第6話 もう一つの食事

 午前4時半。レオンはすうっと目を開いた。隣では妻の真緒がくうくうと寝息を立てている。のそりと首を真緒の方へと向ける。愛くるしい寝顔に、レオンは次に体ごと真緒の方へ向いた。紺色の絹のパジャマからのぞく白い首は、陶器のように艶やかだった。

 ごくり。レオンの喉が鳴る。

 やがてレオンはそっと真緒の首に唇を寄せ──

 

 ぐわしっ。


「何してるの」

「いだだだだ」

 レオンは真緒に片手で頭を鷲掴みにされ、愛しい体から引き離された。

「何してるの。今何時なの」

 真緒は寝つきも悪いが寝起きも悪い。早朝覚醒の症状を持っていて、眠りが浅く、アラームが鳴る前に起こすと不機嫌の塊になる。

「今日こそいけると思ったんだけどなぁ」

「今、何、時」

 みしみし。額をつかんだ手に力が込もる。

 吸血鬼は怪力である。まだ半人前の真緒だが、人間以上の力をしっかりがっちり持っている。嫁のアイアンクローを食らって死にかける吸血鬼。仲間が見たら爆笑されていただろう。

「よ、4時半です」

「……起きるまでまだ1時間半もあるじゃないの〜。どうするの目が覚めちゃったじゃない〜」

 1時間半じゃ二度寝できない、と枕に顔を突っ伏してぐずつく真緒の手をそっと頭から外して、レオンはすまない、と素直に謝った。

「いや、昨日の夜から『渇き』があってな? 朝まで我慢できると思ったんだよ」

「老人の夜中のトイレか」

 不機嫌な真緒のツッコミは鋭い。ごめんすまない申し訳ないと謝罪の言葉を並べてレオンは真緒の頭を撫でた。

「朝のコーヒーは豆から挽いてやるからさ? トーストもアイスを乗せてやるから、な?」

 吸血鬼は本来、人間のような食事はいらない。血を吸うことで全てが賄える。その吸血衝動を『渇き』といい、このタイミングがずれると吸血対象の血を全て飲み干してしまう危険性を孕んでいた。なのでレオンの申し出を、真緒は素直に受け入れる。

「そんな謝罪はいらないの。……はぁ。そういえば今月はまだ一度も飲んでなかったもんね。いいよ、飲んでも」

 そう言うと、真緒は仰向けの体勢になり、パジャマの第一ボタンを外す。

 白い肌が、肩まで見えた。きめの細かな肌は、熱が上がればとろりと溶けてしまうのではないかと思うくらい、滑らかで、透明感がある。


「んじゃ、いただきます」

 レオンは真緒が怖がらないよう、ゆっくり体を近づけ、そっと首に齧り付いた。びくりと一瞬、真緒の体が震える。柔らかな胸が、普段より少し早く上下する。落ち着くように、トントンと彼女の腕を軽く叩きながら、レオンは血を啜った。

 人間は血を鉄錆の味と表現するが、吸血鬼にとっては甘美なる果実酒のような味がする。こと、処女の血になると甘さは深まり、さわやかな柑橘系の香りがほのかに香り、蜂蜜のようなとろみがある。つまり美味いのだ。

 そして血を飲むという行為は、血を吸われる者の人生を己が体に取り込むことと同義である。レオンはこれまで数え切れないほどの人間の血を啜り、その人間の人生、知識、経験を吸収し、未知の領域を学習してきた。

 眷属にした処女・童貞のそれまでの人生は、吸血鬼の人生そのものと言ってもいい。

 真緒もまた、処女であり、レオンの眷属である。闇医者から買い取る輸血パックの血とは異なり、その辿ってきた人生が鮮明に呼び起こされる。

 真緒の人生は、軽んじられ搾取され続けた人生だった。味方は、真緒が10歳のときに亡くなった母ひとり。今もまた、幼い真緒がひとり台所に立ち、夕飯を作っている中、他の家族はリビングのテレビを見て酒を飲みながら笑っている記憶を読み取った。レオンは悲しみ、ときに怒りを感じながら真緒の血を吸っていた。


「……う、」

 真緒が小さくうめく。おっと吸いすぎたか。

 レオンはゆっくりと口を離し、その噛み痕に口づけをする。

「ありがとうな。真緒」

「ん……。レオン、怒ってる?」

「なんでだ?」

「なんだか、そんなふうに見えたから」

 苦しく長い旅を終えた子を慈しむ母のような目で、真緒はレオンを見た。真緒もまた、吸血鬼としてレオンの血を吸い、レオンの辿ってきた道を知っている。この500年、楽しいときもあったが、異人として迫害されたときも多くあった。それを思い出したのか、と尋ねている。

「大丈夫、大丈夫だ。お前さんは自分のことだけ考えればいい。何が欲しいか。何をしたいか。それだけ考えていればいい。あとは俺が守ってやる」

 愛しい妻の髪を、大きな手で優しく梳いた。


「そういえばこの間、田代さんがお店に寄ってくれたんだけど、私案件のおうちがあるんだって?」

 朝7時。すっかり身支度を整えて朝食のテーブルについた真緒が聞いてきた。約束通り、コーヒーミルで挽いたコーヒーと、バニラアイスを乗せたトーストと果物の盛り合わせを用意して、レオンがうん、と頷いた。

「提案してきたのは工藤なんだけどな。前の持ち主がいたときから妙な気配の家だったらしい。空き家になってようやく、鳴家の音がおかしいと気付いたみてぇなんだ」

「幽霊だったりしないよね?」

「工藤も田代も、血の匂いはしなかったって言ってるし、前の物件状況報告書には人死にも事件もなかったみてぇだぜ」

「動物系は?」

「獣の匂いはしない、いてもせいぜいネズミだと。これは工藤が『確認』している」

 工藤は人狼である。他の獣の匂いには敏感な鼻を持っている。その彼が獣の匂いがしないと言うなら、動物系の祟りではなさそうだ。

「座敷童子さまだったらそのまま放っておくからね?」

「ああ、それはいいんじゃねぇか? 築150年は経ってる家だ。住み着いててもおかしかねぇだろう。ただ、工藤にも田代の前にも現れなかったから、妖怪の類でもなさそうなんだよな」

 田代も狸のあやかしである。妖怪の類なら彼が反応を示しているだろう。

「そのおうち、井戸は?」

「ない」

 これはレオンがきっぱり断言した。井戸は三件先の民家の庭にあり、昔はそこにお邪魔して水を汲んでいたとの話を古くから住んでいる老人から聞き取っている。

「おかしいのは鳴家だけ……?」

「そうだ。工藤も田代も、ぎしぎしわんわんとしか聞こえねぇが、何かを訴えているのは感じるらしい。で、工藤がお前さんならその『声』が聞けるんじゃねぇかって」

 吸血鬼になってから、真緒は物の声やその土地の感情などがわかるようになっていた。土属性の月の生まれであり、大地母神の影響を受けやすい気質が強く出たようで、地縁と結びつきやすい反面、事故現場などの穢れた場所では気分が悪くなることが多くなった。

「ん〜……。今まで住んでいた人や、工藤さんや田代さんが無事ならその鳴家は無害だとは思うけど。私で手に負えなかったら、ちゃんと顕行さまか、伯英さまにお願いするって約束してくれるなら、行ってもいいけど」

 顕行はこの地の北を護る山寺の住職であり、伯栄は南を守護する神社の神主である。どちらも由緒正しい、『本物』の聖職者だ。

「そりゃ約束するさ。俺たちの商品だぜ?」

 不動産屋の目的は手に入れた物件や土地を売ることにある。売って金を得て、その得た金でまた物件や土地を買う。小さな取引から、段々と数を増やし手を広げ、より大きな取引へとつなげていく。ここは地方の街に過ぎないから、東京のような大取引はできないだろうが、その手数や場所を増やしていくのが楽しいのだとレオンは言う。

「だいたい戦国時代の大名か軍配者の発想よね。領土じゃないけど自分の名前の代わりに会社の名前をその土地にくっつけるんでしょ?」

 青山でレオンの仕事を手伝っていたときもそうだが、真緒の知る男たちは総じて所有欲というか征服欲が高い。ここは私が取引を成功させました! あっちは俺が売りました! 貪欲とまではいかないが、彼らのがっついた体育会系のノリにはときどきついていけなかった。今のような小さな店で、大きな欲を抱かず、傾かない程度に商いをして欲しい。

 この地の他の不動産屋の広告を、ネットで見ることがあるが、その価格のお手ごろ感に、真緒はほっとしていた。億単位の物件など、もう怖くて見れない。本気でローンが無事支払えると思っているのかと身震いしてしまう。


「次の休みの日でいい?」

「もちろん。お前さんはお前さんの店を優先してくれ」

 レオンは笑顔で答える。自分の店も大事だが、真緒のことは全てが最優先事項の男だ。その辺りのスケジュールは真緒の好きなように組める。

「報酬は?」

 真緒はトーストの耳を齧りながら冗談半分で聞いてみた。たまには小料理屋の食事と酒を味わいたい。その程度の気持ちだった。

「この間、婆さんの店であててた白大島はどうだ?」

 え。

 海老で鯛が釣れた気分だ。

「え? いいの? レオンだっていい値段するなぁって言ってたよね?」

「この案件がお前さんで収まったら、の話だけどな。お仕立て込みだ。好きな八掛選べ」

「ほんと? ほんとにいいの?」

 真緒の目が顔がきらきらと輝いた。もちろん、とレオンは言った。そうそう、この顔。真緒はこういう顔をしている方がずっといい。

 はぁー、気合い入れなきゃ、とコーヒーを一息に飲んで、真緒は休日までの日数を指折り数えた。

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