、本尊の方へ向かい、それぞれの定位置なのだろう場所に座った。

 数珠と共に着物を抱えた顕行が前へ進む。着物と帯を火炉の前にそっと置き、経を唱え始める。3人の僧も、数珠を取り出し、顕行と共に読経を始めた。


 みな、いい声だ。


 朗々、堂々、よく通る声が本堂に響き渡る。真緒は心地よいと感じる反面、ぐっと肩を押さえ込まれている感覚になった。真緒の中の「魔」の部分が反応しているのだろう。日本人だからか処女だからか、これくらいで済んでいるが、レオンが聞いたら頭が痛くなったり動けなくなるのではないだろうか。

 30分ほど経った頃、顕行がちら、と真緒を振り返った。真緒はもう一度狐の窓を作り、着物を指の隙間から見てみた。

 血と肉片が減っている気がする。いや、洗剤が油を包むように、半透明の煙のような何かがするすると血と肉片を包んで溶かしていく。真緒は顕行に頷いてみせた。顕行がさらに声を張り上げる。3人の僧も声を大きくした。

 さらに30分ほど経って、顕行が経を唱えながら立ち上がり、血と肉片がほとんどなくなった着物を手にした。す、と本尊に向かって一礼し、本尊の前に設置してある火炉に着物と帯を投げ込んだ。


ぎゃああああああ。


 男のような断末魔に思わず真緒が飛び上がった。そんな突然の大声でも読経を止めない4人はさすがというか、修行の賜物なのだろう。じりじりと着物と帯は炎に包まれ、やがて灰になり、その灰もすうっと消えていった。

「お焚き上げ完了です。お疲れ様でした」

 はあああ、と顕行以外の僧が天を仰いだ。若い修行僧は肩で息をして滝のような汗をかいている。残る2人の僧も、息を整えていた。

「みなさま、ありがとうございます」

 真緒は深々と頭を下げた。いえいえ、貴重な経験をさせていただきました、あのような穢れは拙僧も初めてです、お焚き上げって大変ですね、などと口々に言うので、ふっと真緒は微笑んだ。


「真緒さん、私たちはこれから後片付けに入りますので、家に押し込めて入る真紀と愚息にお焚き上げが終わったと伝えていただけますか?」

 そういえば、あの叫び声にも住職の息子の顕星はすっ飛んでこなかったな、と真緒は今更ながら思い至った。正義感の強い子だ、お焚き上げの穢れが寄り付かないよう、母を護っているのだろう。

「ついでに真紀のご機嫌伺いをしていただけると助かります。ここ数日食欲がなくて伏せがちなので」

「お焚き上げの直後にお伺いしてもよろしいのですか?」

「玄関に塩壺を置いてありますので、愚息にかけてもらえば大丈夫です」

 用意周到な住職である。真緒はもう一度僧たちに頭を下げて、本堂を出た。


「あ、真緒ねえちゃん。お焚き上げ終わったのか」

「うん、顕行さまのお陰で終わったよ。で、念のため清めの塩を撒いてほしいんだけど」

 玄関先で真緒は顕星を呼び出し、顕行に言われたことを伝えた。顕星はよしきた、と下駄箱の上にある塩壺を取って、真緒の肩口に数回塩を振りかけた。

「お焚き上げのときはいつも用意してるの?」

「うんにゃ、普段から置いてる。寺の結界があるからといって、変なヤツが来ないとも限らないんだ」

 ねえちゃんみたいなのも入ってこれるしな、と付け足す。ごもっともだ。顕星は真緒が半妖であることを知っている。見える目を持つ者だ。

「結界が緩いんだか強いんだかわかんないね」

「親父が言うには、魚の網みたいなもんだって。大きな魚は通れないけど、小魚は網目を縫って入ってくるらしい」

「ああ」

 真緒は寺の結界をバリアのような隙間のないものだと思っていたが、そうではないらしい。レオンは純血の吸血鬼で力があるため網目に引っかかって入れないが、半妖の真緒は日本の力の弱いあやかし判定をされているので、網の隙間からどうにか入れる。そうやって、他のあやかしやら少々の悪意を持った者が寺にやって来るのであろう。

「そういえば真紀さん、具合悪いんだって?」

「ああ、それなんだけどさ」

「真緒さん、いらっしゃい。玄関先じゃあなんですから入ってくださいな」

 顕星と話していると、玄関先に真紀がやってきた。普段着でいるが横になっていたらしく、頬に枕の跡がある。

「真緒ねえちゃんはお焚き上げにきたんだから入れらんないの」

「大丈夫よ。今日は具合がいいの。真緒さんがくるとわかってたし」

 ん?

 真緒は真紀の言葉に首を傾げた。恐らく顕行は、真紀にはお焚き上げがあることは伝えているだろうが、誰が来るとは知らせてないはずだ。顕星も訝しげに母を見る。

「なんで私がくるとわかっていたんですか?」

「真緒さんがつけてる蜂蜜の練り香水の匂いがしたし、昨日変な気配が街からしたから、ああこれは誰かお寺に来るなぁって思ってたの」

 真紀は朗らかに笑いながら答える。

「ちょっと前からこんな感じなんだ。ねえちゃん何か見えないか?」

 真緒の目がきゅっと細くなった。真紀はあやかしが見えないただのヒトのはずだ。ただのヒトが急に気配に鋭くなったり勘が働き始めるのは、まぁここは寺だしその手の力が覚醒したともなくはないだろうが、何かが憑いた可能性が高い。

「真紀さん、以前もこういうことありましたか? 誰かが来るとわかったり、人のいないところから声が聞こえたりとか」

 真紀はしばらく考え、ああ、あったわ、とぽんと手を合わせた。

「この子がお腹に宿った時にね、似たようなことがあったの。顕さんもお義母さんもびっくりしてたわねぇ」

 真緒と顕星は真紀の顔を見て、彼女のお腹を見て、互いを見て、叫んだ。

「「それかー!!」」

「ちょっ、真緒ねえちゃん、悪いけど病院連れてってくれ! オレ保険証と財布持ってくる!」

「わかった! 真紀さん、病院行きますよ!」

「病院?」

「産婦人科です!」

 真紀は、ええ? あらまあどうしましょう、とどんぐりのような可愛らしい目を丸くして慌てた。


 真紀は妊娠5週目に入ったところだった。

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