歯車くらげ

概要:Twitterでお題をもらって書いたものです





 先輩の部屋は水の音で満たされている。窓際に並べられた観葉植物の群衆はまるでジャングルだ。一つの小さな世界を凝縮したようなその部屋に、僕は招待された。初めて訪れた先輩の部屋は、一人暮らしの女学生の部屋とは思えないほど、生命を感じさせる。

「適当に座って。紅茶を淹れてくる。」

長い髪を結って、先輩は笑う。普段は隠されている耳や首筋が露になった。

「先輩、ピアス、開けてたんですか?」

白い綺麗な耳に開けられたピアスホールは、清楚な先輩のイメージとはかけ離れていた。僕の問いに先輩は静かに目を伏せて頷いた。窓から光がさしていて、黒い髪を照らしている。肌に落ちる影が濃さを増して、小さなピアスホールを目立たせた。こぽこぽと水流の音だけで部屋は満たされている。

「何かが足りないから、満たされようと必死なの。」

紅茶の入ったマグカップを持って、先輩は僕の隣にすわる。土の臭いに負けない紅茶の香りが鼻を抜ける。肺いっぱいに紅茶の香りを招き入れると、息を吐きだすのがもったいないような気さえした。思わず顔がほころんでしまう。そんな僕を、先輩は満足そうにのぞき込んでいる。勝ち誇った表情は気丈な先輩そのもので、僕の顔は熱くなる。慌ててカップに視線を戻して紅茶を啜る。香りと同じ、芳醇な味わいが染み渡る。熱いくらいの紅茶がゆっくりと喉を伝っていく。

「君は、この部屋をみて、どう思った。」

「どうって、すごいなと……。

なんていうか。」

改めて、先輩の部屋を見渡す。四方に敷き詰められた様々な観葉植物は、艶のある鮮やかな緑に窓からの光をいっぱいに浴びて輝いている。サイズこそ違うが白で統一された鉢は、部屋の清潔感を保っているようだ。小さな机にはサボテンが、本棚の上にも多肉植物が並んでいた。そして、ゆらゆらと光を映す水槽は、小宇宙の様だった。僕は、思ったままにそれを先輩に伝える。先輩に比べれば拙い僕の語彙力で、精一杯の表現をした。僕がしゃべり終えると、先輩は少し難しい顔をして、ゆっくりと部屋を見渡した。

「この水槽だけが、似合わないって言われるの。」

緑に満たされたこの部屋で一番の存在感を示しているそれは、絶えず水を流し続けている。似合わない。確かに、言われてみればこの水槽だけが、統一感を損ねている。ゆっくりと水が回る。水だけが回る。

「何か、入れないんですか?」

僕の問いに指を口元に当てて、水槽の水をにらむ先輩は研究室にいる時のように真剣な目をしていた。小さな気泡がゆっくり水槽の中を回っている。水面にあたって揺らぐ光が先輩の瞳に模様を描く。茶色の瞳にシャボン玉が重なるような、七色が複雑に絡んだ色をしていた。

「とても繊細なの。傷が付くとすぐに死んでしまうから、難しいって聞いた。」

声は無機質で、ずっと遠くを見ているようだった。僕は、先輩の耳を見た。僕は先輩がピアスを付けている姿を想像できない。そこにある穴でさえ、現実ではないようだ。まるで、そこにいる先輩は僕の幻覚なのではないかと思うほどに、似合わない。

「傷が付いただけで死んでしまうような繊細な生き物を育てるには、足りないのよ。」

何が足りないのか、僕にはわからない。先輩は僕に答えを求めているような気がしたけれど、僕は言葉を発することがで

きず、黙って水だけが回る水槽に目を向けた。こぽこぽと、濾過槽から綺麗な水が吐き出される。小さな気泡がゆっくりと回っている。上部が半円上になっているその特殊な水槽は、やはり植物に囲まれたこの部屋で異様な存在感を持っていて、それが、どうしようもなく魅力的だった。

「何が、足りないのかしら。」

繰り返す先輩の隣で、僕は冷めた紅茶を啜る。もし、この水槽に命が入っていたら、この部屋は完成するのだろうか。先輩の言う『足りないもの』は見つかるのだろうか。少し苦くなった紅茶が喉を潤していく。二人が黙ったままの部屋に、水の音が満ちる。

「先輩は、この水槽で何を育てたいんですか?」

僕の問いかけをきっかけに、先輩は大きくため息をついて、結っていた髪をほどく。ばらばらと散った黒髪に引っ張られるように後ろに倒れこむと、僕を見て笑った。いつもの先輩だった。少し寂しさを感じながら、僕は答えを待つ。

「ミズクラゲ」

水音になれた耳が拾ったのは、この部屋に一つだけの時計の音だった。

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