第5話 嫁とコロッケ
「社長。今日の分が終わっていらっしゃるのなら、先にお帰りになっても構いませんよ。私が戸締りしておきますので」
午後6時。本日の入金やら日報やらをパソコンに入力し終え、ん〜と伸びをしていたレオンに、部長である工藤が話しかけた。店の表では田代がまだ接客中だ。新婚夫婦が新居を探しているのだが、東京からIターンしてきた夫婦の要望に叶う物件は、彼らの予算を超えていて、どこを妥協するかで揉めていた。
「でも田代の客、俺が『丸めた』方が早くねぇか?」
吸血鬼には強い催眠の能力がある。それを使って八方丸く収めた方がいいのでは、とレオンは言っている。あの調子では閉店予定時刻の8時過ぎまでかかるだろう。
工藤と田代は地元の霊山出身の人狼と狸である。元々は工藤の父が人の世で人外も家を持てるために、と始めた不動産屋であったが、東京からレオンがやってきたとき、二代目であった工藤はすんなり社長の席をレオンに譲った。強いもの・長じたものに伏するは狼の習わしである。工藤も100年ほど生きているが、500年生き続けているレオンには敵わない。それに、社長業務で寄合に出るよりも接客の方が工藤は楽しいと思っていたから、願ったり叶ったりであった。田代は2人よりもずっと若く、30代初めという見た目と実年齢が近い。
「ああいった客が来るたびに社長のお力を使っていてはきりがありません。それに、田代も成長しませんよ」
トントン、と書類を整えて工藤は澄ました顔で答えた。
「ついでに言うなら社長のお力はそう頻繁に使うものではございません。人間への干渉は最小限にとどめていた方がお互いのためでございます」
眼鏡のブリッジをクイ、と上げ、工藤は続けた。
「それに今なら奥方の店仕舞いに間に合うのではございませんか?」
「うっ」
真緒の営む和雑貨屋は6時閉店だ。こまこまと後片付けをすると6時半に店を出ることになる。今から出れば十分間に合う。
社長であるレオンが妻にベタ惚れなのは社員全員が知っている。毎日何かしら惚気話を聞かされているからだ。何もなくても真緒が可愛い、真緒に会いたい、と呟いてサボっているその姿を、何度どついて正気に戻したことか。
「田代は私が見て参りますので。佐伯係長、電話番お願いします」
「了解」
佐伯と呼ばれた若い男が、ビシッと工藤に向かって敬礼した。工藤が店の表へ出ると、佐伯はへにょりと笑い、部長もなんだかんだ優しいよなぁ、と工藤が向かった先を見る。
「ボスに連れられてこっち戻ってきましたけど、あんな
佐伯もここが地元の人狼である。もっと稼ぎたいと上京し、レオンの青山にある店で働いていた。が、人外との共存協定を無視した
懐かしいと思ったが、まだたった3年前の話である。
「ボスー、はやく帰んないと真緒さん先に帰っちゃいますよー?」
佐伯の声にようやく思い出から抜け出したレオンは、んじゃお先にと言って従業員出口から外へ出た。
真緒は暖簾をしまい、入り口の引き戸を閉めた。今日の売り上げとレジにある金銭が合っているか確認する。帳簿のつけ方はレオンの店で初めて本格的に学んだが、数字の苦手な真緒にとっては、パソコンの表に入力するだけとはいえ今でも慣れない作業だ。
次に売れた商品の補充をする。今日は籠バッグと簪の売れ行きが良かった。上がり框の高さを利用した収納の中から籠バッグを、後ろにある階段箪笥から簪を取り出し、商品を綺麗に並べ直す。
雑巾で軽く棚や畳を拭いていると、ガラリと引き戸が開いた。見上げるとレオンがのっそりと身体を屈めて入ってくる。
「レオン」
「よ、間に合ったな」
レオンはそう言うと、ふわりと真緒を抱きしめた。髪や額に軽い口づけが降ってくる。毎度のことながら、真緒はこのお姫様のような扱いに慣れない。家以外ではやらないで、と頼んでも、2人きりならこの調子である。
「なんか線香臭くねぇか? 寺に行ったのか?」
すんすんと真緒の匂いを嗅いだレオンは眉を寄せた。レオンの腕の中でもぞもぞと無駄な抵抗をしていた真緒が、
「すみよしやのお札が破けてたので、私が代わりに取りに行ったの」
と言うと、レオンはますます眉間に皺を寄せる。寺と神社はこの街の守護の要だが、そこに仕えるものにレオンはいい感情を抱いていなかった。吸血鬼として締め出されることもそうだが(聖域なのだから仕方ないと諦めてはいるが)、寺の住職は真緒の存在を物凄く面白がっている。あいつマッドサイエンティストの気があるぞ、といつだったか真緒に言ったはずだ。
「あんまり行くなよ? お前もいつ弾かれるかわからないからな」
まぁ処女のうちは大丈夫な気がするが。さて、終わったんなら帰ろう、とレオンはようやく真緒を解放した。
「そうだ、久しぶりに『裏』に寄っていこうぜ」
「うん、いいよ」
『裏』と聞いて真緒は楽しそうに笑った。
この街には商店街がふたつある。
ひとつは、参道に連なる、観光客向けの商店街。青瓦に時代劇に出てきそうな建物、白壁の並ぶ場所。
もうひとつは、参道を一本横に抜けたところにある、地元民のための、日常生活のための商店街。昭和中期あたりのレトロな店が所狭しと立ち並ぶ場所。参道の商店街を「表」といい、地元民の商店街を「裏」という。この街にやってくる観光客の通は、この裏商店街を満喫して帰るのを目的としている者もいるという。
連休と夕飯時とあって裏は結構な人だかりだった。人の多いのが苦手な真緒は一瞬遠い目をしたが、近くの金物屋に吊るされている箒とタワシを見て、ほっと息を吐く。
肉屋、魚屋、八百屋、惣菜屋、金物屋、履物屋。
真緒が住んでいた街にもあったはずの店たち。いつのまにか、姿を消した店たち。この街には、まだそれらが残っていて、人々で賑わっている。
「コロッケでも買うか?」
とレオンが言った。真緒はうん、食べる、と素直に答えた。きっといつか、この街のこの商店街も消えていくのだろう。それならば、消える前にたくさんの思い出を作っておこう。そう真緒は思っていた。レオンは単に小腹が空いただけなのだろうけど。
「おう、兄ちゃん。コロッケふたつな」
「あいよ! おう、レオンの旦那に奥さんじゃねぇか。今日は一緒に帰れるんだな。よかったな!」
馴染みの惣菜屋にレオンが声をかけると、店員の若い男性はにぱっと笑う。
今どき駆け落ちまでして夫婦になった一回りくらい歳の離れた2人、という話は、こちらの商店街でも有名である。レオンの愛情は目に見えてわかりやすいが、真緒のそれは静かに耳をそば立てないとわからない。夫のリードやエスコートに、毎回丁寧に「ありがとう」と柔らかな声で言っている。賑やかな愛情表現と、ひそやかな愛情表現。正反対と言ってもいい夫婦。いい。店員は2人の何気ない会話を聞きながら、しみじみとコロッケを揚げた。
揚げたてのコロッケをふたつ、レオンは受け取り、先にひとつ、真緒に渡す。真緒は笑顔で「ありがとう」と囁く。レオンは小銭で支払いをし、毎度あり、と店員は頭を下げた。普段はキャッシュレス派のレオンだが、この商店街では現金をよく使う。店がキャッシュレス対応に遅れていることもあるが、こういう場では、現金のやりとりの方が似合う、といつだったか真緒に話していた。
「夕メシ、ふぉうする?」
コロッケを齧りながらレオンが真緒に尋ねた。
「ん〜、軽くでいいかな。パンとスープとか。あっ、この前作ってくれた牛肉の塊が入ったスープ、また食べたい」
ふぅふぅと揚げたてのコロッケに息を吹きかけ、冷まそうとする真緒が答えた。コロッケを冷ますのに夢中で、うっかり人とぶつかりそうになるのを、レオンがさりげなく腕を引いて避ける。
「あれはな、何時間も煮込まにゃならねーから今度の休みにな。パンは……バゲットがもう無くなりそうだから買って帰るぞ」
「うん」
お気に入りのパン屋でパン詰め合わせセールの商品を見て、「今夜はパンだけでもいっか」と結論づけた市村夫婦であった。
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