最後のことば

 約束の時間ぴったりに、愛里は現れた。月明かりの下、ぎこちない挨拶を交わした僕らは、少し気まずそうに辺りを見渡す。

 でも、時間に余裕はない。僕は意を決して話を始めることにした。


 「愛里。」


 「はい…!?」


 彼女が素っ頓狂な声を挙げる。その様子に、僕の顔には思わず笑みがこぼれる。


 「そんな緊張しなくていいよ。」


 冗談めかしてそう言うと、彼女は少しむくれたが、目が合うと二人とも吹き出した。


 「じゃあ、改めて。これからする話、愛里には信じられないようなものばかりだと思うけど、最後まで聞いてくれる?」


 愛里は、言葉を発さずただ頷く。


 「今日は本当にごめん。でもそれは、愛里が悪いわけじゃない。突然な話だけど、愛里の話を聞いて記憶が戻ったんだ。それで、どうしたらいいかわからなくなって。けど、全部思い出した、僕が何者だったのかも、あの日何があったのかも、全部。」


 露骨に驚く愛里をよそに、僕は一呼吸置いて、覚悟を決める。


 「僕は、猫だったんだ。しかも、君が路地裏に置いていったあの、玉三郎、それが僕だよ。あれから僕は、死に急ぐように生きていたけど、あの日の朝方、まだ暗いうちにトラックに轢かれて死んだはずだった。」


 突拍子もないことを言っている自覚はある。愛里も、疑惑に揺れる表情を隠しきれてはいない。しかし、彼女は黙って話を聞いてくれていたし、なによりこれが真実である以上、僕はそれを彼女に伝えないわけにはいかなかった。


 「けど、気づけば僕は君の家にいた、それも人間の姿になって。それがなぜなのかは、はっきりとはわからない。でもきっとこれは、愛里と僕が分かり合える最後のチャンスとして、誰かがくれた時間だったんだと思う。僕たちの別れは、あまりに悲しいものだったから。」


 愛里は、まだ口を開かない。 


 「愛里、僕はあの時、君の家に来た時からずっと、君のことが大好きだ。君と離れても、憎もうとしてみても、その想いだけはずっと消えなかった。愛里…、これから君と共に過ごすことができないのは、悲しすぎるけど、でも…。」


 最後の言葉を言おうとしたとき、今まで一切口を開かなかった愛里が、唐突に言葉を挟んだ。


 「一緒にいれないってどういうこと…?」


 愛里の顔が視界に映る。そこには、一筋の光が伝っていた。


 「それは僕にもわからない。だけど、自分が猫であったことを君に告げたら、僕は消えてしまう気がするんだ。きっと、そのために僕は人間に生まれ変わったんだと思うから。」


 愛里の涙は止まらない。しかし、それでも僕の意思を否定するような言葉は、決して発さなかった。


 やがて愛里は、全てを察したかのように泣き止んだ。彼女のきらきらとした瞳は、月明かりに照らされて、とてもきれいだ。


 「玉三郎君、私もずっと君のことが大好きだった。けどそれは、人間になった今のあなたも変わらない。好きで好きでたまらないから、今日もあなたに告白されるんじゃないかって、そんな風に期待してた。バカだよね。」


 微笑む顔に、いつもの元気さは垣間見えない。


 「でもね、君に会えてよかった。猫としてのあなたももちろんだけど、なにより人間としてのあなたと過ごしたこの数か月間は、私の宝物だよ。この街に対する不安や心配を、あなたが全てほどいてくれた。あなたがいたから頑張ろうって思えた。だから、だから…。」


 止まったはずの光が、再び愛里の瞳から降り始めた。

 そんな様子を見て、もう泣かないと決めた僕の瞳にも、涙がたまる。


 「だから…、だから…!」


 必死で言葉を絞り出そうとする愛里を、


  


 …!




 僕は、思いっきり抱きしめた。愛里よりも大きくなった、時期に消えるこの両腕で、しっかりと。 


 愛里の腕もまた、僕の腰に回る。距離が近づき、お互いの心臓の音と息遣いだけが聞こえる。


 時が止まった世界で、僕と愛里は同時に呟いた。



 … ありがとう。 

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